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視聴の払霧師  作者: 秋長 豊
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76、霧の前では眠らない

 あの日見た紫色の目が、目の前に。


 鼻が折れ曲がりそうな激臭と、肺を襲う激痛。具視は一瞬にして吐き気に襲われ、嗚咽を漏らした。手が固定されているため、口も鼻もふさぐことができない。生き地獄だ。こんなに至近距離で霧をあびて、正常でいられるはずがない。いくら溶けない体とはいえ、痛みや臭いは普通の人間と同じようにある。


 気を失いそうだ。


 具視は舌を強くかんだ。


 一瞬飛びそうになった意識が戻った。


「舌、かんだの?」


 具視は血にまみれた口で笑った。


「もう、霧の前では寝ません」


「こんな状況でも笑えるなんて、随分と余裕なのね。3年前はただブルブル震えるだけの男の子だったのに」


「3年もあれば、人は変わります」


「いいよ」 


 麻美は機嫌のいい声で言った。


「そういうの、嫌いじゃないよ」


 部屋の中は既に白い霧が充満していた。こちらのお願いを聞いて連次たちを避難させたところを見るに、まったく話が通じない相手でもない。ここからは慎重にいかなければいつ彼らまで霧の犠牲になるか分かったものじゃない。


「あれ?」麻美の目つきが変わった。「その瞳、きれい」


(瞳?)


 麻美は具視に迫り、1センチも間隔を空けず目をのぞきこんだ。


「私たちの紫色とはまた違うけど、ほのかに光る深海のような色。もしかして、あなた……紫奇霧人の子ども?」


「笑わせないでください」


「でも、そんな匂いがする。私たちと近しいなにかを」


 具視は前に出られるギリギリまで顔を突き出し麻美をにらみつけた。


「この血は最後の1滴まで人間の血。俺は紫奇霧人ではありません」


 霧がこの狭い地下室で発生してからすでに20分以上は過ぎているだろう。早く何か解決策を……


「麻美って、本当の名前じゃないの」


「そもそも、名前なんてあるんですか」


「あるよ。あれ? 知らないんだ」


 具視は胸の激痛に耐えながら顔を上げた。


「紫奇霧人の始まりは、創始紫奇霧人大王。大王様はその体を五つに分け、子どもをおつくりになった。その中から、さらに体を分けて生まれたのが私。指夏希。名前もね、大王様がつけてくれたんだよ!」


 無邪気に話す姿は女子高生そのもの。だが、今もなお彼女は霧を吐き続けている。具視の視界には、ぼんやりと光る紫色の瞳しか見えなくなっていた。


「じゃあ、あなたたちの親玉である大王を殺せばいいわけですね」


「そんなの無理に決まってるじゃん。大王様は強いんだから」


「奇遇ですね。俺が知ってる払霧師も強者ぞろいですよ」


 調子にのってしゃべり過ぎた。霧を深く吸った勢いで具視はむせた。しばらくせきが止まらなかった。


「本当に溶けないんだね。髪の毛1本」


「あなたの目的は何ですか」


「あなたを知ること」


「だったら、なぜ……関係のない人まで巻き込むんですか」


「だって、楽しいからに決まってるでしょ? 大切なお友達が目の前で苦しんで溶けていくのを、自分だけが溶けずに見ていることしかできないなんて。3年前とおんなじ。あなたは何もできない。今度はちゃんと起きている。だから、最後までちゃんと見ていてね」


「外道の極みですね」


 具視は吐き捨てた。


「それからもう一つ、払霧師のたまごをつぶすのも下っ端の役目でね」


 具視は敵意をむき出しにした目で麻美の顔を見た。


「あとは半分、私の趣味かな」


「は?」


 麻美は笑顔を絶やさなかった。


「憎しみが強ければ強いほど、その心が折れた時の顔を見るのが好きなの。払霧師を志す人には、そういう人が多いでしょ? 上にいけばいくほど、憎しみ、悲しみ、憧れ――そういった感情は内にこもりやすい」


 悪趣味な女だ。いや、女と言っていいのだろうか。目の前にいるのは人間ならざる者、紫奇霧人だ。


「どのくらい耐えられる?」


 麻美は小さな置時計を持ってくると椅子の上に置いた。


「あなたが限界に達した時、順番にお友達を殺してあげる。さぁ、時間はたっぷりあるんだから、そう焦らないでいきましょう? 溶けなくても、体には限界があるんだから」


 それから何時間も過ぎた。5時間以上も霧を吸い続けたことはない。この我慢勝負がどれだけ続くかは分からないが、順番通りに処刑されるのであれば、具視が生きている間、連次たちは無事でいられるだろう。3年前、具視は5時間以上も寝たまま霧を吸い続けていたが、今は意識のある状態だ。1秒たりとも楽になれる時間はなかった。


 意識が朦朧とするたびに、具視は舌をかんだ。


 生々しい血の味がする。


 負けるな。


 まだ寝ては駄目だ。


 それは”死”を意味する。


 負けちゃ駄目だ。


 具視は何度も心の中で自分を律した。手足をしばられただけで、何もできないなんて。これが龍太郎や南薺だったら、いとも簡単に解決してしまうんだろうか。


(まだ、始まったばかりなのに)


 顎から血がしたたって床にポタポタ落ちる。


(弱い)


 あの日、藤原也信が命懸けで助けてくれた日のことを、忘れたことはなかった。優しい乳白色の光が、霧を一瞬で晴らした時のことを。払霧師とはなんたるものかを。


(俺は、弱い)


 彼はなんと言った?


 具視は失意に満ちた目を静かに閉じた。


”お前は生かされた。99.9%助からない状況にありながら、そのわずか0.1%の確率で。だからこの先、きっと成し遂げなければならないことがあるはずだ”


 藤原也信はそう言った。


 もう忘れたのか。


 何のために払霧師を目指した。


 こんなんじゃ、あの人に笑われてしまう。


 初心を忘れるな、波江具視。


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