ジャンク・ボンド 第三章 7
テレーゼに従い、何度か分かれ道に行くにつれて、徐々に地面や壁が湿っていることに気がついた。
気づくと、足跡がくっきりつくようになっていた。
壁もしっかりと固まり、まるで人工物のようだ。
いや、“まるで”じゃない。本当に人工物だ。煉瓦のようだ。
どうやら、少なくとも人がいるところまで近づいたようだ。
明かり一つない、長く、冷たい洞窟。というより下水道といったほうが正しいようだ。
そこを、ただ前へ前へと進むしかなかった。
「なんか、いやーなところね」ユズハが、湿った洞窟の壁を伝いながら、呟いた。その声が、不規則に反響する。
「下水道に通じていたとはな」という砕封魔の呟きに対し、
「お前の勘も大したことはないな」
と、レッドが嬉しそうにツッコんだ。
足元には、地下水が溜まっており、歩く度に掻き混ぜられていた。
「何とかならないの。レッド」
一方エルザは、淀んだ水のせいか、異臭に鼻を摘みながら、爪先で歩いていく。
「何とかって、どうすれば良いんだよ」
その言葉に、顔を歪めたレッドが聞き返す。
「私を背負え」
「はぁ!?」
ユズハが慌てて顔を近づけた。
「宝よ! いっときの辛抱よ!」
「あのな。俺は、ここに来るまで相当辛抱してると思うけどなぁ」
「“若い内は、苦労は買ってでもしろ”って言うでしょ」
「少なくとも、お前より年上だよ!」
レッドの声が大きく反響した。――その時だった。
彼の声が、洞窟の奥に届いたらしい。何かが反応したようだ。
まずは、音だった。羽ばたくような音が、複数。耳朶に触れる――前に、空気がうねる。
『キキキ――ッ!』
直後、時間差で鋭い鳴き声と共に、何かが一斉に飛び掛かって来たのだ。
蝙蝠の大群だ。
「何よ。蝙蝠じゃな――」言い終わらない内に、ユズハの言葉が止まり、表情が固まった。
蝙蝠が彼女を通り過ぎていったのだ。
直後、その頬からは、血が垂れていた。
「……?」
ユズハが、不思議そうに自分の頬を触り、手で拭った血を視界に入れた。
呆然としているユズハを無視し、蝙蝠達は何度も飛翔を繰り返している。
その軌跡は、刃物のように鋭かった。
暗くて見えないが、目を凝らすと蝙蝠が通過する最中に、火花が連続で散る。その度に周囲が明るくなった。
蝙蝠の翼がトンネルの壁を削っていたのだ。
どうやら相当の硬度を持っているらしい。――などど分析できる余裕など与えてくれなかった。
『――!』
慌てたレッドやエルザが逃げようと踵を返した。――その背中を、遅れてしまったユズハが必死に掴んだ。
「ち、ちょっと!」
「五月蝿い! 放せ!」レッドが振り解こうとする。――そんな二人の間を蝙蝠が通り過ぎていく。
『……』
――助かった?
レッドとユズハが顔を見合わせた。時間差で緩んだ。
ところが、二人の体は何か見えない力によって吹き飛ばされていた。
トンネル内に、複数の風切り音が轟音となり、駆け抜けたのだ。
「な、何だ!?」
無様に転んだレッドの問に、砕封魔が珍しく緊張した声色で答えた。
「“かまいたち”――空気の刃だ!」
目の前の真空の渦に、体が持って行かれそうになっていた。
「嘘だろぉぉぉ!」
真空の渦に巻き込まれまいと、レッドが必死に壁に掴まった。
悲鳴すら、風切り音に掻き消されていた。
「五月蝿いっ!」
一方ユズハは、転倒して地下水に身を沈めながら、糸を瞬く間にトンネル内に張り巡らせた。
といっても、流されるほどの水深ではないが。
そんな糸の集合体が、レッドの体を絡め取り、瞬く間に包み込んでいく。
レッドの「俺を殺す気か!」という文句に、ユズハが「五月蝿いっ!」と反撃する。
二人が言い合っている内に、かまいたちが目前に迫って来ていた。
強風に煽られたレッドが「本当に死ぬ!」と喚き散らす。
しかしレッドが喚いたところで、かまいたちは止まるわけでもなく――。
むしろ、周囲の蝙蝠や下水を巻き込み、勢力を拡大させる。
もはやレッドは、細切れになる自分しか想像出来なくなっていた。
「!」
ところが、彼の体は幾分か風で煽られたものの、痛みは一切感じなかった。
実はレッドの体を、ユズハの糸が守ってくれたのだ。
直後、糸が解けて、レッドの体が下水道に投げ出されてしまった。
「……あれ? 助かった?」と、呆然とするレッドの側で、ユズハの糸が空気の刃によって次々に切り落とされていた。
「また、出費がかさむ!」
何とか上体を起こしたユズハの嘆きが聞こえた。
別に助かった訳ではない。
ただ、かまいたちからは逃げることが出来たに過ぎないのだ。
「……」
他方テレーゼは、網をくぐり抜けて来た蝙蝠を、立て続けに斬り落としていた。
蝙蝠が、狭い空間を自由に滑空する。
その軌跡は、トンネルの天井を沿うように円を描いたかと思うと、自身を絞り上げ、螺旋状に回転しながら、レッド達に狙いを定めるに至っていた。
まるで銃弾だ。
もちろん、一匹や二匹の話じゃない――。
群れの一つはトンネルの壁を削り、別の群れは水面すれすれに飛翔していた。
おかげで、周囲を火花と水柱、そして旋風が突き抜けていく。
「……」
テレーゼの視線は、蝙蝠の動きに反応する気もなかった。
ただ、前を見ている。
その代わりに、右手だけは激しく振られていた。
ちなみに狭いトンネル内では、刀を振り回せば、壁に当たり、弾かれてしまう。
彼女は、いや砕封魔はそこまで計算して、動きを最小限にして刀を振るっていた。
『キキッ!』
たった今、数匹が右頭上から頭目がけて急降下してきた。
しかし、彼女は黒目を動かすこともなく、その進入ルートへ刃を滑り込ませた。――ように“見えた”。
その刃が、蝙蝠の翼によって弾かれてしまったのだ。
「!」
テレーゼの目が思わず丸くなる。
「痛てっ!」という刀の声すらも、連なる風切り音に吸い込まれていった。
それだけは終わらなかった。
刀だけでなく、女の腕を“空気の刃”が斬り付けていったのだ。
どうやら、目の前を通過する群れの一つに気を取られていたらしい。――足元の水柱の先を飛ぶ蝙蝠に反応するのに、ワンテンポ遅れてしまったのだ。
飛び退ろうとするふくらはぎを、翼と空気が斬り付けた。しかも間断なく、次々と――。
「ちょっと、大丈夫!?」というユズハも声を掛けるだけで精一杯だった。
ちなみに、すでに立ち上がり、視線と糸が蝙蝠を追跡していた。
何しろ、糸で絡め取ることができるのは、一度に数匹が関の山。きりがない。
一方ユズハの問いに、テレーゼが答える代わりに怪我をしたふくらはぎが悲鳴を上げる。
体が痛くない方へと自然と傾く――その透きを狙うが如く、再び蝙蝠の群れが反対側の足を急襲する。
思わず膝が折れてしまう。
彼女の体が、勢い良く崩れ落ちた。
他方、レッドはエルザの体を庇うようにして覆った。
「ちょっと! 離れて!」と、ジタバタともがく彼女の耳が、通過する激しい風切り音を捉えた。――刹那、眩しい閃光が辺りを飲み込んだ。
「!」
時間差で、爆風と共にレッドの低い呻き声が、聴覚を刺激した。
爆風と閃光が収まり、目をゆっくりと開けると、そこには体中斬り傷に覆われ薄れゆく意識の中、それでも自分を守ろうとするレッドの姿があった。
どうやら、トンネル内にメタンガスが溜まっていたようだ。それに火花が引火したらしい。
でも今は、そんなことはどうでも良い。
「え。嘘……」これ以上、エルザの口からは言葉が出ることはなかった。
――ボロボロになってまで、私を守る? 普通……。
あれほど、私を嫌ってたのに――。
「……」
ついに意識を失ったレッドが、エルザの小さな体に無造作に凭れ掛かってしまった。
水温に冷やされる中、彼の体が沈まないように必死に支えた。
その間も、蝙蝠の攻撃は止むことはなかった――。
折角、眼前の男が守ってくれたというのに、エルザの体も少しずつ傷つけられていく。――今右肩をやられた。
痛みが、レッドを支えた右腕まで伝わり、今にも落としそうだ。――いや、今度は右腕を斬り付けられ、結局落とす結果になってしまった。
「あっ!」
エルザの声が、トンネル内に反響した。唇を噛み締めた。
水深はせいぜい膝下ぐらいまでだから、彼の体が流されるほどでもない。
だからといって、顔面が水面に浸かっている。――溺死するのは、時間の問題だ。
「ハァ。ハァ……。んしょ!」
非力なエルザが、必死にレッドの体を引き上げようとする。
しかし、そのか細い腕は、彼を数センチ浮かせたところで、すぐに音を上げてしまった。
おかげで、その勢いのまま尻もちをついてしまった。
しかし、自分の無力さを恨む暇など、神様は与えてくれてなかった。
視界の向こうから、蝙蝠が一匹――彼女目がけて突っ込んできたのだ。
「嬢ちゃん、伏せろっ!」声の主を確かめる術もなく、エルザが思わず蹲る。
その際、水面に浮かんだのは、男が立ち上がる姿だった。
――え。嘘……。でも、良かった。
頭を抱えて目を瞑ったエルザの顔は、何故か笑みを浮かべていた。
直後、駆け抜けたのは風切音ではなく、蝙蝠の断末魔だった――。
そこには、手にした砕封魔を縦横無尽に振り回すレッドが立っていた。
その勢いは尋常ではなく、蝙蝠の起こした旋風ですら、レッドを捉えることができないほど、その動きは速かった。
たった今、自分に向かってきた蝙蝠を、撫で切りにした。
鳴く暇すら与えられず、水中に落下した。
まさに、目にも留まらないほどに――だ。
「……」
しかし、いつもの彼とは様子が違っていた。その証拠に目が虚ろというか、生気がないというか……。
『キキキキキキッッッ……!』
しかしそんな異変に気付けないほど、レッドに蝙蝠の大群が一斉に飛び掛かってきた。
野生の本能か。
多分、今その場にいる中で、危険なのがレッドだと悟ったのだろう。まずは、この男を始末しないと――と思ったのか。
トンネル中が蝙蝠の鳴き声、旋風、爆発、水柱――それぞれが、無秩序に発生し、五感がすべて麻痺する。
「……」
しかしレッドは怯むどころか、眉一つ動かさずに、蝙蝠を次々に斬り伏せていく。
その剣閃は、硬い翼ではなく、胴体に狙い定めていた。
次々に襲いかかって来るなかで、そんな芸当が出来るとは、神業といっても良い。
まるでテレーゼのようだった。
少なくとも、ユズハはそういう印象を受けていた。
いや、それ以上だ――。
今度はレッドが、刀を握っていない左手で、蝙蝠を鷲掴みにし、それを力尽くで壁に投げつけた。
それも、立ち止まらず、壁や天井を駆け抜けながら、だ。
もはや、人間の動きではなかった。
そんな姿を呆然と見ていたユズハが、何かを思い出した。
大蜘蛛との戦いだ。
――もしかして、刀が操ってるの!?
それにしては、前とは違い、理性が飛んでいる。一体、何が……。
ユズハはそんなことを頭に浮かべながらも、エルザを抱えて、レッドから飛び退いた。
もちろん、彼女を危険から遠ざけるためだ。
「ねぇ! 大丈夫なの?」というエルザの問いかけに、ユズハが視線を合わせずに答えた。
「――さぁ。でも、あの様子だと、蝙蝠を心配した方が良いかもね」
ユズハの視線は、レッドに向けられていた。口元を歪ませながら。
視線の向こうで、レッドの活躍は終わらなかった。
未だにトンネル内を縦横無尽に走り回っていた。
それだけじゃない。
走りながら、壁や天井を切りつけていたのだ。
「痛って!」という刀の声が聞こえた気がした。
だが、レッドを操っているのが砕封魔だとしたら、何故わざわざ自分を痛い目に遭わせるのか――?
刹那、火花が不規則に、断続的に、明滅する。
そして刀が叫んだ。
「糸を出せ!」
「!」
突然の命令に関わらず、エルザの体が勝手に反応していた。
両手を真横に広げた瞬間、無数の糸がトンネル内に広がった。
時間差で、火花が糸を伝って、瞬く間に燃え広がっていく。
瞬間、「皆、伏せろぉぉぉ……!」という、刀の叫び声とともに、辺りに火炎地獄が広がった。
爆音と爆風、熱波がトンネル内を埋め尽くした――。
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