第二十五集 終着点
霓瓏は目的の場所へ行く前に、祁禮の家に寄ると、家人に急ぎの伝言を託し、太桃矢に乗って飛び立った。
そう遠くはなかったので、すぐについたが、何かを予期していたのか、入口には何人もの団員が立っていた。
「どいてください」
霓瓏は切実な表情で頼んだが、そう簡単にはいかなかった。
「今は、ちょっと……、あっ!」
団員たちの制止を振り切り、霓瓏は強引にテントの中へと入って行った。
「……来たんだ。そうだよね。君なら気づくと思ってた。というか、心のどこかで願ってたのかも」
振り向いたその顔は、晴れやかだった。
「なぜこんな……」
「今更ってこと? 私はね、ずっとこのために生きてきたんだよ。ね? 父上」
まだ化粧はしていないようだ。
あの時見かけた掃除をしていた道化師の男性が、ニコニコと微笑みながら頷いた。
「父上は拷問の限りを尽くされた。右眼球を抉られ、鼓膜を破られ、舌を切り取られ、性器は腐り落ちた。顔は傷がひどかったけれど、治療でここまで綺麗になったんだ。他人には禹 海だとは判別できないくらいの傷だったんだよ。だから、太医は似たような体型の別の遺体を用意して、父上をこのサーカスへ逃がしてくれた。アザームーンは、こういう人間を引き取ってくれている慈善団体でもあるんだよ」
青年は父親の身体を抱きしめると、そっと放した。
「父上を護るためのお金は太医が払ってくれたらしい。あの人は、ずっと父上の親友でいてくれたんだ」
遠くを見つめる瞳には、もはや憤怒も憎悪もなかった。
「復讐するために宦官になり、央廠に入ったんですか」
「そうだよ、霓瓏」
「梨琿殿ほどの頭脳があれば、こんなことしなくても……」
その瞬間、梨琿は何かが弾けたように高笑いをし始めた。
「あはは! ああ、可笑しい。本当に。霓瓏、常々思っていたけれど、君は朱燕軍にいながら、どうしてそんなに平和ボケしているんだい? 驚きだよ」
霓瓏は豹変していく友人の姿に、涙が出そうになっていた。
「父上はね、頭が良すぎたから殺されたんだよ? いや、正確には生きているけど、でも、もう私のことすらわからないほど、思考が退化してしまっている。一人じゃ何もできない。まだそんな年齢ではないのに。拷問の後遺症だよ。生きながらに、殺されているんだ。ずっと、この先もね」
梨琿は父親を見つめ、目が合うと、安心させるように微笑んだ。
心の中では、泣いているのに。
「十年前だった。家族で訪れた国に、偶然、このサーカス団が来ていたんだ。そこで見て知ったんだ。父上が本当は生きていることを! 私はすぐに話しかけたよ。化粧を落とし、掃除をしている父上にね。でも、父上は私のことがわからないようだった。それどころか、まともな感情すら……」
梨琿は声を震わせ、小さくため息をついた。
「すぐに太医に手紙を書いた。父上の最期を知っている唯一の知人だったからだ。はじめは『知らない』の一点張りだったけれど、一年間、毎日手紙を出したら、根負けしたのか、すべて話してくれたんだ」
梨琿は懐から一通の古びた紙の束を取り出した。
「ここに詳しく記してある。父上に対して行われた非道の数々がね……」
もう、霓瓏には質問すら浮かばなかった。
ただただ、目の前で壊れていく友人を見つめるので精一杯だった。
「だからね、私はこの頭脳を復讐に使うことに決めたんだ。父上を殺すよう命じた上皇は四年前に死んでしまったから間に合わなかったけれど、でも、あいつなら殺せる。実行犯の、太監ならね!」
一歩遅かった。
梨琿は胸元から小瓶を取り出し、蓋を開けた。
「霓瓏なら、これが何かわかるよね」
「お願いします。やめてください。自殺ほど愚かなことはないでしょう?」
「そうかな? 名誉と家族の為なら、私は何でもできるよ。誇りを持ってね」
「養父母のためですか」
「……穆家は本当にあたたかかった。何度も復讐を忘れそうになるほど、私を愛し、大切に育ててくれた。でも、やっぱり違うんだよ。私には、実の父上よりも大事なものなんて見つけられなかったんだ」
「そんな……」
「いいかい、霓瓏。最期の頼みだ。太監を自殺と報告してくれ。そうすれば、穆家には迷惑が掛からず、私は責任をとって死ねる。お願いだ」
涙が溢れた。
霓瓏は袖で拭うと、空から太桃矢を出して言った。
「嫌です。誰も死なせはしません」
「……仙術だね」
「ええ。どんな毒でも中和出来ます。たとえあなたがそれを飲んでも、死ぬことはありません。絶対に」
「卑怯だね」
「ええ。そうです」
「穆家のみんなを殺す気?」
「いえ。誰も死なせないと言ったはずです」
「どうやって?」
「私ならなんとかできるぞ」
梨琿は突然聞こえてきた別の声とその人物たちに、驚きのあまり、瓶を落としてしまった。
「おお、よかったな霓瓏。彼は死ぬ機会を自ら放棄したようだ」
「兄上、あまり楽しそうにする場面ではありませんよ」
テントに入って来たのは、祁禮と祁旌だった。
「央廠の青年、殺した太監による、皇帝家が関与していない悪事をどのくらい知っている?」
祁禮に話しかけられ、梨琿は動揺しながら答えた。
「じゅ、十くらいは知っていますが……」
祁禮は祁旌に目配せすると、満足そうにうなずいた。
「では、それを陛下の御前で証言できるかな? 証拠もあるとありがたいのだが」
「出来ますけれど……。え?」
「うんうん! 央廠にはさんざん嫌がらせを受けてきたからな。私もここいらで復讐するとするか」
「兄上はいつでもしているでしょうに」
「あれはただの嫌がらせ返しだ。復讐ではないぞ」
祁旌は兄の発言にあきれながら、「じゃぁ、霓瓏。俺は兄上の作戦にのってくるから。また家でな」と言い、テントから出て行った。
「ど、どういう……」
梨琿はまだ混乱しているようだ。
「霓瓏、説明していないのか?」
「いや、話す前にお二人が入ってきちゃったんですよ」
「お前が泣く声が聞こえたから急いでやったんだぞ」
「うっ……。それはどうも」
霓瓏は少し恥ずかしがりながらも、気を取り直して梨琿に向き直った。
「梨琿殿、あなたはわたしの友人です。死んでほしくありません。でも、罪にも問いたくない。そもそも、相手は極悪人ですから」
話が見えてこない梨琿は、困ったように狼狽えながら話の続きを待った。
「太監殿には、生前の罪を全部償ってもらおうと思うんです」
「……へ? し、死んでいるのに?」
「そうです。官職と爵位を剥奪し、山にポイっと捨ててしまおうかと」
「え、それって……」
梨琿は目を見開いた。
「そのうえで、あなたのお父上の爵位を取り戻しましょう。生きていることは陛下にお伝え出来ませんが、きちんとしたお墓を建て、祀ることができます」
「で、でも、陛下が先帝の間違いを正すかどうかなんて……」
「そこは安心したまえ」
祁禮は羽織っているふわふわとした外套を撫でながら、爽やかに微笑んだ。
「陛下は先帝とは仲が悪かったからな。色々理由はあるが……。ここでは控えておこう」
「じゃ、じゃぁ……」
霓瓏は梨琿に近寄り、優しく言った。
「お父上の名誉を取り戻すんです」
「あ……、あああ……」
梨琿は大粒の涙を流しながら膝から崩れ落ちた。
そばで座っていた父親は、目の前で泣いているのが息子だとはわかっていないようだったが、背中を撫で、微笑んだ。
まるで、大切な宝物を愛でるように。




