第一話
通勤ラッシュの時間を一時間ばかり過ぎた住宅街の道路はやけに静かで、のんびりとした空気があたりを包み込んでいた。僕は駅に背を向けて、住宅街をゆっくりと歩く。疲労と眠気から来る倦怠感は僕の体に泥のようにまとわりついて、速く家路についてベッドに潜り込みたいと思う僕の思考とは裏腹に、体の動きをひどく鈍いものにしていた。
大きいとも小さいとも言えない一戸建ての家が肩を寄せ合うように並んでいる、大体どの家も車一台分の駐車スペースとおまけ程度の庭が付属していた。どの家も、デザインや色が違うのに、どれも同じものように見えてくるのはなぜだろうか。そんな事を考えるけれど、今は思考よりも倦怠感が僕の体を支配しているようで、うまく考えがまとまらない。たぶん、同じに見えるのではなく、実は全く同じなのだろうというよくわからない結論に達した。
歩道のある少し大きな、この住宅街のメインストリートを左に曲がる。普通車ならぎりぎり対向できるだろという細い道だ。相変わらず道の両脇にはどれもこれも同じような住宅が並んでいる、その左奥、クリーム色の壁に灰色の屋根、玄関の横に小さな庭と一台分の駐車スペースがある。恐ろしいほどこの住宅街に馴染んだ家が見えてきた。僕の家。いや違う、正確には僕の父が所有する家だ。
道路から三段ほどの短い階段を上がって、腰の高さほどの鉄で出来た、柵ように、細い棒で組まれた門を押して玄関へと向かう、ふと庭に目をやると、干されたばかりであろう洗濯物が風にほのかになびいていた。僕の昨日着ていたティシャツと父の仕事着であるワイシャツが並んで、ゆらゆらと揺れている。それを見て、僕はため息をつきながら洗濯物を干す母の姿を想像していた。父はあまり僕の事に関心がないのか、僕の生活について特に何かを言ったり、望んだりはしなかったが、母は違った。物干しに並ぶ洗濯物はティシャツではなく、ワイシャツであってほしかったと母は望んでいたのだ。
大学を出て、25歳になっても未だに定職につかず、工場の夜勤のアルバイトで生計を立てるような生活を母は望んではいなかった。いや、僕だってそんなものは望んではいない。では誰が望んだのか?誰も望んではいない。ではなぜそうなったのか?それは、間違いなく僕に責任がある。でも、僕はなぜ、フリーターという道を選んだのか――――。
洗濯物を見ながら、ぼんやりと考え込んでしまっていた。夜勤終りの疲労したときは、まともに考えもまとまらないのに、よく、取りとめのない事を考えてしまう事があった。今のはまさにそれだった。思考の渦を取り払って、玄関のノブに手をかけた。すると、
「秋吉くん!」
頭の、奥のほうで声が聞こえた。母の声とはあきらかに違う、若い女性の声だった。ひどく懐かしさを感じる声で、驚くほど、自然に頭の中に流れ込んできた。ありえない、幻聴ではないのかと思いながらも、声のしたほうに顔を向ける、ちょうど、玄関を前にした僕の真後ろから聞こえてきていた。顔を向けて、次に体をそちら側に向ける。
「久遠寺……」
僕は思わず呟いていた。
僕の住んでいる家のちょうど正面、どちらかといえば和風な佇まい、それでもやはりよくある一戸建ての家で、一台分の駐車スペースと小さな庭がある、ごく普通の一軒家。なぜか、門だけはうちと同じような、洋風の鉄格子のような門がついているが、それほど、アンバランスに思えないのが不思議だった。
そんな門に手をおいて、久遠寺綾乃は笑顔でこちらを見ていた。彼女と最後に会ったのはいつだろうか。中学の卒業式?いや、たぶん、それは最後ではない。ではいつだろう。そもそも、最初にあったのはいつのことだったか―――。
夜勤明けの疲れた頭で、僕はとりとめのない事を考えていた。




