ジャンク・ボンド 第一章 3
「……?」
レッドが自分の置かれている状況に、まだ気づいていなかった。
何だか、瞼が重い。目の前に暗闇が口を開けていた。
どうやら眠っていたらしい。思い出した。アイツ等、俺達に薬盛りやがって! まぁ。眠ったのは俺一人だけど。……情けない。
何かが、揺らぐ意識の遠くで聞こえた。
誰かと誰かが話しているようだ。片方は、あのお喋りな刀だ。では相手は誰か。
耳を良く澄ますと、何処かで聞いたことのある声だ。
刀が口火を切った。何だか怒っているようだ。
「……おめぇ。俺達を呼んだのは、何が狙いだ?」
「ハハハ……。だから、言っておるじゃろ。村に悪さをするバグを始末して欲しいってな」
あの長老だ。
まったく、あの刀は。依頼人を疑ったって、金になる訳でもあるまいし……。
一方刀は、目の前の好々爺が、思っていた通りに答えてくれないことに、さらに苛立ちを募らせていた。
「この野郎。喋る刀に出くわしたら、驚いて引っ繰り返るだろ。普通」
――この野郎。俺のこと言ってるのか?
レッドが唇を噛んだ。
「ハハハ……。バグに比べれば、喋る刀なんて可愛いもんじゃよ」
「ふん。刀なんて代物、普通じゃこの大陸で、あんまり見かけないのに、珍しがる素振りも見せねぇもんな。――良く知ってるな。普通、武器を使う商売じゃねぇと疎いはずなんだが……?」
「ハハハ……。何のことやら。年寄りをからかうもんじゃないよ」
「からかってんのは、おめぇだろ? 睡眠薬盛ったクセによ」と刀は言い、その後の口調が鋭くなる。
「……この村の奴らって、足がねぇのかい?」
刀の鋭い言霊に、長老の顔が僅かに強張った。
「何のことやら。皆生きておる。勝手に殺すんじゃないよ」
長老の僅かな変化を、薄目のレッドが見逃さなかった。初めて見る眼光だ。まるで殺気が篭っているようだ。
一方、刀はさらに挑発する。
「そうかな。俺はてっきり、おめぇが見せた“幻”かと思ったんだがよ……?」
「……いい加減にするんじゃ。結局何が言いたいんじゃ」
さすがの長老も痺れを切らしたのか、口調も強くなってしまった。同時にその場の空気も冷たく一変する。
今度は、はっきりとした殺気だ。長老から発せられている。
『…………』
沈黙が時を止め、呼吸すらも停止を余儀なくされる。本能が、危険を察知したらしい。
一方、テレーゼは、長老から視線を外さずに、刀に手を掛けた。
他方、長老はテレーゼの動きに勘付いたらしい。体を強張らせて、上体を僅かに前へと傾かせていた。
レッドは唾を飲み込むのさえ躊躇っていた。
――まさか。やっぱり長老が俺達を騙したのか……?
レッドも、逃走の機を窺おうと、四肢を硬くする。
この場にいた誰もが、相手の一挙手一投足に注目している。まさに一触即発。何が引き金になるか分らない。
そんな三人に対し、刀の何処か楽しそうな言霊が、この膠着した状態を打開した。
「……臭うねぇ。」
「……」
「化物の臭いがプンプンするぜぇ」
「…………」
「――おめぇ。人間じゃねぇな」
「………………」
「一体何人殺った?」
「さぁ。アンタらで何人目だろうね。――リュウランゼは」
今まで嗄れた老人の声だったはずなのに、急に声色が変わる。何処か艶っぽい。
女の声だ。
突然、長老の口元が三日月のように吊り上がる。
いや、それだけじゃない。その三日月がさらに耳元まで裂け、とうとう頭頂部まで広がり、――まるで皮が剥けるように、中から別の顔が露わになったのだ。
さらに今度は、曲がっていた腰が、強制的にまっすぐになったかと思うと、その胴体から、まるで食い破るようにして、何かが正体を現した。
八つの赤黒い眼。口角に鋭い二本の牙が、みるみる生えて来たのだ。
手足は八本。頭部と胴体が一緒になる頭胸部、その後方に多分糸を繰り出すであろう腹部が付いている。そして頭胸部の左右から四本ずつの足が生え、自分の体を支えていていた。
要は蜘蛛型のバグという訳だ。
ただし、その大きさが尋常じゃない。あの老人の何処に、これ程の化物を飼っていたというのか。
「なるほど。蜘蛛だけに、その糸で村人をこさえたか。そして、狙うは俺達リュウランゼの命――か」
集会場の屋根を突き破ろうとする化物に対し、刀が納得したように発した。
その間も、屋根だけでなく、重量に耐え切れず床が抜けてしまった。
周囲に、豪快な破壊音が響いていく。直後に、大量の粉塵が辺りを覆い始めた。
一方、今まで狸寝入りを決め込んでいたレッドだったが、「おい、おい。マジかよ……」と、目の前の化物が大型化していく様を呆然と見上げるしかなかった。
いくら仕事を経験しているとはいえ、擬態するケースはなかなかないからだ。
一方、刀はうんざりしている。いや、嬉しさが内包していた。
「たく。わざわざ姿変えて、俺のことを待たなくたって。招待状送ってくれりゃあ、来てやったってのによぉ」
――何が楽しんだか、この刀は。
恐怖で声も出せないはずなのに、レッドが思わず心中でツッコんだ。
「……」
一方テレーゼは至って冷静だ。勝手に喋る刀を手にしながら、床から弾かれたように立ち上がり、中段の構え。切っ先がバグの目の前で煌いていた。
何しろ目の前の化物は、目が八つだ。多分動体視力も、視野も相当なものだろう。隙をつくとか、後ろに回るとか、速さで打ち勝つとかは難しいだろう。
結局、真向勝負――ということだろうか。
その姿を見て、恐怖で腰が床に縫いつけられているレッドがすかさずツッコんだ。
「いやいや。足八本だよ! 全然真向じゃないから!」
そんな分かりきったことを言われたところで、状況が変わる訳でなし。――直後、テレーゼは駆け出そうと前傾姿勢になった。眼光が鋭くなる。刀を握る拳が固くなる。
そして弾かれるように、地面を蹴――ってはいなかった。
「!」
テレーゼが初めて目を丸くした。何と目の前の化物が遠ざかっていったのだ。しかし、別に化物が逃げたのではないようだ。
自分の首が締め付けられる感覚に襲われた。
「ハァ、ハァ。……人の話聞いてた? 真っ向勝負で勝てる訳ないでしょ!」
レッドがテレーゼの襟の後ろを掴んで、猛ダッシュでバグから逃げ出していたのだ。
現役のリュウランゼが気付かない程の速さで、襟を掴んだのか。――少なくとも、刀は心中で少し驚いていた。
だが驚きに浸っている暇はない。
まるで地響きのような足音が、背後から聞こえて来た。いや、聞こえたというより、バグの起こした振動と共に、レッド達の体を揺さぶっていたのだ。
振り向かなくても分かる。
「き、来たあぁぁ……!」
冷汗まみれのレッドが力の限り叫んだ。驚きのあまり、目は見開いたままだ。
雪が、逃げようとする足を絡め取っていたが、そんなことを気にしている場合ではない。必死にバタつかせて、とにかく走った。
一方日本刀は、「そりゃあ。逃げたら来るだろ」と何処吹く風。
お前が元凶だろうが! ――と心中でツッコんでいると、右耳に地面を次々に破壊する音が近づいてきた。
得体の知れない気配を感じ、黒目だけを恐る恐る右に向けた。
「――!」
その目をさらに見開いた。
にらめっこだ。――化物と。
視界に入ったのは、八本の足を素早く器用に動かしながら、レッドに並走するバグだった。
ついでに、まるで笑みを浮かべるかのように、口角の牙を外側に広げていた。そこから唾液のようなものが垂れていた。
「あぁぁぁ……!」
レッドが思わず大地を左に蹴った。急な方向転換にバランスを崩してしまった。
直後顔面から雪にダイブ。
無様に転んだのだ。
おかげで、衝撃は少し和らいだが。
「ぶ、はぁ!」
本能的に、雪に突っ込んだ顔を上げた。とにかく酸素が欲しかった。
酸素が脳に行き渡ると、追われていることを思い出し、自身を守ろうとその場に蹲った。最早、テレーゼのことを心配している場合ではなかった。
――今度こそ殺される……!
体中が恐怖で硬直した。いや、小刻みに震えている。早鐘を打つような心音が、耳を塞ぐと余計に大きく聞こえる。まるで血管を駆け巡っているようだ。
その耳を塞ぐ掌も、じわじわと溢れ出る汗で、べっとりだ。
瞼も開けるのを拒絶する。同時に、これから襲い来るであろう痛みを想像し、自分が上げるであろう悲鳴を妄想する。
これほど、極限の場面に立たされたことがあっただろうか……。
しかし聞こえて来たのは、二つの甲高い音だった。
「うぅ!」
一つは、女の苦痛に満ちた悲鳴だ。
そしてもう一つは、金属同士がぶつかるような音だ。
それを耳にしたレッドの脳裏には、テレーゼの苦しむ表情が浮かんでいた。
しかし、金属がぶつかる音は一体――?
その時聞こえて来たのは、陽気な刀の声だった。
「まったく。足が八本あっても、俺に敵わねぇとはなぁ」
その声と共に、自分の手に違和感を覚えていた。今まで頭を抱えていたはずなのに。
――あれ? 右手が勝手に……?
右手が別人格を宿したのか、刀を握っていた。しかもその切っ先は、大蜘蛛の頭胸部に突き刺さっていたのだ。
刃を伝うようにして、紫色の体液が雪を染め上げていく。
その体液が手まで伝い、生温かい感触が、ぼやけていたレッドの意識を現実に引きずりだした。
――俺がやったのか!?
呻き声は、化物のものだったのだ。血を吐きながら、苦悶と驚きの表情に染まっていた。
「グフッ。……な、何故だ!?」
――こっちが聞きたいよ!
レッドの顔にも驚きが張り付いている。
一方、化物の問いに答えたのは、ストレスフリーな刀だった。
「何言ってんだ? 化物退治がリュウランゼの仕事だろうが」
アンタが何言ってんの! 俺はリュウランゼになったつもりないよ!
レッドが慌ててテレーゼを探し始める。しかし、肝心の彼女は、雪の上で微動だにせず横たわっている。
「えぇ!? ち、ちょっと待って!?」
――もしかして死んでる!?
レッドの問いに答えたのも、刀だった。
「だいじょーぶ。アイツは俺の人形だからよ」
「答えになってないよ!」
というツッコミとは反対に、レッドの右手がさらに勝手に動いた。何かに反応したのだ。
「ギギッ!」蜘蛛が発した。
肉迫する牙を叩き折る。
破片が宙を舞った。
同時にバックステップ。
息つく暇なく、破片の幕から蜘蛛が左右一本目の足を槍のように繰り出した。
「!」
右槍の穂先がレッドの眼球を突く。――その寸前、不意に膝が折れ、槍が空を突いてしまう。
次に左槍が、跪いたレッドの脳天に狙いを定めて飛び出した。その風切り音だけを頼りに、レッドの首が右に折れたかと思うと、刀が槍を左に薙ぎ払う。
蜘蛛の体が、右に揺れた。しかし倒れるには至らなかった。
それでも立ち上がるくらいには、時間を稼げた。
おかげでレッドが、蜘蛛の前で刀を再度構えることができた。
この間、僅か数秒――。