第十六集 兄
祁旌宅の中庭には通りに面した窓があり、そこから街行く人々を眺めながら過ごすのは、それだけでとても楽しい。
「で、どうなったんですか?」
先日、玲国であった丞相の殺人事件とその背景に纏わる悲しい出来事の顛末について、霓瓏は茶菓子をほおばりながら祁旌に問うた。
「ああ、正直に簫家で話し合ったらしい。当主は父親を殺されたことを罪に問う気はないってさ。それほどに、息子、まぁ、養子だったわけだけど、慈志を愛しているんだな」
「慈志殿の所在はどうなるんですか? 身分とかもろもろ」
「簫家の世子からは外れるらしい。自分でそう望んだらしいぞ」
「へぇ」
「玲国の少し離れた場所に小さな領地をもらって暮らすんだと。そこは偶然にも、皇帝家の避暑地の近所だとか」
「あらあら、偶然、ですねぇ」
「例え一年のうち夏の間だけでも、息子に会いたいんだろうな」
「人間は大変ですねぇ」
「仙子族はこういうことはないのか?」
「どうでしょう? 実家が平和そのものなのでわかりません」
「お気楽だな、お前は」
「それが長所ですから」
霓瓏は茉莉花茶で口の中をさっぱりとさせ、ふぅっと一息ついた。
「それにしても……、祁禮殿はあんなところで何をしているのでしょうか」
「ああ……。兄上は市井の噂話を収集するために、時折ああいった格好をして潜入するらしい」
「まぁ、女性の方が噂話の伝達率がいいですもんね。視野が広いし、違和感を見つけるのが上手いですから」
祁禮は雪のように白い深衣に身を包み、髪は優雅に結い上げ、梅結びの組みひもを垂らしている。
「よく露見しませんね」
「いや、近所の奥様方には祁禮だと露見しているが、みんな気にせず話してくれているのだ。まぁ、俺が言うのもなんだが、初見では女性に見えるのではないか?」
「喉仏さえ隠せれば、まぁ、そうですね。祁禮殿は美人ですから楽勝でしょうね」
「なんだ、また機嫌を損ねたのか」
「けっ」
清楚な色合いながら刺繍が豪華で良家のお嬢様といった風情の祁禮。
とても楽しそうな足取りで市井へと消えていった。
「今日は何かお仕事でもあるんですか?」
「俺は休みだ。やることと言えば……、新しい馬具を注文しに行くくらいだな」
「またですか」
「ウルナが紹介してくれた職人が優秀でね」
「仲良しですねぇ」
「お前にも会いたがってたぞ」
「いやぁ、草原にはお菓子の屋台が無いから……」
「お前はそういうやつだよな」
「へへへ」
「じゃぁ、俺は行ってくる」と、祁旌は立ち上がり、雑踏めがけて歩いて行ってしまった。
「……依頼もないし友達もいないしお金もないし、酷いくらい暇だなぁ」
祁旌について行けばよかったと少し後悔したところで、霓瓏も市井へ出ることにした。
屋敷を取り仕切っている敏腕万氏に「お夕飯までには戻ります」と告げ、霓瓏は買えもしないのに薬舗巡りをすることにした。
「何か新しい生薬入荷してないかなぁ。出来れば、西のやつ」
中原から見て遥か西方には魔女族や魔法族が多く住まう国がある。
そこでは、また一味も二味も違った特徴を持つ薬草が栽培されていたり、自生したりしており、中原にはその中のごくわずかなものしか入ってこない。
その理由は、中東に住まう魔術師たちが大量に買い付けているからだ。
霓瓏も直接買いに行けたらいいのだが、いかんせん、体力が無い。
長すぎる旅程は貧弱な霓瓏にはまだ無理だ。
「東の果てにある芙蓉国にも独自に発達した生薬があると聞く……。はぁ……。これだから薬術は楽しいんだ」
霓瓏が上機嫌で一店舗目の薬舗へ向かっていると、叫び声が聞こえてきた。
「……祁禮殿か⁉」
声のする方へと走って行くと、手遅れだった。
「おい、あんまり私をなめるなよ」
女装した祁禮に腕をねじり上げられ、顔を踏みつけられている大男。
「あ、霓瓏じゃないか! なんだ、助けに来てくれたのか?」
「いや、だって、悲鳴あげましたよね?」
「数回叫べば手を放してくれると思ったんだが、しつこくてな。仕方がないから、やっつけてやった」
「あ、ああ……。そうですか……。その恰好で……」
「せっかくの美貌が台無しだよまったく。霓瓏、こいつを錦鏡衛に突き出して帰ろう」
「え、わざわざ皇帝陛下直下の警察諜報機関に突き出すんですか?」
「だって、私、朱燕軍の軍師だよ? 国にとって超大事じゃない?」
「……好きになさってください。では、わたしは散歩の続きがありますので」
「おい、待て」
祁禮は男の顔を蹴飛ばし気絶させると、そのまま放置し、霓瓏の後を追った。
「げ。何でついてくるんですか」
「いいじゃないか。今私は絶世の美女だぞ? 一緒に歩けるなんて光栄だろう!」
「……さすがに泣いちゃいますよ」
「なんだお前、本当に女性にちやほやされたことがないんだな」
「ううう」
無理やり腕を組まれ、霓瓏は悲しみに暮れながらも振りほどくことはせず、おとなしく連れて行ってあげることにした。
「で、どこへ行くんだ?」
「薬舗ですよ。何か良い生薬が入ってないかと思って」
「お金ないのに?」
「な、なぜそれを!」
祁禮はニヤリと微笑みながら話し始めた。
「万やほかの使用人たちに渡している薬、ちょっと興味があって少し採取して皇宮の太医のところへ持っていったんだ。そうしたら、とても驚いていたよ。どんな高級品も敵わないほどの出来だって。相当質の高い生薬を使わないと作れないそうだ」
祁禮の悪戯っ子のような輝く瞳に見つめられ、霓瓏は戸惑った。
「それだけ良い物ばかりを購入していたら、お金はすぐに底をつくだろう」
「まったく。本当に好奇心の塊のような方ですね」
「まあな!」
「買えなくても、見ているだけでも楽しいんだからいいんです」
「私が買ってやろう!」
「……え?」
聞き間違いだろうか。いや、そうではないと信じたい。
「だから、私が買ってやると言っているのだ。銀子も金子も使いどころが無くて困っていたところだ」
「な、え、ありがとうございます!」
「うんうん。じゃぁ、購入した代金分、私からの依頼を受けてもらうからな」
「……ですよね。わかりました。そうだと思ってました」
「察しがよくて助かるぅ!」
霓瓏はどうせ依頼を受けるのなら、その分、たくさん買ってもらおうと意気込んだ。
「では、行きますよ。後悔しないでくださいね!」
「あっはっは! この街の生薬を買い占めてやろう!」
まさかそこまでする気はないが、祁禮は本気だったらしい。
五店舗も巡った薬舗で、霓瓏が「欲しい」と言った生薬を全部買ってくれた。
むしろ「それだけでいいのか?」と聞かれたほどだ。
両腕も肩も、購入した生薬の包でいっぱい。
今ならば、「ちょっと行って一国滅ぼしてこい」と言われたら従ってしまいそうなほどの幸福感に包まれていた。
「もっと買うんだと思ってたぞ」
「いやいや、いくら仙術で長持ちさせるとはいえ、やはり鮮度が大事ですから。買って腐らせてしまうのは避けたいんです」
「なるほどな。でもすごいなぁ。あんな小さな種や、干からびた葉、動物の脂肪が人間を治すのだろう?」
「そうですね。組み合わせ方も大事ですけど、やはり植物や動物が持つ力というのは偉大です」
「うんうん。今日は楽しかった! 霓瓏の散歩に付き合わせてくれてありがとう」
「いえいえ。ただ、やはり祁禮殿は目を引きますし、その、お得ですよね」
「お得?」
「いつもはそこまでおまけをくれるわけじゃないのに、今日はどこの薬舗でもたくさんおまけをもらっちゃいましたから」
「それは仕方ないさ。私が美しいからな」
「……ぐぬぬ」
「あはははは!」
女装に似合わないほど大きく口を開けて笑う祁禮を見ていると、外見はあまり似ていないとはいえ、やはり祁旌の兄なのだと強く感じることが出来た。
政治的駆け引きが苦手な祁旌の分を、一手に引き受けて立ちまわっている祁禮。
それに、幼少のころは武力でも祁旌より強かったというのだから、恐ろしい。
「霓瓏、それで……、私の余命はあとどのくらいだ」
呼吸が止まるかと思った。
「え! ちょ、な、え!」
霓瓏は慌てて祁禮の脈を測り、目の色、舌の色、鼓動、爪の色など、すぐに確認したが、まさに健康そのもの。
どちらかといえば、元気が有り余っているほどだ。
「な、何か心当たりでもあるんでしょうか。ご家族に今まで遺伝するような病でも?」
「無いぞ」
「……は?」
「やはりな。私の唯一の欠点はそこなんだ」
「はい?」
「通常、美人というものは薄命であるからこそ、その価値が高まるのだと言われている。だが、私は美しい上に超健康体。まったく、困ったものだ! あはははは!」
初めてだった。
出会ってから初めて、本気で殴りたいと思った。
しかし、お世話になっている祁旌の兄上である。
おいそれと暴力を振るうわけにはいかない。
それに、きっと簡単に避けられ、逆に制圧されてしまうだろう。
霓瓏は大きく、それはもう大きくため息をついた。
「すまんすまん。だが、戦乱の世だ。何があるかわからない。死期で言えば、悲しいことに弟の方がそれに近い場所で戦うことが多い、だから霓瓏、頼んだぞ。弟を、絶対に死なせないでくれ」
ああ、ずるい。そう、霓瓏は思った。
何度か祁禮の指揮している戦闘を見たことがあるが、どれも圧倒的だった。
この世でこの人の戦術に勝てる人間などいるのだろうかと思うほど。
まさに戦場を牛耳る神のごとく、その頭脳は冴えわたり、操れぬものなどないように感じた。
そんな万能な男が、頭を下げている。
愛する家族の為に。
自分ではどうしようもない事態が起こるという覚悟の中で生きている武人だからなのだろうか。
「それが、祁禮殿からの最大のご依頼ですね」
霓瓏は大きく息を吸い、ゆっくりとはいた。
「承りました」
綺麗は顔を上げ、満面の笑みで頷いた。
「そう言ってくれると思ってたよ」
「さすがは軍師殿ですね」
「そうだろう、そうだろう!」
街を橙色の光が包み始めた。
「さぁ、祁旌の作る飯を食べに帰ろうか」
「そうですね、って、祁禮殿はご自身の邸宅には戻らないのですか?」
「妻が妊娠中で実家に里帰りしていてつまらないのだ。子供たちまでついて行ってしまったからな」
「ああ、そうでしたか」
「あちらのジジババが甘やかしてくれることを知っているのだ、子供らは」
「義両親をジジババって……」
「今のは内緒だぞ」
「はいはい」
霓瓏はこっそりと微笑んだ。
忘れていたが、この世にはこの祁禮を遣り込めることが出来る人物が三人いるのだ。
祁禮の実母、祁禮の義母、そして、祁禮の最愛の妻。
それを思うと、なんだかおもしろくなってきた霓瓏だった。




