第二十集 虫鬼
北東の国境線を護り始めて二週間。
「なんか、暇だな」
「いいことじゃないですか」
祁旌のいぶかしむ目をかわしながら、霓瓏は今日もお茶を啜っている。
先日、向こう岸の妖術師にちょっとした意見を述べたところ、一日に一回は来ていた船による偵察部隊もまったく来なくなったのだった。
「何をしたんだ」
「別に? お互い、頑張りましょうねって言っただけです」
「本当か……?」
祁旌は霓瓏を見ながら、ふぅっとため息をついた。
「お前が俺たち朱燕軍を大事に想ってくれているのはわかってるが、あまり無茶はするなよ」
「大丈夫ですよ。わたしはわたしの家を護っているだけですから」
祁旌はカラカラと笑う霓瓏を見て苦笑すると、本日も演習場へと向かって行った。
「当面の敵は、そろそろ動き出す鬼魅たちでしょうねぇ」
霓瓏は白い息を吐き出しながら、干してある薬草の状態を確かめた。
「解毒薬がちょっと足りないかな……」
この駐屯地に着いたその日に、周辺の村に住む住人たちの体調改善を行い、かなりの量を使ってしまったのだ。
「凍血系の毒を使う魑魅とか出たら困るなぁ……」
こういうとき、口にするとそれが現実になるなんてことが物語などではよくあるけれど、例に漏れず、霓瓏の心配は現実のものとなってしまった。
演習場の方が騒がしい。
ふとそちらに目を向けると、初めて朱燕軍の軍幕を見た時同様、〈病〉が醸し出す灰色のような嫌な靄が漂い始めていた。
太桃矢に乗ってすぐに向かうと、すでに三人の兵士が真っ青な顔をして倒れていた。
「霓瓏! いきなり意識を失って……」
「凛冽虫ですね」
「りんれつちゅう?」
「そうです。魑魅の一種で、人間の血を吸う代わりに、体内に凍血毒を残していくんです。また吸いに来るために、獲物を仮死状態にするんですよ」
「治せるか?」
「誰に聞いてるんですか。もちろんで……」
その時、祁旌がふらりとよろめき、膝から崩れ落ち、倒れた。
「き、祁旌殿!」
霓瓏は一番近くにいた衛生兵に凍血毒の解毒薬を渡すと、すぐに祁旌の脈を測った。
「熱い。……白虹鬼虫だ」
白虹鬼虫は凛冽虫の中に生まれてくる女王蜂のような存在で、その力は鬼魅に分類される。
血を吸う際、凍血毒を残すのまでは同じだが、あたたかい血を好むので、その毒と相反する効果を持つ発熱性のある細菌を獲物に注入する。
そのせいで、刺された獲物は灼熱の体内を極低温の血液が流れる痛みに耐え続けなくてはならなくなる。
「祁旌殿を軍幕まで運んでください。その間に、みなさんは順番に予防薬を飲んでください。すぐに!」
いつもとは違う緊迫した雰囲気に、兵士たちは霓瓏の言葉に従って動き始めた。
霓瓏は予防薬を薬缶で煮出し、衛生兵に配らせ、そのまま祁旌が運ばれて行った軍幕へと入って行った。
「祁旌殿、聞こえますか? 意識を失っては駄目ですよ」
痛みに耐えながら、祁旌は頷いて見せた。
「今から薬を調合しますが、完治には足りません。でも、内功の強い祁旌殿ならば、充分乗り越えられます。いいですか、どんなに痛くても、気絶だけはしないでください。わたしが寝て良いと言うまでは、意地でも起きていてください」
「わ、わかった」
祁旌は血管を針で刺されるような痛みを全身に感じながら、布を噛み、歯を食いしばった。
霓瓏は空から取り出した百味箪笥から次々に生薬を取り出すと、潰し、擂り、練ってから清潔な木綿で包み、絞った。
「いいですか。今からこれを血管内に直接注入します。ひどい眩暈もするし、頭も痛くなるし、とにかく副反応が激しいです。耐えてください」
霓瓏は太桃矢を小さく縮め、祁旌の腕にある一番太い血管から薬液を注入した。
仙術で力を増し、その効能を高めていく。
「んぐうううううう!」
激しい痛みに祁旌が布を今にも噛みちぎってしまいそうだ。
「さぁ、頑張ってください。祁旌殿なら大丈夫です」
必死で歯を食いしばる祁旌の手首に触れる。
脈は速いが、血管から冷たさがひいていくのがわかる。
「さすがです。あなたは強い」
顔から汗が吹き出し、瞳が充血しているが、体温も徐々に正常な値へと戻っている。
「祁旌殿には少し少ないくらいがちょうどよかったみたいですね」
「ふう、ふう……。嘘つけ」
「あはははは。もう大丈夫ですよ。ただ、白虹鬼虫を探して駆除しないと、他の人も被害に遭います。早く元気になって、討伐に出ましょう」
「ああ、わかった」
「じゃぁ、寝てもいいですよ」
「ああ、わかっ……」
すう、すう、と、規則正しい寝息が聞こえてきた。
「多分、何をしても一時間は起きないでしょうから、その間に身体を拭いて着替えさせてください」
霓瓏は衛生兵にあとの処置を任せると、すぐに軍幕から出た。
「他に体調不良の人はいませんか⁉」
衛生兵が三人手を挙げた。
それぞれの場所には二人から三人ずつ兵士が倒れている。
霓瓏は解毒薬をさらに追加で調合し、衛生兵に余分に渡した。
その後、すぐに健康な兵士たちを集めると、虫について説明を始めた。
「凛冽虫は金製のもので叩けば簡単に殺せます。ただ、白虹鬼虫は知能があるので、簡単にはいかないでしょう。これが標本です」
霓瓏は空からピンでとめたそれぞれの虫の剥製標本を取り出すと、兵士たちに見せた。
「この口の部分にある針に気を付けてください。白虹鬼虫は見つけても無理はせず、距離をとって可能なら捕獲をお願いします」
兵士たちは力強く返事をすると、すぐに隊を組んで動き出した。
陽も完全に落ち、あたりには篝火が煌々と光を放っている。
「みなさん、本当にお疲れさまでした。お湯をたくさん用意してあるので、お風呂に入ってください」
霓瓏は疲れて帰ってきた兵士たちを労うために、ろ過した川の水を大量に使って湯船を用意しておいた。
「おおお! 霓瓏先生、ありがとうございます!」
「風呂だあ!」
「綺麗なお湯の風呂なんていつぶりだろうか……」
朱燕軍は湯船に浸かるのは五日に一度。身体を清潔な湯と布で拭き清めるのは二日に一度。
湯船は階級によって入る時間が決まっているので、どうしても、末端の兵士の順番が来る頃にはお湯に垢が浮いている。
それでも、あたたかなお湯に浸かれるというのは、限られた物資の中でやりくりするしかない状況においてはとても貴重なことなのだ。
「薬湯ですから、ちょっと傷にしみるかもしれません。でも、しっかり肩まで浸かって、疲れをとってくださいね」
霓瓏の仙術により、お湯は絶えず注がれ続けているので、だれがどの時間に入っても、お湯は新しいものに入れ替わっているという寸法だ。
「大盛況だな」
「あ! 祁旌殿。お元気になられましたか」
「もう大丈夫だ。心配をかけたな。それに、貴重な薬草を遣わせてしまった」
「いえいえ。薬とは使うためにあるのですから」
「お湯は一般の人々にも配ってくれたのか」
「もちろん。祁旌殿ならそうしてくれと言うと思いまして」
「なんだか、心を読まれているようで気持ちが悪いな」
「失礼な!」
「あはははは」
祁旌はいつもの豪快さを取り戻したようだ。
霓瓏はホッとしながら、二回目の予防薬を煮出し始めた。
「それで、虫どもはどんな感じだ?」
「凛冽虫はけっこう退治できたようです。白虹鬼虫は捕獲こそできなかったものの、巣を見つけてくれた隊がありまして。夜のうちに行ってこようかと思っております」
「……は? ダメだ! こればかりは行かせられない!」
「あのですねぇ、祁旌殿。彼らのような虫は仙子のことは刺さないんですよ。何故なら、血が煙なので。ということは? わたしが行くのが一番安全で確実だということです」
「俺も行く。断らせないからな」
「病み上がりの人に行く許可を出すとでも? 薬術師として、却下です」
「将軍は俺だ。行く」
「……はぁ。まったく。どうしてそう頑固なんですか」
「お前もな」
「それを言われると、もうどうしようもありません」
「だろ? じゃぁ、行こう」
「護衛もつけずに? わたしは本当に大丈夫ですが、祁旌殿は何人か近衛を連れて行った方がいいですよ」
「……絶対?」
「ううん……。何回排尿しました?」
「えっと……、薬の効果で少し朦朧としながら厠へ向かったから、正確には覚えていないが、五回は行ったと思うぞ」
「じゃぁ、白虹鬼虫の発情誘発分泌物は体内から消えてそうですね」
「そ、そんなものまで体内にあったのか……」
「一種の印ですね。再び吸いに行くときに見つけやすいようにするんです」
「そういうことか……。急に悲しくなってきたよ」
「まぁ、女性がつけてくれる接吻の印とは違いますからね」
「……もう行こうぜ」
「はいはい」
祁旌は最低限の装備だけ身に着けると、本来は演舞用の金で出来た剣を持ち、霓瓏と共に針葉樹がそびえる森の中へと入って行った。
途中、何人もの兵士が「お供します!」と駆け寄ってきたが、祁旌は「ゆっくり休んでおけ」と言って帰していた。
「愛されてますねぇ」
「まあな。俺もあいつらが大事だ」
「いいことです」
「で、作戦は?」
「巣を夜のうちに松脂で封をして燃やすのが一番なんですけど……」
霓瓏の目から何かを感じ取ったのか、祁旌は小さくため息をついた。
「何か採取したいんだな?」
祁旌の問いに、霓瓏は元気よく答えた。
「その通り! 貴重なんです! 彼らは人間の血液だけでなく、花々の蜜も吸うんです。そして、その蜜で子育てするんですけど、その蜜には毒が含まれていて、これがまた薬効の高い良い薬になるんです!」
「あいつらの毒ってことか?」
「いえいえ。花々にある毒です」
「え、毒草の蜜を吸うのか」
「そうです。彼らは毒に耐性があるので、吸っても大丈夫なんです」
「ってことは……、奴らは蜂みたいに蜜を巣にため込んでるってことで……」
「そうなんです。だから、巣が欲しいんですぅ」
まるで小動物のような可愛らしい目で見つめてくる霓瓏だが、祁旌には頭痛の種にしかならない。
「……まったく。面倒な」
「いいじゃないですかぁ」
「わかった。わかったよ」
「わあい!」
祁旌は喜ぶ霓瓏を見ながら、大きくため息をついた。
巣のある場所は森の奥。
大きな岩の側だと報告があった。
「あれですね」
茶色の大きな巣。
祁旌はとても嫌な予感がした。
「あれってさ、もしかして……」
「そうです。人間の骨を使って作られた巣です」
「な、なるほど。だから人間の形をしているんだな」
まるで木に吊るされている何人もの人間のようにみえる巣。
それもそのはず。
白虹鬼虫たちが殺した人間の骨を核にして出来ているのだから。
「悍ましいな」
「まぁ、人間も動物の内臓を水筒に加工したりしますし。同じですよ」
「えええ……」
こういうところの感覚はやはり〈人間〉と〈仙子〉では違うらしい。
霓瓏は特に精神的な負荷は負っていないようだ。
「では、せっかく松がいっぱい生えているので、それを燃やして巣を燻しましょう」
「煙で追い出すんだな」
「その時に、行動を阻害するような薬草も一緒に燃やすので、多分、パタパタと地面に墜落するはずです。でも、白虹鬼虫は頭が良いので、煙を吸わずに脱出する可能性もあります」
「それを俺が斬ればいいんだな」
「その通りです。よろしくお願いします」
「はいよ」
二人はそれぞれ配置につき、作戦が始まった。
結果から言うと、大成功。
凛冽虫は地面に落ち、そのまま動かなくなった。
白虹鬼虫は案の定、飛び出してきたが、そこを祁旌が美しい太刀筋で斬り伏せた。
二人は穴を掘り、虫たちをそこへすべて投げ入れると、火をつけ、松の葉をかぶせた。
「わあい! 巣だ! 蜜だああ!」
「よかったな。でも、そんな大きなもの、どうやって持って帰るつもりなんだ?」
巣は成人している人間五人分ほどの大きさがある。
「……わたしが仙術師だってことお忘れですか?」
「あ」
「こんなもの、浮かせて持って帰れるんですよ!」
霓瓏は太桃矢を掴むと、一振りした。
「そうかそうか。はいはい、よかったな」
「ふふふんっ!」
二人は「ちなみに、俺はその蜜をつかった薬を飲む可能性はあるのか?」「え、ありませんよ。だって、この蜜は塗り薬に使うんですもん」などと話しながら、朱燕軍の元へと帰って行った。
すでに朝陽が昇ろうかという、黎明の時間に。




