養花天の薬術師

第一章

第二十四集 毒

「祁旌(きせい)殿、サーカスに連れて行ってください」

　帰宅するなり、すぐに祁旌(きせい)の部屋へと向かった霓瓏(げいろう)は、開口一番こう告げた。

　祁旌(きせい)は購入予定の火薬や武具の決済をしていたところに突然そう言われたので、何がなんだかわからず、動きが止まってしまった。

「あのですね、祁旌(きせい)殿。今街ではサーカスの話題で持ちきりなのです。こんなところで仕事をしている場合ではありませんよ。流行に乗り遅れていいのですか」

「え、え？　何だよいきなり。それに、さあかすって？」

「サーカスです。さあかすではありません。行くんですか？　行かないんですか？」

「いや、だから、情報が少なすぎてよくわからん」

「楽しそうです。ええ、とにかく。はい。楽しそうなところです」

「……霓瓏(げいろう)がそこまで言うのは珍しいなぁ」

「そうでしょう？　行きましょう！　ね！」

　詰め寄る霓瓏(げいろう)の気迫に押され、祁旌(きせい)はしぶしぶ頷いた。

「え、あ、まぁ……。いいけど、今日は無理だぞ」

「わかりました。じゃぁ、明日行きましょう」

「ううん、じゃぁ、うん」

「よし！　では、明日ですよ！　絶対！」

「わかったけど……。あ、そうそう。兄上が……」

「げ。祁禮(きれい)殿が何ですか」

「そんなに露骨に嫌そうな顔をするな。兄上が来てほしいと言っていたぞ。皇宮のはずれにある遺体安置所に」

「え、まさか……」

「そのまさかだ。兄上は使える権力のほんの一角を利用して、お前を検視に参加させることに成功したらしい」

「わあ、わたしの予定やら意向は無視ですね」

「いいじゃないか。医療行為好きだろ？」

「まぁ、嫌いではありませんけど……」

「じゃぁ、行ってこい」

「え、今から⁉」

「十五時と言っていたぞ」

「え、あと一時間しかないじゃないですか！」

「そうだな。はやく支度した方が良いだろうなぁ」

「ぐぬぬ……。朱家の男たちはわたしのことを何だと思っているのか！」

「そうだな……、優秀な薬術師？」

「……いいでしょう。それならまぁ、そうですね」

　霓瓏(げいろう)はまんざらでもない顔をして自室へと行き、支度を済ませると、さっそく出発した。

　おやつ時が近くなると、様々な飲食店から甘い香りが漂ってくる。

　それらの誘惑を心の中で蹴飛ばし、皇宮へ急ぐ。

（……太監の死因がわかれば、何かが見えてきそうな気がする）

　霓瓏(げいろう)の歩く速度は自然と早くなっていた。

　宮城(きゅうじょう)の門へ着くと、太医院の若い見習いの男性が待っていた。

「霓瓏(げいろう)先生、ご案内いたします」

「あ、ど、どうも」

　見習いの男性曰く、「祁禮(きれい)様が急がせろとおっしゃっていて……」とのこと。

　朱家の軍配者の権力は太医院にも届くのかと、霓瓏(げいろう)は少し呆れてしまった。

「おお！　来たな」

　寒々しい雰囲気の遺体安置所へ着くと、あの不愛想な太医の横で祁禮(きれい)が微笑みながら立っていた。

「さぁ、視てくれ」

「え、あ、じゃぁ、はい」

　霓瓏(げいろう)は手を洗い、作業用の前掛けを身に着けると、遺体の横に立った。

「では、布をとるぞ」

「お願いします」

　季節が冬なのが幸いして、腐敗は緩やか。

　霓瓏(げいろう)は手順にのっとり、頭部、眼球、口腔内、体表面など確認し、開腹していった。

　若い見習いは嘔吐をしに外へと駆けだしてしまったが、さすがは歴戦の太医、ずっと霓瓏(げいろう)の手際を見つめている。

　祁禮(きれい)も興味津々と言った様子だ。

「……太医殿、これって……」

「見たことが無いと言えば、嘘になるが……」

　二人は視線を合わせると、すぐに頷き合った。

「閉じるのはやっておく。霓瓏(げいろう)先生は血液と体液の検査をお願いしますぞ」

「わかりました。よろしくお願いします」

　わけがわかっていないのは祁禮(きれい)だけのようだ。

　採取した血液と体液をもって安置所を出た霓瓏(げいろう)についてきた。

「霓瓏(げいろう)、どういうことなんだ？」

「祁禮(きれい)殿、お願いがあります。すぐに太医院に警護をつけてください。期間は犯人が見つかるまでの間です」

　霓瓏(げいろう)の言葉から十の事柄を察した祁禮(きれい)は、強く頷くと、すぐにその場を立ち去った。

　霓瓏(げいろう)は調剤室へ入ると、すぐに検査を始めた。

　いくつかの毒物を、血液と照らし合わせていく。

（……やっぱり。これは央廠が毒殺に使う毒だ）

　そう。太監の身体から検出されたのは、央廠が伝統的に使用してきた毒物だったのだ。

（央廠の太監ならば解毒薬を持っているはず。それなのに飲まなかった、いや、飲めなかったのは、これが殺人だからだ）

　霓瓏(げいろう)は目の前にある毒物を見ながら、どういうことなのかを考え続けた。

（央廠が手を下すのは、公式でも非公式でも、陛下の命令があった時だけ……。だとしても、今回は違う。央廠の太監を殺すのに央廠の毒を使うなんて、『央廠の人間が犯人ですよ』と言っているようなものだ。……これは復讐だ。個人的な恨みによる犯行か）

　でも、いったい誰がこんな特殊な配合の毒物を手に入れられたのか。

　央廠の毒は歴代の長(おさ)のみに伝えられてきた極秘のもの。

　おいそれと調合できるものではない。

（でも……。央廠の人間はみんな間者(スパイ)の訓練を受けてるし、なんだったら自白剤くらいなら簡単に手に入れられる。陛下への忠誠心さえなければ、仲間を調べることくらい容易(たやす)いんじゃ……）

　その時、慌てた様子で太医が調剤室へと入って来た。

「霓瓏(げいろう)先生、喉の奥にこれが押し込んであったぞ」

　それは革で出来た袋だった。

「中を見ましたか？」

「いや……。先生が見たほうがいいのかと思ってな」

「では、御一緒に」

　霓瓏(げいろう)が慎重に袋を開くと、中から折りたたまれた紙が出てきた。

「開きますね」

　六つに折られたそれには、達筆な文字でこう書かれていた。

――三十年前、工部尚書だった禹(う) 海(かい)を殺した犯人は私です。

「三十年前……？」

　霓瓏(げいろう)は何かがひっかかった。

「そんな……。そういうことだったのか……」

「え、どうしたんですか？」

　太医は顔を青くすると、その場に座り込み、ただ一点を見つめながら黙ってしまった。

「あの、話してくださいませんか？　そうしないと、次に狙われるのは、事実を知っている人間かもしれないんですよ」

　霓瓏(げいろう)はしゃがみこみ、太医と目線を合わせようと顔をのぞきこんだ。

　太医は額に手を当て、深くため息をつくと、ぽつりぽつりと話し始めた。

「三十年前……、当時の工部尚書だった禹殿の指揮で、新しい牢獄が建設されたのだ。禹殿は本当に頭がよくてな。今でもその牢獄からは一人の脱獄者も出ていない。完璧な牢獄……」

　霓瓏(げいろう)はだんだんと事情がつかめてきた。

「牢獄を作った大工や石工は……、殺されるんですよね、たしか」

「そうだ。内部構造を漏らされるわけにはいかないからな。牢獄の建設に携わった者は一人残らず殺されるのが通例だ。もちろん、事故に見せかけて」

　太医は再び溜息をつくと、ゆっくりと話をつづけた。

「当時の陛下は……、今上帝(きんじょうてい)のお父上は、精神を病んでおられた。妄想が妄想を呼び、こう思ったそうだ。『工部尚書が皇帝位を狙っており、あの牢獄に私を閉じ込める気だ！』と」

　霓瓏(げいろう)はだんだんと何かが繋がって行くような、嫌な予感がした。

「設計図と共に、禹殿は……、葬られてしまったのですね」

「そうだ。官職も爵位も奪われ、ただの民間人……、いや、それ以下の遺体として、山に捨てられたと聞いている」

　太医は言葉に詰まり、うつむいた。

「妻は自死。幸いだったのは、一人息子がどこかの裕福な家に養子として引き取られたことだ」

　霓瓏(げいろう)はそれを聞き逃さなかった。

「その家がどこかわかりますか？」

「たしか……、えっと、何と言ったか……。忘れたな」

　自分から血の気が引いていくのがわかった。

「おい、先生」

　太医が霓瓏(げいろう)の腕を掴み、涙をためた目で言った。

「お願いだ。やめてくれ」

　太医は察したのだろう。

　霓瓏(げいろう)が、気づいたことに。

「用意したんですね。そうなんですね」

「海(かい)は親友だったんだ！　だから、だから……」

「どこにいるんですか」

「今更暴いてどうする⁉　意味がないだろう！」

「彼が自殺してもいいんですか」

　太医はハッと息を吸うと、声を押し殺して泣き出した。

「すると思うのか」

「そのために、生きてきたんでしょう。彼は」

「頼む。助けてやってくれ」

「そのつもりです」

　霓瓏(げいろう)は太医の手をそっと腕からはずすと、立ち上がり、ある場所へと向かった。

　きっと彼もその場にいるのだろう。

　何もかもを、終わらせる前に。