ジャンク・ボンド 第二章 1
「良い子だから。ここにいてね」
ただ言葉を並べた女性は、こちらを見下ろしていた。けれど、その女性には表情がなかった。顔がないのだ。
この女性は何を言っているのだろうか。と、呆然としているレッドの視界には、もう一人男性が映っていた。女性の隣に立っているのだが、やはり顔がなかった。
だが、男性の機嫌がよくないことだけは、こちらにも伝わってきていた。
「おい。早くしろよ」
あからさまな貧乏ゆすりのためか、その言葉も荒かった。
男がその場を後にしようとすると、「いい? ここにいるのよ」と女性は何の説明もしないまま、その男の背中を追いかけて行ってしまった。
自分でも頷いたのか自覚はなかったが、レッドは女性を追い掛けることはしなかった。
むしろ、男を追い掛ける女性の背中を見るのも嫌で、自身の足元に目を落としていた。
そんな自分の足を見ている内に、あることに気づき、妙に納得してしまった。
――そうか。夢か。
足が小さいのだ。それだけなく、女性が見下ろしているのもそうだ。
自分の小さい頃の記憶だからだ。
ということは、当然結果も知っている。
待ちぼうけだ。
時間は過ぎていき、沈みかけた夕日に染められたレンガの壁にもたれていた。自分の足が、なぜか歪んで見えた。いや、泣いているから、か――。
いつしか、冷たくなっていく地面に耐えきれず、レッドは自分の裸足同士を擦り合わせている。仕舞には、白い息を両手に吹きかけて、身を震わせているしかできなくなっていた。
それでも……その場から離れることはしなかった。
もうそろそろ暗くなっても良さそうな時間なのに……。未だに、自分の小さな足が見えている。
ふと、顔を上げると、風景はまるっきり様変わりしていた。真ん丸い月が浮かんでいたのだ。
思いの外強い月の光が、周囲の草木を白く染め上げていた。
それでも全ての闇を払い除けるほどの力を持ち合わせている訳ではない。
たった今、夜気で冷やされた風が、レッドの脇を一瞬で擦り抜けていった。
急に心細さが押し寄せてきた。緩んでいた涙腺が、さらに締りがなくなっていく。
いつの間にか声を上げていた。
「ぁぁぁあああ……」
けれども、誰一人として、いや獣一匹すら現れることはなかった。
そのおかげか、レッドの泣き声がさらに大きくなっていく。
今度は振り返って、煉瓦の壁を力一杯叩き出した。
最早、感情の高ぶりを抑えられなくなっていた。それだけなく、誰かに助けを求めようとしていた。
たとえ、拳に痛みが走ろうとも、喉が悲鳴を上げようとも、叩くのを止めなかった。いや、できなくなっていた。
しばらくすると、壁の途切れたところから、金属同士が軋み、擦れる音が聞こえた。
レッドが思わず、叩く行為を止めて、そこへ視線を移した。
扉だ。それも高く、分厚い金属の二枚の扉だ。それが、まるでレッドを招き入れるかの如く、大きく口を開けていた。
中を覗くと、まるで天国のように、神々しい光に包まれていた。
「……」
その不思議な光に魅入られてしまったレッドは、無意識のうちに光の方へと歩いていた。
そして、光に吸い込まれていった……。
*
「……痛てて」
レッドが、前日の戦闘の痛みに表情を歪ませていた。今ベッドの上で目覚めたばかりだ。
朝日が窓から漏れ、淀む空気を背景にして、狭い室内を映し出す。
ホウセンカ所有の長屋の一室だ。
見届け人、回収屋、そしてリュウランゼは、それぞれの街の支部が管理する長屋に住むことになっている。
金持ちは立派な暖炉や煙突が、室内に幅を利かせているが、ここはそんな金もスペースもない。せいぜい、煮炊き兼暖房の囲炉裏が、真ん中に申し訳なくあるだけだ。
それでも狭い室内では、十分スペースを奪っていた。おかげで椅子やテーブルは置けない。
「……」
昨日のことを思い出しただけでも、背筋が凍ってしまう。鳥肌が立っていることから、やっぱりあの出来事は本当のことなのだろう。
――俺が、バグと戦うハメになるなんてなぁ……。
でも、まあ。あんな場面にそうそう出会す訳ないだろう。第一、レッドは見届け人であって、リュウランゼではない。
面倒事に巻き込まれるかもしれないが、自ら武器を振ることはしなくていい身分だ。
それに見届け人とリュウランゼは、その仕事ごとに組み合わせが決まる。毎度同じ顔ぶれになる方が、稀だった。
――あの尻は惜しいが、あの刀は御免だよ。
まあ。二度と会わないだろうな。
ホッと口元を綻ばせているはずなのに、溜息一つ。レンガのみで囲まれた小屋に吸収された。
何だか、笑顔になりきれていない。
――あれほど、人生の中でハラハラしたこともなかったかな……。
「はぁ!?」
一瞬よぎった“後悔”という名の矛盾に、レッドが頭を抱える。
――いや、おかしいよ! 俺は平和に生きたいだけだよ。スリルなんていう人生のスパイスなんかいらない、おこちゃまなんだよ! 甘口しか食べられないよ!
レッドの顔が、まるで激辛を食べたかのように、汗だくになる。
ついでに喉の渇きを覚える。水を飲もうと布団を剥いだ。
自身の足と脇腹に巻いてある包帯に視線を移しそうになったが、構わずベッドに手を掛け立ち上がろうとした。
その時だった。
むにゅん。
「?」
いつもと違う感触だった。なんだか柔らかく、丸くて、温かい。
レッドが自分の右手に視線を落とす。
隣で誰か寝てる。女?
胸は決して大きくはないが、形が整っているのが、服の上からでも分かる。腹筋や背筋も鍛えているから、くびれも出来ているし、その下の臀部も弛んでもいなければ筋肉質でもない。
要するに男が好きそうな体型だ、の一言に尽きる。
「ちょ、ちょっと待って!?」
テレーゼだった。呼吸をしているのかさえ怪しいほど、静かに眠っている。
レッドが混乱した頭を抱え出す。
「いや夢だよ! だって一夜限りの過ち覚えてないもの! “むにゅん”っておかしいもの。そんな効果音、人生で聞いたことないもの。記憶の蜃気楼だよ!」
レッドが、喉を潤そうと外の“共同井戸”という名の、オアシスに向かう。
そして、玄関の扉に手を掛けたときだった。
扉の隣で、何かがカタカタと鳴って笑っていた。
「五月蝿ぇなぁ。おめえは大人の階段どころか、十三段上って首括ってろよ」
立て掛けられた一振りの刀が、笑っていたのだ。