ジャンク・ボンド 第二章 14
「ハァ、ハァ、ハァ……」
母子は道場の隅で恐怖に身を震わせていた。
いや、ライナスだけは状況が分かっていなかった。だが、抱き締める母の温もりが心地良いことだけは感じ取れていた。
そんな母の腕が急に硬くなった。それどころか、微かに、いや確実に震えている。
戦うことも逃げることも叶わない親子の聴覚を、化物の猛々しい咆哮と破壊音が刺激する。
しかしライナスだけは、じっと黙っているのに耐えきれず、まるで母親に玩具をねだるような調子で話し掛けた。
「ねぇ。かあちゃん」
「静かに!」母が慌てて、ライナスの言葉を手で塞いで遮った。抱き締める腕の力もより強くなっていく。
しかし、いくら息を殺しても、気配を消しても、助かりたいと切望しても……結局見つかってしまう。
壁が粉々に吹き飛んだかと思うと、それらを身に纏いながらカマキリが道場に突入してきたのだ。
それと同時に、二つの鎌が母子に狙いを定めていた。
――殺される!
母子が死を覚悟した時だった。カマキリの後ろから声がしたのは。
「待て!」
カマキリが左目から血を流しながら振り返ると、そこには先祖伝来の剣を構えるアイザックが立っていた。
いや、一瞬にして姿を消した。
実はアイザックが、死角となった左側へ回り込んだのだ。
カマキリの首が九〇度回る。
しかし化物の反応より、アイザックの速度の方が一枚上手だった。
跳躍し、すでに後頭部まで到達していたのだ。剣先が狙っていた。
だがカマキリも負けてはいない。
頭上より向かってくる剣先を、本能のみで頭部を前に倒すことで回避したのだ。――その動きを予測していたアイザックは、地面に着地したと同時に、屈んだまま剣を両膝に滑り込ませた。
直後、痛みを覚えたカマキリが、床に体液を撒き散らしながら倒れてしまった。
それに伴って、カマキリの重さに耐えきれず、床が抜けてしまった。
家のあちこちで悲鳴が連鎖的に上がっていく。
もうもうと立ち込める粉塵のなか、カマキリの咆哮は激しい雨音と雷鳴によって掻き消されてしまった。
なぜか今まで充満していた粉塵も、瞬く間に鎮静化していった。その代わりに頭上から降り注いだのは、夥しい雨粒だった。
目線を挙げると屋根が壊れ、時折明滅する大空がこちらを覗き込んでいた。
そんな雨にずぶ濡れになるのを構わず、激痛にもだえ苦しむカマキリ。
「……」
固唾を呑んで、カマキリとの死闘を見ていた母。その腕の鎖から、ライナスが抜け出だした。
「やった!」
ライナスは無邪気に喜んでいた。だが、その笑顔はすぐに消え去ってしまった。何かを見てしまったのだ。
それは、粉塵というベールから覗き込む、カマキリの血塗れの顔――。
「ひっ!」
突然現れた化物に、腰を抜かすライナス。
そんなライナスの視界のなかで、二つの鎌が無秩序に暴れて大穴をさらに広げていた。
その亀裂は、周囲を縦横無尽に錯綜する。
まるで、意志を持ったかのように侵食を始めたのだ。
おかげで、ライナスの足元まで走った亀裂が、大穴へと引きずり込もうとしていた。
いや、すでに穴はそこまで口を開けていた。――急に自身の体が軽くなる。視界が暗くなった。
自分が落下しているのだと認識するのに、一瞬掛かったが、母の「手を離さないでっ!」という言葉で我に返った。
上を見上げると、自分の右手を必死に掴み上げようとする母の姿があった。
我に返ることができたが、同時に忘れていた恐怖が込み上げてくる。
「うわぁぁぁ……!」
思わず喚き散らしながら、体をバタつかせてしまった。
「う、動かないで!」という母の声が、どこか遠くで聞こえた。
そんなライナスの背中を、カマキリの鎌が捉えた。
「危ない!」カマキリに気づいた母が、さっきの戦闘で消耗していたアイザックを目だけで呼んだ。
その合図に気づいたアイザックが、自分の体に鞭を打ちながら、大穴に腕を突っ込んだ。ジタバタともがく息子の左腕が触れた。
「行くぞ!」
「はい!」
夫婦が、自身の危険をかえりみず、協力して息子を引き上げた。
すかさず母が、ライナスを抱きかかえて号泣する。「良かった!」
一方抱き締められたライナスは、この温もりが一生続けばいいと思っていた。
もっといえば、いくら危機的状況に陥っているとはいえ、ある目的のために家族が一致団結したことがなかった。
そのことが、とても嬉しく、彼にとっての念願の夢だった。
それが叶ったのだ。少しでも長く、この余韻に浸りたかった。
しかしそんな時間は、唐突に止まった母の声によって幕が下ろされてしまった。
「……?」
ライナスが不思議そうに、母の顔を覗き込んだ。何故か、驚きの表情のまま動かない。
いや、口をパクパクさせて、血を流している。
そしてそんな彼女の背後に目を移して、目を丸くした。
「おい!」
アイザックも、妻の異変に気づき、必死に叫んだ。
父子の視界には、妻の小さな背中に大きな鎌が突き刺さっている光景が映っていた。
「母ちゃ……ん?」
もう、これしか言えなかった。言葉の代わりに、嗚咽にも似た声が、喉から絞り出されていた。
そんな息子に心配を掛けまいと思ったのか、母はいつものように微笑んでいた。
「何ですか。泣きべそかいて。――男の子でしょ。今度は、あなたが父上を守りなさい」
やっとのことで言霊を紡ぎ終えた母の顔を、ライナスは一生忘れないだろう。
やはり微笑んでいたのだ。
何者をも慈しむような微笑みだ。たとえ腕の力に限界が来ても、たとえ穴に吸い込まれても、その微笑みを絶やさなかったのだ。
「か、母ちゃぁぁぁん!」
ライナスの悲痛な叫びが響きわたる一方で、普段涙を見せたことのないアイザックが、妻の背中に刺さる左鎌を切り落とした。
しかし妻は鎌と一緒に、穴の主となったカマキリの足下に落下したまま、二度と動くことはなかった。
何とか亡骸だけでも――。
いや生きているのかもしれない――。
そんなアイザックの逡巡を余所に、激痛が全身を駆け回っているカマキリがさらに暴れ出した。
おかげで、家全体が崩壊していく。
足元が不安定になっていくなか、アイザックたちは、まだ割れていない床板にしがみついた。
そんななか、苦し紛れに振った鎌たちが、アイザックの前腕を無残に切り付けた。
「ぐっ。うわあああ……!」
アイザックが、力の限り叫びながら、のたうち回った。
前腕から伸びる激痛が、すべてを忘れさせようと迫ってくる。
しかし忘れてはいけない。
愛しい妻が、たった今化物の餌食になったことを。
いや。
自分が無力がために、妻を助けられなかったことを――。
自分は今一体どんな顔をしているだろうか。
涙に濡れて悲しみに歪ませているだろうか。
それとも歯を食い縛り怒りに満ちているだろうか。
どちらにせよ、この腕ではどうすることもできない。どうせ剣など握れないのだから……。
アイザックが、恨めしそうに床に転がった剣に視線を移した。
その剣も、瓦礫と同様に化物の起こした振動によって弄ばれ、そこらじゅうを飛び回っていた。
仕舞いには、穴に落ちたかと思うと、カマキリに踏まれてしまっていた。
「母ちゃん!」
穴を覗き込もうとするライナスを、アイザックが悔しそうに顔中を歪ませながら、辛うじて動いた上腕で抱きかかえた。
「逃げるぞ!」
めったに泣かない父の言葉に、ライナスは反論したい気持ちをグッと堪えた。
――そうだ。今度は、オレが父ちゃんを守るんだ!
そのときだった。父子の背後で、眩い光とともに大きな音が轟いたのは。
同時に化け物の断末魔にも似た咆哮も、辺りに響いた。
ところが今度は光どころか、化物の叫び声すらも一瞬にして消失してしまった。急に耳が痛くなるほどの静寂が襲いかかった。
アイザックが恐る恐る振り返り――我が目を疑った。
「!」
カマキリが……真っ黒なのだ。まるで炭のようだった。しかも一切微動だにしない。
少し考えたが、化物の足下にあった剣の装飾が焦げていることに気づき、状況を一発で理解した。
踏みつけた剣とずぶ濡れの全身によって、化物の巨体に雷が落ちたのだ。
一瞬ご先祖様に感謝しようかと思ったが、どうやらそんな暇はないらしい。
家全体が限界に来ていたのだ。
床や屋根はすでになくなっていたが、柱や基礎、壁なども崩壊を始めていた。
とにかく、ここから脱出しなければ――。
そして、父子は必死に逃げた。裸足で。着の身着のまま。
深夜の大雨で、視界のきかないなか、とにかく必死に走った。
一体、どこをどう走ったのか、今となっては覚えていない。
ただ覚えているのは、時折明滅する雷光によって、周囲にはいくつもの亡骸が横たわっていることだった。
生気の失った二つの眼球が、雷光を反射するたびに、こちらを見ている気がした。
まるで、何かを語りかけているようにさえみえた。
なぜ、お前たちは生きている?
なぜ、殺されずに逃げている?
なぜ、家族を見殺しにした――?
ライナスの脳裏に、このような言葉が聞こえてきては、反響し消え去ることはなかった。
それを首を振り、目を瞑り、アイザックの上腕を強く握ることで、なんとか気を紛らしていった。
どれほど走っただろうか。
夜が白んできた。そろそろ夜が明ける。
気づいたら、裏山のなかまで来ていたらしい。周囲が木々で囲まれていた。その隙間から、陽の光が差し込んできて、目の奥を強く刺激する。
眩しさを覚えたライナスが、思わずアイザックの腕を握っていた自身の手を離し、庇をつくった。
隣にいたアイザックも、ここに来て緊張の糸が解けたらしく、呆然と太陽を眩しそうに見つめていた。
そんな父に、ライナスが何かを決意したかのように話しかけた。
「し、師匠」
息子の言葉に、思わず目を丸くするアイザック。 「父ちゃんで良い」
「師匠! 僕、いや、オレを強くしてくれよ!」
ライナスが、アイザックの腕を再び掴んだ。その顔は、明らかに化物に対する復讐に燃えた表情だった。
その顔を見るなり、アイザックはなぜか悲しそうな顔をした。息子の顔を見れなかった。
「……父ちゃんで良い。俺は母ちゃんを守れなかった。そんな俺から、お前は何を学ぼうというのだ」
「師匠、でも――」
「父ちゃんで良い!」
「と……ちゃん」
「……面目ない」
アイザックは、しばらく悔しさで肩を震わせていた。