表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/14

桜雪庭苑 冬の桜

今回は前話よりも長くなってしまいましたが、読んでいただけると嬉しいです。


(給料がこれだけとなると…贅沢はとてもできないな…)

8010年12月、洋食店に勤め始めて皿洗いだけでなく料理の下拵えなども任され始めたが、常に繁盛している店では無かったのでそこまで労働が苦にならなかった。だが問題は店が忙しく無い分、給料が安いという点だった。

(そして小説を書く時間は、夜しか無くなってしまった…)

以前と比べると忙しくなったせいで、俺が小説を書ける時間は限られていた。小説の続きを書き始めるのは大抵の場合は閉店後、とっくに日が沈み月が昇っている時間である。

(とは言え、この部屋の住み心地は悪くない)

部屋が狭い分暖房の効きも早く、冬でも俺の部屋はすぐに暖まった。部屋の窓から見える夜景を眺めながら眠るのも中々に良い。

(しかしこの店の料理…味は悪く無いけど…)

この店で料理を作っているのは経営者のエドワードさんで、それ以外にも数人のアルバイトを雇っている。エドワードさんの作る料理は美味しくない訳では無いのだが、人気店になれる程の味では無さそうだった。

(カレーもあの喫茶店の方が美味しかったな…)

カレーライスに関しても、この店のものは普通すぎた。喫茶店のカレーもシンプルだったが、奥深い味だったのだ。

(そうだ…冬の桜が見るためには…)

俺は冬の桜を間近で見れる場所である、超巨大ソーラーパネルの根本についてネットで検索した。その場所の名前は桜雪庭苑おうせつていえんといって、宿泊施設も兼ねている施設らしく、事前に予約しないと入れない場所もあるようだ。

(意外と予約は埋まってない…って)

予約はそこまで埋まっていなかったが、その理由はすぐに分かった。チケット代がかなり高く、相当の出費を覚悟しないといけないのだ。

(いや…何のためにここまで貯金してきたんだ。冬の桜を見たかったんだろ)

俺はすぐに爺ちゃんやライネスに連絡する事にした。幸い、爺ちゃんもチケット代を出してくれる事になった。

(8011年1月5日…予約を取れるのはこの日だな)

出費はかなりの額になってしまうが、爺ちゃんやライネスも来るので後悔は無かった。俺は他のユーザーに取られない内に、予約チケットを購入した。実物を手元に置いておくのではなく、デバイス内のデータとして管理する物だ。

(さて…節約生活の始まりだ。贅沢はせずに出来るだけ質素に暮らしながら、小説を書くぞ)

俺は当分の間、出来るだけ出費を抑えながら生活する事に決めた。今の俺には、特に欲しいゲームといった物も無く金のかかる趣味も無かったので、節約生活も出来ると思っていた。


12月12日、俺はチェーン店のハンバーガー屋に行って、テイクアウトメニューを購入した。セットのメニューで、マフィンとスクランブルエッグ、ハッシュポテトとソーセージパティのセットだった。

「何だこれは…」

実際に買って来て蓋を開けてみると、潰れたオムレツのようなスクランブルエッグが乱雑にソーセージパティの上に載せられて、箱の中に飛び散っていた。運搬には気をつけていたはずなのに、何とも食欲を減退させる姿になっていた。

(取り敢えず写真を兄さんや爺ちゃん、カエデさんに送るか…)

俺はそのセットの惨状を写真に撮ってライネスやカエデ、爺ちゃんとその友人達に送った。最初に反応したのはジェームズさんで、メッセージの返信をしてくれた。

『大丈夫か?戦時下の飯の方がまだマシだぞ』

ジェームズさんは茶化したようなメッセージと、古い写真を送ってくれた。その写真は戦時下の食事のもので、見窄らしい見た目ではあったが野菜もあり、最低限の栄養バランスは保たれている事は分かる。

『節約って、大変だな…』

『夕食には野菜を摂った方がいい』

ポールさんやハワードさんも同情のメッセージを送って来てくれた。爺ちゃんのメッセージは、より具体的なアドバイスだった。

『無理に自炊しろとは言わない。だが、外で買ってくるなりして、野菜も確保した方がいいと思うぞ』

爺ちゃんのアドバイス通りに、今日のスケジュールに買い物を入れた。ライネスからのメッセージが届いたのは、その少し後だった。

『ホントに大丈夫か…?体壊さないように気をつけろよ?』

まぁ今日の昼食としてあの写真を見せたら、心配されるのも無理はない。とは言え、ライネスも思ったより心配性だなと思った。

(OLDstarのエッグサンドは美味しかったな…)

カエデからはOLDstarのフードメニューの、エッグサンドの写真だけが送られて来た。ソーセージパティとスクランブルエッグをサンドした物で、内容に関しては今食べようとしている物と似ているが、見た目に関しては雲泥の差だった。俺はまたOLDstarに行きたいと思ったが、節約中なので行かないと決めていた。

「…いただきます」

見た目が悪いとは言え、味については食べてみないと分からない。俺は付属して来たストロベリージャムをマフィンに塗り、スクランブルエッグには同じく付属して来た塩と胡椒をかけて、食べ始めた。

(食べれなくは無いが…)

幸い、見た目の悪さほどに味の方も不味い訳では無かった。しかし、微妙な感じに固まっているスクランブルエッグと、美味くも不味くも無いストロベリージャムを塗った粉っぽいマフィン、少し塩っぱすぎるソーセージパティはいずれも微妙な味で、また食べたいと思わせる物ではとてもなかった。

(ソーセージパティはこれでもマシらしいな…ハンバーガーの肉はもっとボソボソしてるらしいし…)

このチェーン店は安いから人気があるだけで、味はいまいちである。特に、肝心のハンバーガーの肉がボソボソで、評判が悪いのである。

(ハッシュポテトはまあまあ美味いな…)

ハッシュポテトの衣には最初から味がついていたので、追加で塩をかける必要は無かった。ハッシュポテトは程々に塩味が効いていて、中々に美味しかった。

(また食いたいと思うような物じゃ無かったな…)

俺は残す事無く完食したが、また食べたいとは思っていなかった。だが、ハンバーガーよりはマシらしいので、またテイクアウトで食べる事になるかも知れないが。

(昼食休憩が終わったらまた仕事で…)

俺はどのタイミングで夕飯の買い物に行くか悩みながら、烏龍茶を飲んでいた。この日は夜の、比較的客が増える時間帯の前に、買い物に行く事になった。


12月15日、俺はエドワードさんに知り合いが経営している孤児院の手伝いをして欲しいと頼まれた。俺は幼い子供の相手をできるタイプでは無かったが…

「孤児院の子供の世話?」

「ああ、そのボランティアに行ってくれないかな」

エドワードさんはその孤児院の現在の院長の友人との事だった。友人の頼みは断れなかったエドワードさんは、俺が行った方が子供達も親しめると思ったのだ。

「俺には子供の世話は…」

「孤児達と遊べば、小説を書くインスピレーションも沸いてこない?092からここまで来たんだし、子供の相手をする事を恐れる必要なんてないでしょ」

これに関しては、エドワードさんの言う通りだった。小説を書くために別の環境を求めたのに面倒事を避けていては、引っ越した意味が無い。

「分かりました。上手くやれるかは分かりませんが、できる範囲でやります」

「うん、そう言ってくれると思ったよ。それから、孤児院には最新鋭のシステムが搭載されているから、ちゃんと清潔感は保たれてるよ」

これも人生の中において大切な経験であると思いながら、俺は孤児院に向かう事にした。正直に言うと孤児の世話をやるのは大変そうだと、この時点で感じていた。


結論から言えば孤児の世話をするというのは、俺にとっては大変どころでは無かった。子供達の体力には、とてもついて行けなかったのだ。

「その…エドガーさん。大丈夫ですか?」

「あまり大丈夫じゃ無いですね…」

「エドワードはこの人の体力を考慮しなかったのか…」

俺は孤児院の子供達に挨拶して早々に、子供達と球技をやらされる事になった。俺は最初のサッカーの時点で上手く出来ず、その次のドッジボールの時点でウンザリしていた。

(何でドッジボールが好きな子供がこんなに多いんだよ…)

疲れた俺はドッジボールを適当なタイミングで抜けて、水分補給をしていた。日頃の運動不足が原因ではあるが、スポーツが苦手なのは俺のせいでは無かった。

(今度はかけっこか…よくもまぁ、あんなに元気に走り回れるよな)

12月の寒空の下で走り回るのは、俺にとってはかなりキツい。しかし子供達は寒風が肌に当たる事を気にせずに走り回っている。

「あの…部屋の中に来てくれませんか?」

「うん、いいよ」

俺に話しかけて来たのは、気弱そうな少年だった。どうやら外での遊びに疲れてしまっているみたいだ。俺も疲れていたので、孤児院の職員の許可を得て時間より早く室内に移動した。


子供達の部屋に入ると、既に外の遊びから戻って来ていた子達が何人かいた。既に外での遊びに満足していたようで、どちらかと言うと女の子の方が多かった。

「それじゃあ、僕はここにいるから。困った事があったらいつでも言って」

室内にいる子供達はおままごとをしていたり、本を読んだりしていた。子供達が読んでいる本は絵本がほとんどだったが、中には小学生向けの小説もあった。

(ここは平和そうだけど…目を離さないようにしないと)

俺は休憩しつつも、子供達を見守る事を怠らない様にしていた。屋外程ではないが、室内にも怪我の原因はあるのだ。

(こんな小説も置いてあるんだ…)

俺は本棚を覗いてみたが、子供向けでは無い小説もいくつかあった。俺が持っていない小説もあって、読んでみたいと思った。

(ここって図書室とかあるのかな…)

「あの、エドガーさん…」

「…あ、何かな?」

俺は考え事をしていたせいで、本を持った女の子に話しかけられている事に、すぐ気づけなかった。俺はできる限り優しい表情を作って、女の子に対応した。

「一緒に図書室に来て欲しいの…」

「うん、分かった…」

俺はその女の子と一緒に、図書室に向かう事にした。孤児院の図書室は中々に広く、様々な本が揃っていて、また来たいと思わせた。


子供達が室内に戻った後は、昼食の時間になった。給食は孤児院内にある、専用の厨房で作られているようだ。

「いただきまーす‼︎」

「…いただきます」

俺も食べる事になった給食は普通に美味しく、この前食べたチェーン店のハンバーガー屋のセットメニューと比べるのは失礼なほどだった。しかし今回出された給食のメニューには、どうしても苦手なものがあった。

(スイートコーン…)

俺はスイートコーンの食感も味も苦手だったのだ。だが周囲には子供達もいるので、食べる事にした。

「それ、好きじゃないの?」

「うん…」

先程の気弱そうな男の子が、俺の事を不安そうに見ていた。子供というのは周囲の大人の事を、しっかり見ているものなのである。

「デザート余ったの食べたい人ー!」

「はーい‼︎」

(余ったデザートにも飛びつくよな…)

今日のデザートはプリンで俺も食べたが、結構美味しかった。俺は、先程一緒に図書室へ行った女の子が、手を挙げたそうにしている事に気づいた。

「大丈夫。手を挙げてみて」

「うん…」

女の子が手を挙げると先生も気づいてくれて、彼女もジャンケンに参加する事になった。人数も多く、最後まで勝てる可能性は低そうだった。

「やった!」

だが、先程の女の子は最後までジャンケンで勝ち続けた。余ったプリンは彼女のものになって、美味しそうに食べていた。


給食を食べ終わった後は、皆でテレビゲームをする事になった。今回皆でやるゲームはエリア092で生活していた頃に、兄であるライネスやカエデと一緒にやっていたゲームだ。

「今日はエドガーさんも一緒に遊んでくれるよー」

「…よろしくね」

俺は子供達相手に本気を出して、プレイするつもりは無かった。程良く手加減して、子供達に勝たせてあげる算段だ。

「何だよ!弱いなー」

とは言え、俺は生意気な子供に対してはすぐにイラつくタイプである。子供に「弱い」と言われたので、少し本気を出す事にした。

「まじかよ…」

「つえー…」

「エドガーさんカッコいい〜」

本気を出した俺は、自分を集中的に狙ってくる、子供が操作するキャラクターを全員撃破して、対戦に勝利した。生意気な少年達は唖然としていて、ミーハーそうな女子は歓声を上げていた。

「あの、エドガーさん」

俺に話しかけて来たのは、大人しそうな少年だった。どうやら先程の子供達が騒いでいたせいで、自分もやりたいと言い出せなかったようだ。

「いいよ。君たちも譲ってあげて」

「ちぇっ。勝てなかったしもういいや」

今度は俺と、大人しい少年の一対一の対戦になった。先程俺が負かした子供達は大人しい少年が俺に勝てる訳が無いと思っているようだ。


一見大人しそうな少年のプレイスキルはかなり高く、本気を出した俺よりも強かった。子供達だけで無く、先生も俺たちの勝負の行方を見守っていた。

「…強いね」

「まだまだですよ…」

俺はかなり粘ったのだが、最終的には負けてしまった。この様に、ゲームの才能がある人間は何処にいるのか分からないものなのだ。


「本当にありがとうございました」

「いえ…子供の世話は本当に大変なんだって分かりました」

孤児院の手伝いが終わった後、先生の1人にお礼を言われた。俺は大した事をしていないのにお礼を言われて、もっと謙遜した方がいいのか迷った。

「えっと…また今度、ここの図書室に来てもいいですか?」

「はい。エドワードさんもよく来てますよ」

俺はまたここの手伝いに来てもいいかもと思いながら、洋食店に帰って行った。営業時間だったので、裏口から静かに入って自分の部屋に戻った。

(疲れたな…小説の続き書くのは夜でいいか)

俺は少し休憩した後に、小説の続きを書く事にした。この日の夜はファンタジー小説の孤児院が出て来るシーンの下書きをした。


12月25日、この日はクリスマスイベントもあり、期間限定メニューの最終日でもある忙しい日だった。テイクアウトの事前予約による注文も多かったので、それの調理をするのも忙しかった。

「もっと手際よく!」

「はい!」

俺は他のアルバイトの人達と一緒に、仕事に勤しんだ。今までのクリスマスとは、随分と違う過ごし方になりそうだった。


「ありがとうございました!」

クリスマスケーキを予約した、楽しそうに過ごしていた1組のグループを、エドワードさんが見送っていた。楽しそうにしている客の笑顔を見れば、やりがいを感じる様になるのだろうか。


「みんな。お疲れ様」

「お疲れ〜…」

この日はいつもより営業時間が長かった為、夜9時に店を閉めた。かなりハードな業務で、俺やエドワードさん、他のバイトの人達も疲れ切っていた。

「明日は休みだから、ゆっくり休んで。気をつけて帰ってね」

エドワードさんはアルバイトの人達にも、気を遣っていた。俺はここの2階に住まわせてもらっているから、帰りの心配は無いが。

「明後日は打ち上げをするつもりだけど、他に予定がある人は、そっちを優先でいいからね」

俺はその日に関しては、予定を入れていなかった。こうした打ち上げに参加する機会すら無かったので、少し迷っていた。

「エドガーは…」

「楽しみにしてます」

「おっ、そう来ないとな」

俺は明後日の打ち上げに、参加している事にした。バイトの1人は、参加が決まった者が増えただけで嬉しそうにしていた。


12月27日の打ち上げ、俺は騒いでいるバイトの人達を他所にずっと隅にいた。しかし、バイトしている人の何人かから、色んな話を聞く事ができた。

「003でも、退屈する事はあるんですね」

「僕からしたら092の方が羨ましいよ。観光名所いっぱいあるじゃん」

エリア003でも、ずっと住んでいれば退屈するようだ。どんなエリアでもそれは変わらないと、再確認する事ができた。


12月31日、多くの人々がお祭り騒ぎになり業界によっては忙しい時期だが、俺は自室で小説の続きを書いていた。エドワードさんは店を開けずに、俺も予定を入れていなかったからだ。

(アルバイトの人達はこの日も遊びに行ってるのかな…)

俺が書いているシーンは、主人公達の休息のシーンだった。ちょうど俺の今の気分と重なっているので、書きやすいシーンだった。


「エドガー、年越し蕎麦を作ったよ」

「いただきます」

エドワードさんは夕食に年越し蕎麦そばを作ってくれた。海老えび天麩羅てんぷらが載っているもので、蕎麦は買って来たものだが、天麩羅はここの厨房で作ったものである事が分かった。

「美味しいです」

「料理人として、これくらい作れないとね」

エドワードさんの専門は洋食だが、特に揚げたての海老の天麩羅はかなり美味しかった。普段からフライ料理を作っているので、天麩羅を作るなど造作もないのだろう。


「もう数分で8011年だね」

「はい…」

俺のデバイスには、兄さんや爺ちゃんとその友人達からのメッセージが送られて来ていた。どれも、もうすぐ年越しだからテンションが上がっているものだった。


「3、2、1…あけましておめでとう」

俺とエドワードさんは、静かに8011年を迎える事になった。ライネスや爺ちゃん達からも「あけましておめでとう」という内容のメッセージが送られて来る。

「年越しも迎えて、見たいテレビも無いし、もう寝ます」

「おやすみなさい」

年を越した俺は、小説の続きを書く気にはなれなかったので、もう寝る事にした。送られてきたメッセージに返信を返してから、俺は眠りについた。


「おはよう。ちゃんと眠れたみたいだね」

「おはようございます…朝ごはんは、お雑煮ですね」

エドワードさんは、今度はお雑煮を作ってくれた。他にも焼き魚や焼き豚などもあり、どれも美味しそうだった。

「料理は盛り付けも大事だからね。残り物でもこんなに美味しく見せれるんだよ」

エドワードさんが作ってくれた朝ご飯は、冷蔵庫の残り物が多かったが、見た目通り美味しかった。俺がエドワードさんみたいに料理を作れる様になるには、何年かかるのだろうか…

「5日は桜雪庭苑に行くんだっけ?」

「はい」

「予約チケットが無いと入れない場所にもはいれるんでしょ。羨ましいなぁ」

「自分の出費もかなりの物でしたが…」

エドワードさんには事前に伝えていたが、かなり羨ましそうだった。とは言えこれからも当分の間は節約を続けないといけない程の出費だった。

「家族も一緒だって言ってたけど…一度帰省するの?」

「それは…迷っています」

今回はライネスと爺ちゃんも来る事になっていた。確かにそのまま、一度エリア092に帰省するというのも考えられる。

「正月なんだし、一度帰った方がいい。家族とゆっくり過ごすのもいいんじゃない?」

「そう…ですね」

エドワードさんは、俺に優しくアドバイスしてくれた。エドワードさんの言う通り、エリア092で家族と一緒に数日間過ごすのもありかもしれない。


「帰省したいって母さんに伝えたら、いいよって言ってくれました」

「まぁ、断る様な母親じゃ無いよね」

母親にメッセージを送り、俺はエリア092に帰省する事にした。爺ちゃんと一緒に桜雪庭苑に向かうライネスもエリア003に向かう準備をしてるとの事だった。


「それじゃあ、もう行きます」

「まぁ、早めに行った方が良いからね」

8011年1月5日、俺は洋食店を出発して駅に向かった。今日中に桜雪庭苑がある雪月花区に着くには、高速鉄道に乗る必要があった。


雪月花区は窪地に作られた街で、窪地の中心に建物が集中していて、花を象った超大型ソーラーパネルが聳え立っている。

エリア003最大の都市にして、他のエリアから訪れる人も多い観光名所。それが俺がこれから訪れる、雪月花区なのである。


(あんな形のソーラーパネルを、これ程巨大なサイズで作れるなんて…)

窪地の中心に建てられている、地下と上空両方に広がる都市に存在する花を象ったソーラーパネルを、旅行ガイドの本の写真などでは無い形で、間近で見るのは初めてだった。あの街の下から見るとどんな感じなのかが、早くも楽しみになっていた。

(街並みも、本当に綺麗だ…)

雪化粧をした街とソーラーパネルの根元に咲いている桜が、冬と春の融合を思わせる。これこそが「冬の桜」であり、世界中から人々が見にやって来る景色なのだ。


街の中は年始である事もあって、かなり多くの観光客がいた。俺はタクシーに乗って、すぐに桜雪庭苑へと向かった。

(流石に、良いホテルみたいだな)

桜雪庭苑は和風の雰囲気を感じさせるホテルでもある。普通の旅館とは異なり、高級感を感じるホテルだった。

(ライネスと爺ちゃんはまだ来ていない…先にチェックインするか)

俺はチェックインを済ませて、自分達が泊まる部屋へ向かった。爺ちゃんとライネスも来るので、3人から4人用の部屋にしたのだ。

(広々として居心地が良さそう…テラスからも桜が見えるのか)

部屋にはテラスもついていて、そこからの景色も格別だった。夜は桜を見ながら、小説の続きを書くのもいいだろう。

(おっ…爺ちゃん達も来たみたいだな)

爺ちゃん達から、桜雪庭苑のエントランスに到着したというメッセージが届いた。俺はカードキーを使って鍵をかける事を忘れずに、エントランスへと向かった。


「エドガー、久しぶりだな」

「爺ちゃん…メッセージのやり取りはしてたけどね」

「この街滅茶苦茶混んでるじゃねぇか…ここに来るだけで疲れたよ」

爺ちゃんやライネスとこうやって顔を合わせるのは久しぶりだった。ライネスは疲れ切っていたが、爺ちゃんはそこまで疲れていなかった。

「しかし、昼飯はどうする?」

「外はどの店も混んでそうだったな…」

「ホテル内のレストランがいくつかあるよ」

ホテルの中のレストランは和食を提供している所だけでは無かった。取り敢えず昼食は和食を食べる事にして、5階にあるレストランへと向かった。


今回昼食を食べたレストランは、魚などの海鮮料理をメインに提供していた。寿司も提供していて、喉黒の炙り握りや小肌の握り寿司は絶品だった。また、俺が注文した一品料理の焼き蛤も美味しかった。

「ふぅ…お腹いっぱいだし、風呂に行くのは少し休んでからにするか」

昼食を食べ終えた俺達は、部屋に戻って休憩していた。ライネスは泊まる部屋の豪華さに驚いていて、爺ちゃんもこんなに豪華な部屋に泊まるのは久しぶりだと言っていた。

「ここの露天風呂は、天然の温泉なんだよな」

「効能まで調べた訳じゃ無いけど…行ってみよう」

少し休んだ後、3人でホテルの大浴場に向かう事にした。露天風呂からの景色で、断層を見る事もできるらしい。


「あれ…あなた達は」

「カエデさん?!その、久しぶりと言うか、奇遇と言うか…」

大浴場の前までやって来た俺達は、女湯の方から出て来たカエデと遭遇した。ライネスはかなり驚いた様子を見せていたが、俺も内心では驚いていた。

「兄さんはカエデと会ってなかったの?」

「会いに行く理由も無かったんだ…」

「喫茶店にはたまに来てたな」

ライネスも爺ちゃんも積極的に会いに行こうとはしていなかったようだ。勿論、メッセージによるやり取りは、たまにしていたようだが。

「カエデさんも泊まりに来たの?」

「うん、二泊三日」

「えっ…マジで?」

カエデの話を聞く限り、俺達が泊まっている部屋よりも値段が高い部屋に一人で泊まる様だ。やはりヒット曲を多く作っている彼女は、かなりの金持ちの様だ。

「私は今日来たの。エリア092に戻るのは明後日になるね。じゃあ私は部屋に戻るから」

「うん。じゃあね」

俺達はカエデと別れた後、そのまま男湯に入った。脱衣所も落ち着いた雰囲気で、飲み物を売っている自販機もあった。

「さて、じゃあ浴場に行くか…」

俺達はミニタオルと桶を持って、浴場に入って行った。温泉の種類もいくつかあり、それぞれ異なる泉質だった。

「じゃあ本命の露天風呂は…」

人がそれなりに多くいたのでひとまず大浴場はスルーして、露天風呂に向かった。俺はそこから見える景色にも、強い興味があったのだ。


露天風呂から見える景色は雪化粧を纏った街並みとソーラーパネルの熱によって咲いた桜、窪地による断層が見えるもので、まさに絶景だった。この露天風呂は源泉を地下から引いている様で、濁り湯の見た目をしていた。

「俺…こんな綺麗な景色見るの始めてだ」

「風情を感じさせるな…」

俺とライネス、そして爺ちゃんで寒空の下、露天風呂で体を温めた。露天風呂には俺達3人だけだったので、ゆったりと浸かる事が出来た。


夕食もホテル内にあるレストランで食べる事にしたが、今度は洋風の店にした。値段は中々に高かったが、お金は爺ちゃんが出してくれる事になった。

(滅茶苦茶豪華な料理が出て来た…)

俺は卵と牛肉の焼飯、三人分のサラダと004牛サーロインステーキを注文し、デザートとして抹茶のアイスクリームも注文していた。実際に来た物は想像を超えたレベルで豪華な料理だった。焼飯の牛肉にもエリア004産の牛が使われていた。

(サーロインステーキも、ただソースをかけた物じゃ無い…)

サーロインステーキには最初からソースなどがかかっている訳では無く、数種類のソースをつけて食べる様になっていた。ステーキは最初から切ってあったので一切れずつ食べて、美味しさを噛みしめた。

「この焼飯も美味いな」

卵と牛肉の焼飯は三人とも頼んでいて、ライネスも爺ちゃんも美味しいと言っていた。鉄板の上で卵と牛肉と一緒に炒めた焼飯は、やはり絶品だった。

「エドガーが抹茶アイス食べるの初めてじゃね?」

「そう言えばそうだったね」

俺は今まで抹茶アイスを選んだ事は無かったが、ここの抹茶アイスには興味があった。ただ苦いだけではない、風味を感じる味で中々に美味しかった。


俺達は夕食を食べ終わった後、一度部屋に戻った。冬の桜を観るためのフロアにも行くつもりだが、混雑している時間を避けたかったのだ。

「小説の続きを書いてるのか」

「うん」

俺は部屋の中から夜桜を眺めながら、小説の続きを書いていた。今書いているシーンには冬の桜をモチーフにした描写を、加筆している。

「やはり文字にして表現するのは難しいな…挿絵を入れるといっても、どうやって探せばいいか分からないしな…」

「あんな美しい景色を文字だけで表現するのは無理だろ。挿絵と同じ要領で、自分で撮った写真を貼っつけるしか無いんじゃね?」

俺の文章を書く能力はまだまだであり、才能があるのかどうかも分からなかった。それでも俺は小説家になる事を諦めるつもりは無く、こうして書き続けている。

「そろそろ空いて来た頃だろう、観覧用のフロアに行かないか?」

「そうだね…」

俺は執筆を中断して、爺ちゃん達と一緒に観覧フロアに向かう事にした。観覧用のフロアは一般客用と、宿泊客用に分かれていた。


「やっぱり混んでるなぁ…」

混雑時間を避けたはずの一般客用のフロアは、かなり混んでいた。013や017などの様々なエリアから、人々が集まっている様だ。

「早く宿泊客用の観覧フロアに行こうぜ」

俺はカードキーは忘れていないかどうかを改めて確認して、宿泊客専用の観覧フロアへ向かった。宿泊客に対しては、一般フロアよりも良質な景色を見れるフロアが用意されているのだ。


カードキーを使って入った宿泊客専用フロアから見る夜桜は、かなり美しかった。一般フロアからも美しい景色を見る事は出来たが、一般客がいなかったので静かに見る事ができた。

「ビール飲んで騒いでいる奴もいないし…平和だな」

爺ちゃんの言う通り、ここには品のいい人間しかいなかった。このフロアも酒を持ち込む事は可能だったが、宿泊客が持ち込んでいる酒は、いずれも高級な日本酒やワインなどだった。

「しかしこんな所でスナック菓子なんか食ったら、悪い意味で目立っちまうな」

ライネスの言う通り、この雰囲気の中で俺達は明らかに浮いてしまっていた。周囲に居るのは金持ちと思われる初老の男性や、裕福な家庭の親子連れなどだった。

「もう少し夜桜見たらもう一度露天風呂行って…」

「こんばんは、あなた達も夜桜を見に来たのね」

夜桜を見上げる俺達に挨拶して来たのは、カエデだった。夜桜を見に来たのだろう彼女も、満開の桜を見つめていた。

「そう言えばスイートルームの宿泊客には、さらに別のフロアが用意されてるみたいなんだけど…」

「え…カエデさんスイートルームに泊まってるの?!」

今回は俺やライネスだけで無く、爺ちゃんも驚いた表情を見せていた。勿論カエデはちょっとした売れっ子作曲家なんてレベルでは無いため、スイートルームに泊まれる程稼いでいても不思議ではないのだが。

「あなた達も来る?」

「え…いいの?」

「私一人じゃ退屈だし、明日も行けるから」

「それなら…」

俺達はカエデと一緒に、スイートルーム宿泊者専用の観覧ルームに向かった。ここで行かなければ、もう一生見る事の無い場所なのかも知れないからだ。


観覧ルームは書院風の茶室の様になっていて、大変趣がある空間だった。先程のフロアよりも静かなその部屋で、俺達は夜桜を眺めていた。

「はぁ…ここでならゴロゴロできるぜ」

「本当にゴロゴロし出した…」

茶室の様なその部屋には靴箱があったので、俺達は靴を脱いで畳に上がった。他人の目が無いこの部屋に来た途端に、ライネスは畳に寝転がり始めた。

「ふぅ…」

カエデはペットボトルの緑茶を飲みながら、夜桜を眺めていた。しばらくの間は俺達も何も言わず、静かに冬の桜を見ていた。

「さて…そろそろ戻るか」

「私はもう少し桜を見てる」

「…それじゃあ、また」

俺達は観覧フロアを出て、再び大浴場へと向かった。もうすぐ閉まる時間だからか、脱衣所にいたのは俺達3人だけだった。


露天風呂から眺める夜桜も、夜の街並みとその周囲にある断層の景色による、格別なものとなった。

(あ…)

俺は湯の上に、桜の花びらが浮いている事に気づいた。今は満開の冬の桜も、もうすぐ散っていくのである。

俺達はもう見る事は無いかもしれない冬の夜桜を、温泉で体を温めながら眺めていた。結局、俺達が大浴場を出たのは、閉まる直前の時間だった。


「明日は早く起きるのか?」

「朝風呂に行きたいから」

俺達は部屋に戻った後、寝間着に着替えて、それぞれのベッドで眠りについた。俺は眠りにつく瞬間まで、窓の外の夜桜を見つめていた。


翌朝、着替えた俺は一人で大浴場に向かい、露天風呂に入った。開いたばかりの時間だったので、風呂場にいたのは俺1人だった。

(桜の花びら…散る量が増えてる)

桜は満開の時期が終われば、すぐに散ってしまう。それは冬の桜であろうと、変わりはないという事なのだ。


「風呂上がりのコーヒー牛乳…やはり美味い」

露天風呂から出た俺は、脱衣所の自販機でコーヒー牛乳を飲んだ。昔飲んだ事がある、ありふれた味だったが、それでも美味かった。


「エドガー、朝風呂はどうだった?」

「俺1人だけだったし…中々に快適だったよ」

「エドガーも戻って来たし…もう少ししたら朝食を食べに行くぞ」

俺達は身支度を済ませた後、朝食を食べにいく事にした。昨日とは別のレストランで、そこまで値段が高い店では無かった。

(朝食にはピッタリのメニューだな)

俺が食べたのはオムレツとベーコン、クロワッサンとコーンスープ、サラダだった。どれも美味しく、俺の腹を満腹感で満たしてくれた。


朝食を食べて少し休んだ後、俺達はホテルからチェックアウトした。俺はこのまま爺ちゃん達と一緒にエリア092に行き、帰省する事は事前にエドワードさんに伝えてある。

「相変わらず街中は混んでるな…」

「早く駅に向かおう」

俺達は混雑している街の中で、高速鉄道の駅へと急いだ。散りゆく桜の花びらは、既に空中を舞い始めていた。


「えっ!冬の桜ってすぐ散るのか…」

「普通の桜だって散る時はあっという間だからね。明後日くらいには完全に散ってると思うよ」

俺達はちょうど満開の時期に来る事ができたのだ。時期がズレる事も少なくないらしいので、幸運だったと言える。

「おお…改めて見ると、よくこんな窪地に町を作ったと思うな」

爺ちゃんは窓から、巨大な窪地とその中心に聳える雪月花区の街を見ていた。その中心の桜の花びらは、窪地の外まで飛んできている。

目を閉じれば思い浮かぶ、雪景色と桜吹雪、静かに花びらを落とす夜桜。雪と桜が融合した美しい「冬の桜」の景色を、俺は生涯忘れない。


帰省の話も今回でやる予定だったのですが、それだと長くなりすぎるので次回にします。次回はエドガーの帰省中の話と、エリア003に戻った後の話の予定です。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ