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第三話

 朝、母はいつも時間がないといいながら、忙しなく家事に追われていた。そうして、家事がひと段落ついて、登園の時間が近づいてくると、またしても忙しなく化粧台へと向かい、せっせと化粧に励んでいた。僕はもうすでに、準備が出来ていて、鏡に映る自分と睨めっこをしている母の後ろで、「まだー?」と声をかける。そうすると、決まって「あともーちょっと!先に玄関に出てて」という返事が返ってくる。その返事を聞くと、僕は待っていました!と言わんばかりに廊下を走って、下駄箱の横にぶら下がっている通園用の黄色い帽子を取って、しっかりとかぶり、お気に入りのヒーローがプリントしてある紐のいらない靴をせっせと履いて家を飛び出す。自分の背よりも少し高い門を引いて階段を下りると、いつもそこには彼女がいた。


 同じ帽子に同じかばん、同じ幼稚園の制服で、違うのはスカートかズボンかというくらい。長い髪を後ろで一つに束ねて、帽子の下から、尻尾のように垂れているのが印象的だった。


 「行こう!」


 「うん!」


 互いに挨拶をした後で、僕が手を差し出して、言って、彼女が僕の手を取って、答える。普通車がなんとか対向出来るくらいの細い路地だったけれど、幼稚園に通っていた頃の僕は、家の前の路地が細いなんて考えもしなかった。久遠寺、当時はあやのちゃんと呼んでいたけれど、彼女と手をつなぎ、家の前の路地を歩く。しばらくして、大きな道へと交わる。この住宅地のちょうど真ん中を走る、歩道もあって、バスなんかも通っている道だ。


 その大きな道の前まで来て二人で止まる。子供だけで外に出ていいのは、家の前の道と、その路地と大通りが交差する所にある、ちょうど、僕の家の並び側にある小さな公園までだった。何気ない会話をしていると、母とおばさんが並んで後ろからやってくる。そうして、僕たちは家の前道から出ることが出来て、幼稚園までの道を二人、手をつないで歩いた。

 

 どんな事を話したとか、あの日に何があった。なんて事はほとんど覚えてはいなかった。何せ、幼稚園の頃の事だ。覚えていたのは、二人でならんで通園したという大まかな事くらいだった。




 

 過去を振り返りながら僕は久遠寺の横を歩く、昔はなんとも思わなかったこの路地も、今は細く狭い、見慣れた路地になっていた。幼稚園の頃、手をつないで歩いた道を、20年後、同じように歩いているというのがすこし不思議な感覚だった。でも、同じようにと言っても、もちろん手をつないでいる訳ではない。並んでいても微妙に距離が離れているし、たのしく会話をしている訳でもなかった。僕たちは特にこれと言った会話もないまま歩いて、一分もしないうちに大通りへと出た。

 すると、久遠寺が急に歩みを止めた。ちょうど、僕と久遠寺の二人が外に出てよいと親に言われていたギリギリの所だった。


 「駅前のスタバに行こうと思ってるんだけど、いいかな?」


 「えっ?ああ、うん。大丈夫」


 なんとなく、僕は久遠寺が思い出に浸ってそこで立ち止ったのではないかと思っていたので、少し意表をつかれた。考えてみれば、そんなことになるはずはなかった。


 僕たちは大通りに出て、駅へと向かった。相変わらず人影は見えず、薄く張った雲の切れ間からは暖かな日差しが差し込んで、穏やかな陽気に街は包まれていた。鳥のさえずりが聞こえる。自動車の行き交う音が聞こえる。久遠寺の声は聞こえない。僕たちは黙って駅へと歩みを進める。


 しばらくして、信号のある交差点へとさしかかった。赤信号に捕まり、歩みを止める。一台車が通り過ぎてからは、僕たちの前に車が通る事はなかった。別に信号を無視して先に進んでもよかったけれど、久遠寺にその意思が無いようなので、僕も信号が青になるのを待つことにした。


 カランカランと鐘の音が聞こえた。ちょうど僕たちの右手側、交差点を対角線上に挟んだ角の、『コックル』というパン屋から人が出てきたようだった。なんとなく、そちらに目を向ける。昔からある、パン屋で、今でもたまに、バイト帰りなどに寄ることのある店だ。


 気づくと久遠寺もパン屋を眺めていた。


 信号が青になり、僕たちは歩みを進める。そういえば、あのパン屋にも、二人で行ったことがあったなと、横断歩道を歩きながらふと思い出した。あれは、たぶん小学校の5年か6年生の頃だったように思う。はっきりとは思い出せない。久遠寺に尋ねてみてもよかったが、そうはしなかった。

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