8、0.1%の確率
「なぜ、生きていられる」
男は言った。
「この霧を吸った人間は4時間以内に霧となって死ぬ」
この霧を? 吸い込む? 死ぬ? 頭の中はもはやこんがらがって整理がつかなかった。途端に恐ろしくなって口を両手で押さえる。でも、目の前の男は口に何の覆いもしていない。霧を吸っているし、左肩はなおも溶け続けている。
「霧が発生してから4時間以上がたっている。にもかかわらず、お前は爪一つ溶けていない。マンションの住人は死んだというのに」
「今……なんて?」
「死んだ」
「母さんたちは?」
「見て分からないか。霧にやられた人間は蒸発し、霧となり果てる。お前の家族も、ここまで濃い霧にやられれば1時間もたたず霧となっただろう」
散々家の中を捜しまわって、あったのは服だけだった。具視は受け入れ難い事実に言葉を詰まらせ口に手を当てたままむせび泣いた。寝ている間になにがあった。周りがこんなにも変わっているのに、どうして何一つ気付けなかった。
男は具視をじろりとにらんだ。
「その目は何だ」
具視は背後にあるマンションのガラスに映る自分の目を見て腰を抜かした。ほのかに、奥から染みわたるように目が青く光を帯びていたのだ。あの時見た、紫色の目のように。
「紫奇霧人でもない。じゃあ、お前は何なんだ」
「紫奇霧人?」
具視はあふれる汗を拭いながら言った。
「これだから保護区の人間は――平和ぼけしている。お前は親になにも教わらなかったのか。ここがどういう所で……この霧が何なのかを」
「分かり……ません」
蚊の鳴く声で具視は言った。
「紫色の目をした化け物だ。75年前、都内の大学研究室から逃げ出した。そいつは人間を霧で溶かして吸って生きる化け物だ。そして俺は、そいつを殺すため国に雇われた払霧師だ。ここは保護区と呼ばれる壁に覆われた場所。本来、ここに紫奇霧人がいるはずがないんだ。なのに、現れた」
具視の頭の中には、あの恐ろしい化け物の目が浮かんでいた。払霧師、保護区、紫奇霧人? そんなこと、父と母は一言も教えてくれなかった。テレビを見ていたって、霧がどうとか、そんな話は一切出てこなかった。友達や先生だって、霧の話はしていなかった。
「なんで! どうして! 意味が分からないよ。目が覚めたら、みんな消えていたんだ。俺に……どうしろって言うんだよ。どうしたら……助けられたんだよっ!」
「お前は今知った」
男は荒い呼吸で言った。
「なぜ、霧を吸っても死ななかったのかは分からない。だが、これだけは言える――」
男は腕時計を見て、腰から取った銃を上空に放った。パァンと音を立てて上がった赤色の光球は高い位置で霧のかかった空を照らした。赤く照らされる彼の横顔を見ながら、具視は息をするのも忘れていた。
「お前は生かされた。99・9%助からない状況で、わずか0・1%の確率で。だからこの先、きっと成し遂げなければならないことがあるはずだ」
男は力を込めて言った。
「俺の言葉、絶対に忘れるなよ」