【7】古砦にて──奇妙な御茶会(七篠狐)
──私と親友のルーシィが村を出たのは、今から五年ほど前のことだった。
レヴィンの村は都会から大きく離れた田舎で、裕福とも貧しいとも言えない微妙な状態で存在し続けていた。
そんな状況でも、どうにか日々の営みを続けていくことはできていた。だが、それでも都会への憧れというものは無くなることはなかった。幼い頃に村を訪れた女性の傭兵や、商家の娘だったマリィから外の世界の話を聞いて憧れを抱いていたから、というのもあったのだろう。彼女がよく振る舞ってくれた林檎茶は、渋みの強い安物の茶しか飲んだことのない私にとって“外の世界”そのものだった。
──村を出て旅をしよう。そんな無謀な考えに至ったのは仕方のないことなのかもしれない。
そして私とルーシィは村を出た。見たことのない世界を見るために。ついでに家族や村の皆に楽をさせるために。
そして──失敗した。
当然の帰結だった。勢いだけ行動した若者、それも女二人で外の世界で生きることなんて海を知らない池の魚の如しだった。
最初こそはそれでも気丈に町を巡って仕事を探してみたものの、世間知らずの若者二人を引き入れるような真っ当な仕事は一つも見つからなかった。
「──ねえ、もういいんじゃないかな」
──村を出てからちょうど一ヶ月経った夜。またいつものように町の外で野宿をしていると、俯きながら焚火に当たっていたルーシィが弱々しく言った。
「……どういう意味よ、それ」
「……私たち、もう十分頑張ったと思うの。色んな町に行って、たくさん仕事を探して……でも、結局何もできなかった……やっぱり無理だったんだよ、外の世界で働くなんて……」
「そんなの……まだ分からないわよ」
薄々と、私自身感じ始めていた事を彼女に言われ、胸が締め付けられるような錯覚を覚えながらも、私は必死に反論した。
「十分頑張ったって言うけど、まだ一ヶ月よ? 行商人だって、独り立ちしてから一人前になるまでは途方もない時間がかかるって言うじゃない。もっと頑張ればきっと──」
「頑張るって、これ以上何を頑張ればいいのよ?」
聞いた事のない彼女の怒号が、私の言葉を遮った。まともな食事もとれなくなり、大分弱っていた筈の彼女の声に、私は思わずたじろいだ。
「私たちには分不相応な夢だったんだよ……」
そう語る彼女の青い瞳が潤んでいき、目尻に涙が溜まるのが見えた。
「……私は、諦めないわよ」
──それでも。だとしても。私はこんな所で折れたくなかった。
「折角村のためだって言って村を飛び出して此処まで来たのに……たった一ヶ月で諦めて帰るなんて、馬鹿みたいじゃない」
──実際、後になって思い返せばこの時の私は馬鹿だった。周りに味方がいない孤独な状況で、根拠も無い意地を張って──
「私は一人でも続けるわ。──帰りたいのなら、貴女一人だけで帰ればいい……!」
そう言って私は彼女の元を飛び出して行った。その時に一瞬見えた彼女の悲痛な顔は、今でも忘れられないものとなっていた。
***
──五年後。
私は傭兵として、とある町で暮らしていた。
ルーシィと喧嘩別れしてから暫く経った頃。結局状況が好転しないまま、金目当てで盗みに入った場所が偶然にもそこそこ名のある傭兵の家で、あっけなく捕まった私の事情を聞いたその人は、私を身内として受け入れてくれた。そんな今生で二度もないであろう幸運に恵まれた私は、今では一人の傭兵として裕福とも貧相とも言えない微妙な暮らしを続けていた。故郷への便りは今まで一度も送っていない。「村の皆を楽にさせる」と息巻いておきながら、命を削る仕事をこなして漸く自分一人保たせるのが精一杯、なんて恥ずかしいことを村の皆に知られるのが怖かったからかもしれない。かつて抱いていた「世界を見て回る」という夢も未だに叶えられていない。
──レヴィン村近くの森に魔女が住み着いた。そんな依頼が私の目に映ったのは半月程前のことだった。
行きつけの酒場でたまたま目にしたその張り紙を見て、強い郷愁の念に駆られたのかもしれない。気がつくと私はレヴィン行きの旅支度をあっという間に済ませていた。
町からレヴィンまでは馬車で五日ほどの距離だった。──遠いような近いような、そんな微妙な距離だった。
「──ただいま」
馬車を降り、かつてルーシィと一緒に出立した時とあまり変わらない村の空気を吸いながら、私は誰に言うでもなく呟いた。──半ば家出のような形で離れてしまった私のことを覚えている人間はあまりいないだろう。それでも、ひょっとしたら──そんなありもしない期待を胸の内に押し込みながら、私は村長の家に向かった。
顔面毛むくじゃらの村長はどうやら二年前に亡くなったらしい。今はその息子、丸太を運ぶ姿しかよく覚えていない逞しい身体をした彼が村長を勤めていた。
「エレナ! エレナじゃないか!」
この五年で私もそれなりに成長したはずなのだが、それでも彼の体躯は神話の巨人を思わせるほどに巨大で、その声もまた巨躯に違わず大きなものだった。
「……お久しぶりです」
──意外なことに、彼は私の事を覚えてくれていたようだ。私自身はそこまで面識があるわけではなかったのせいで、微妙な返事しか返すことができなかった。
「みんな心配してたんだぞ。五年間ずっと便りの一つも寄越してくれなかったんだから」
「それは……ごめんなさい」
当然の言葉に、私は俯くことしかできなかった。
「──まあ、君たちにも何か事情があったんだろう。とりあえず、茶でも飲んでゆっくりしていくといい」
そう言って彼は私に紅茶のカップを差し出した。少し濁りの強い黒緑の茶。金の乏しい平民でも買える安物の不味い茶葉だった。
「ルーシィはどうしたんだ? 彼女も一緒なんじゃないのか?」
──来た。
どうか聞かないで欲しい。そんな願いも虚しく、彼は無慈悲に──最も、そう尋ねる彼の口調は穏やかなものだったが──尋ねてきた。
「あの子は……今は別の仕事に行ってるの」
苦し紛れの返答だったが、彼は納得してくれたらしく「そうか……それは残念だ」と頷くだけだった。──正直、少しだけ安堵した。彼が樫の木のように真っ直ぐな性格で良かったと思う。
「まあ、君だけでも帰ってきてくれて嬉しいよ。ご両親にはもうお会いしたのか? 時間があるのなら、顔だけでも見せてやると良い」
「ええ、時間があれば……それより、依頼について話を聞きたいんですけど」
「ああ、その話か」
仕事の話に変えると、途端に彼は渋い顔をした。「正直こんな噂程度のことで傭兵を雇いたくは無かったんだがな……」紅茶のカップに口を付け、溜息を吐いた。
「村の爺さん婆さんが五月蠅くてね。『悪魔が出た』だの『魔女が出た』だのなんだのと。そんな昔話の存在、信じる奴なんてもう殆どいないのに」
──確かに。悪魔や魔女という存在は遠い昔に存在していたという記録があり、今でも突発的に現れては人々を襲う事例はあるものの、そういった事例が起こること自体が希であり、殆どの平民にとってはあくまで架空の存在という認識でしかなかった。
「じゃあ、結局魔女はいないってことですか?」
──そんなことをわざわざ口にするほど、私は野暮でもなかった。簡潔に私は尋ねた。
「おそらくはな。目撃者は全員が老人。時間も夜遅く、肝心の証言も『森の奥に女の姿が見えた』とかいう具体性の欠片もないものばかり」
そう言って彼は再び紅茶のカップに口を付け、微かに表情を歪めた。
「──一応村の男衆を集めて一通り捜索はしてみたんだが、女の人なんて何処にもいなかった。住人や家畜、畑にもそれらしい被害は見受けられなかったから、若者はこぞって『老いぼれの幻覚だ』って笑い話にしてるよ。俺もその一人さ」
とは言え村長としての仕事もあるからな、と彼は肩を竦めた。
「分かりました。取り合えず、森の中に人がいないか調査すればいいんですね?」
「ああ、あの呆け共が納得する程度に時間を潰してくれて構わないよ。君が戻ってくるまでに報酬も用意しておく。あまり多くは出せないが……」
「構いません。ちょっとした里帰りのついでみたいなものですから」
「そう言ってもらえると嬉しいよ」
そう言って彼が差し出した手を握る。今でも木こりの仕事は続けているのだろう、彼の手はゴツゴツしていてどうにも握りづらかった。
***
私の両親は少し皺が増えていたものの、まだまだ畑を耕すくらいの元気はるようだった。マリィは随分と綺麗になったようで、商店の看板娘として村の男子や外の町でそれなりに人気を集めているらしい。──ルーシィの家には、立ち寄らなかった。
再会の挨拶もそこそこに、私は森の中に足を踏み入れた。話くらいは戻ってくれば幾らでもできる──この時の私はそう思っていた。
レヴィン村の森は私とルーシィが幼い頃からよく遊んでいた場所で、魔獣の類も殆どいない天然の遊び場だった──今にして思えば魔獣のいない領域というのは、それはそれでかなり危うい場所なことに違いはないが。
森の奥には古砦があり、大昔に使われていたらしいという伝聞以外は大した歴史的価値はないが、村の鐘楼から眺めると遠くに小さく緑の天蓋を突き破るその廃墟を見ることができる。なので
村の男衆が捜索したのは森の中程まで。魔獣がいないとは言え、未開の森の奥は天然の迷宮。下手を踏めば自分が迷い込んでしまうことになる以上、深くまで調べられないのは仕方のないことだった。私も慎重に目印を付けながら進んでいく。目指す先は古砦。仮に魔女が潜んでいるとすればそこぐらいしか考えられなかった。
膝まである草を踏み分けながら森の奥へと進んでいく。──やはりというべきか、魔獣の類とは一匹も遭遇しなかった。
──虚しいわね……
魔獣にも、動物にも会うこと無く、私はただ黙々と歩き続けていた。こうなってくると、普段はそのあまりの臭さと汚さに嫌悪感を覚えるような盗賊の存在すらも恋しくなってくる。
「……師匠が一緒にいた頃はまだマシだったんだけどなあ……」
誰が聞いているわけでもないのに、つい何か言葉を口にしてしまう。とは言え、何も喋らないよりはまだ退屈と寂しさを紛らわせることができる。
「せめて誰かと一緒にいればな……」
ふと、五年前のことを思い出す。ルーシィと喧嘩別れするまでは、いつも彼女と一緒だった。
──何処にいるんだろうな、あの子……
下手に期待を抱かない方が良い、と師匠は言っていた。実際その通りかもしれない。それでも、どこか頭の中には彼女に生きていて欲しいと思っていた。──いつまでそのような未練がましいことを。
目的の古砦に到着したのは隙間から見える太陽が少し西に傾いてきた頃、想定していたよりも少し早い時間だった。
周囲の地面には古砦の瓦礫だったものとおぼしき苔むした岩が随所に転がっていた。
正面にはかつて遠くから見ていた廃墟が建っている。こうして近くでよく見てみると、蔦や苔などが表面を覆っているものの、比較的綺麗な状態で遺っているようだった。
「……ん?」
数時間も森を歩いていた私の鼻を異臭が突いた。──燃え溶けた蝋の臭い。上の方からだった。見上げるてみるが、そこには砦の二階三階の窓が等間隔にぽっかりと黒い穴を空けているだけだった。灯りの類は何処にも見られない。
──蛇が出るか悪魔が出るか……
覚悟を決めた私は砦の大扉を押し開け、内部へと入っていった。そして──
「何これ……」
──外観は確かに人の気配を感じない廃墟だったはずの古砦の内部は、まるで今も人が住んでいるかの様に綺麗に整えられていた。壁には等間隔に並べられた燭台が部屋を明るく照らし、灯りに照らされた床は曇り鳴く光り、そして床に敷かれた絨毯は汚れもほつれも一切無く綺麗に敷かれていた。
──明らかに誰かが此処を使っている。
「──誰?」
不意に年若い女性の声が私の耳朶を打った。振り向くと、正面の階段に一人の少女が立っていた。長い丈の黒色のドレスを身に纏い、桃色の髪をを揺らしながら、少女は私に近付いて──
「……ルーシィ?」
自然と、私の口からその言葉が飛び出た。だが、不思議とその言葉に自分自身が納得してしまう程に、少女の容姿は『彼女』に酷似していた。
「……エレナ?」
私の言葉に驚いた少女は、数瞬の間金色の瞳を大きく見開いたまま、やがてぽつりと呟くように私の名前を呼んだ。
***
「はい、これ。あまり、上手く淹れられないんだけど」
そう言って彼女が差し出した紅茶のカップは、村長の家で見たそれと比べると、綺麗な花の装飾があしらわれているものの、少し欠けていた。立ち上る湯気から林檎の香りが漂ってくる。
こんな廃墟に居を構えるこの数奇者な少女に連れられて、私は客間とおぼしき一室にいた。──ルーシィ。確かに彼女の面立ちは五年前に別れてしまった時の頃とそっくりだった。──だがそんなことが本当にあるのだろうか? 他人の空似、などという言葉もある。
「……ありがとう」
少しばかり逡巡したものの、私は素直に紅茶を口にした。林檎の甘酸っぱい味が舌に広がる──懐かしい味。子どもの頃、都会から帰ってきた友人が土産にくれたそれと同じ味だった。当時の私はこれを「都会の味」と呼んで、いつかこれを毎日飲めるようになりたいとよく思っていた。──結局、働き口が見つかった今でも相変わらず渋い茶しか飲めていない。
「──エレナは、このお茶が大好きだったよね?」
そんな私の心を見透かしているかの様に、桃色の髪の少女は尋ねた。
「……ええ。あの子が行商の帰りにいつも持って帰っては自慢してきたの、よく覚えてるわ」
「そうだね。マリィと違って、私たちは村の外に出ることがなかったから……」
──間違いなく、この少女はルーシィだった。五年前に一緒に村を出て、そして喧嘩別れしてから消息を絶った、私の──
友人。そんな言葉を浮かびかけた私は、それを振り払わんとするかのように頭を振った。
──馬鹿を言うな。私はこの子を見捨てたんじゃないか。外の世界のど真ん中で、右も左も分からない赤子も同然の彼女を置いて。意地を通そうとつい反発して。──私には、この子を友人と呼ぶ資格はもう無い。
「エレナ?」
「……なんでもないわ。それより──」
心配げな声で語りかける彼女に、どうにか虚勢を張って答えようとしたが、その声は自分でも馬鹿みたいに思える程硬いものだった。
「──今まで、どうしてたの? 村には帰ってなかったみたいだけど」
「うん……話すと少し長くなるけど、良いかな?」
「構わないわ」
そう答えると、「じゃあ、失礼するね」とルーシィは私の隣に座った。──香水の甘い香りが鼻孔をくすぐる。静かに自分のカップを口付けて茶を飲むその姿は、まるで貴族の令嬢のようで、とても田舎の村で生まれ育った娘には見えなかった。
「──エレナと離ればなれになってから、私は村に帰ろうと思ったんだけど……どうやって帰れば良いのか分からなくて途方に暮れていたら、貴族の方が私を救ってくれたの」
カップをテーブルに置いてから一息。ゆっくりと彼女はその視線を私の目に向けながら話し始めた。
「そうなんだ」
あの後ルーシィがどうなったのかについては、師匠の傭兵からは「見慣れない誰かと一緒に町を出た」という話を聞いただけだった。
「それで今年まではその人の屋敷で暮らしていたんだけど、私ももう大人になったから自分の住処くらいは持ってもいいだろうって、以前その人が使ってたこの場所を譲ってくれたの」
「……ふぅん?」
相槌を打つと同時に一瞬、彼女の言葉に違和感を覚えた気がした。──何故だろう。
「エレナ?」
私の視界に、彼女の双眸が映り込んだ。知らぬ間に、私と彼女の距離は肩が触れて吐息を感じられるくらいに近くなっていた。燭台の揺れる炎が映る彼女の金色の瞳。──何かがおかしい。そんな違和感が、私の胸の内で警鐘を鳴らす。
「どうしたの?」
彼女の瞳に、自分の身体が吸い込まれるような錯覚を感じた。戻ることのできない何処かに連れて行かれるような感覚。これ以上はいけない。早く戻らないと──
「……ううん。多分、気のせい」
──戻るって何処に?
そんな疑問と共に、何処か深いところに沈みかけていた私の意識は現実へと引き戻された。心配そうな表情で、ルーシィが私の顔を見つめていた。
「少し、疲れているんじゃないかしら?」
「……そうかも、しれないわね」
そう言われて見ると、確かに身体が微妙な倦怠感を訴えかけてはいた。魔獣との戦いは無かったとは言え、昼間はずっと身体を動かし続けていた。
「今からだと森の途中で夜になるし、今日は此処に泊まっていかない?」
そう言われて窓の外を見ると、いつの間に時間が経ったのか陽がだいぶ低いところまで沈んでいた。
「そうさせてもらおうかしら」
──言いようの無い違和感は拭いきれないものの、折角の申し出を断る理由も特に無かった。どうせ村に戻っても居心地が悪くなるだけだ。
「本当? 良かった」
私が答えると、彼女の白い顔が一気に朱が差したように明るくなった。
「それじゃ、お部屋の用意するから、それまで適当に時間潰してて」
そう言って彼女は軽やかな足取りで部屋を出て行った。
「やっぱり……強いんだね……」
──部屋を出た時、彼女が何か呟く声が耳に入った気がした。
***
こんなに裕福そうな内装をしておきながら食料の類は殆ど無いらしく、私が持っていた保存食を一緒に食べるという何とも奇妙な夕食となった。案内された部屋は、以前に師匠と共に一回だけ赴いた事がある男爵の邸宅のそれより少し質素なものだった。
窓から見える景色は空は既に暗く、夜空より暗い深緑の上に孤月と星々が光っているだけだった。
──何か、重要なことを忘れている気がする。
そんな物寂しさを覚えるような景色を眺めながら、私は胸の内に引っかかる奇妙な違和感と向き合っていた。
──そういえば、私は何のために此処に来たんだっけ?
「……私を何をしに……」
テーブルに目をやると、そこには昼間飲んだものとは違う茶器が置かれていた。夕食の後、また少しだけお茶を淹れていた。ルーシィが出してくれた効果な果実茶では無く、村長の家で見たような何処にでも売られている安い──
「──あ」
──思い出した。
さも当たり前のようにこの朽ちた砦で奇妙な歓待を受けていたが、私はそもそも此処に調査に赴いていたはずだった。森に住み着いた魔女がいるという噂──そして森の奥の古砦に実際に住み着いていた消息不明の親友。
──どうして、此処に彼女が?
「……解けちゃったんだ」
不意に後ろからルーシィの声が飛んできた。いつの間にか、昼間にお茶を交わしていた時の澄んだ硝子笛のような声色とは違って、その言の葉には若干の冷たさと鋭さを感じさせた。──この冷たい圧は、私自身何度も感じてきたものだった。
「もう少し上手くいくかと思ったんだけど。まあ、いいか」
「ちょっと、ルーシ──」
「──“動かないで”」
彼女の言葉が発せられると共に、私の身体はまるで自分の物ではないかのように固まってしまった。
「……うん、今度は大丈夫だね」
そう言うと彼女はその華奢な体躯に似合わない膂力で私の身体を抱え、近くのベッドに横たわらせた。
「せっかく幻惑の術をかけていたのに、エレナったら全然かかってくれないんだもん」
「ルーシィ。貴女は一体……?」
身動きができない私の身体にのし掛かったルーシィ。
「凄いでしょ? 私はね、この目を使って色んなことができるんだ」
まるで子どもが初めて作ってもらった玩具を自慢するように、ルーシィは無邪気に、そして誇らしげに言った。
「……私、言ったよね? エレナと別れた後、貴族の方に救われたって。あの方に出会った時はね、私はもう何日も飲まず食わずでいたから、既に瀕死の状態でもう後一晩保つかどうかだったらしいの……だから──“新しい身体”にする必要があったの」
そう言ってルーシィは私に見せつける様に自身の口を大きく開けた。唾液が糸を引く彼女の口内。そこに並ぶ彼女の歯の中にまるで肉食獣の様に鋭く伸びた歯が二対──そして、彼女の甘い吐息から、微かに嗅ぎ取れるこの臭い。傭兵として戦いに身を置くようになってから何度も感じてきた、血の臭い……
「まさか、貴女……」
──吸血鬼……!
昼間から感じていた奇妙な違和感。その正体にようやく気付いた。何故故郷の近くまで戻っておきながら村の人間に顔を合わせずにこんな廃墟に居を構えているのか、
そして──青色だった筈のルーシィの瞳が何故金色になっているのか。
──私は既に気付いていた。気付いていた筈が、
吸血鬼の実物を直接目にしたことはなかったが、それについての話は何度も師匠から聞いた事があった。魔眼を駆使して人を操り、生き血を糧とする悪魔。血塗られたように紅い唇、雪よりも美しく冷たい白の肌、そして悪魔特有の金色の瞳──その瞳に囚われた人間はその者の意のままに操られると言われている
「貴女……“洗礼”を受けて……」
吸血鬼の“洗礼”。自らの血を与えることで、他の人間を自身の血族に変えるという、最も恐れられている吸血鬼固有の特殊能力だった。
「うん、凄いでしょ? 昔はエレナよりずっとずっと弱かったけれど、今なら貴女一人簡単にやっつけられるんだから……」
そう言って彼女はにやりと笑った。
「私、ずっと寂しかったんだよ? 何も分からない場所で、エレナに置いて行かれて……何度も何度もに死にたくなるくらいに辛い思いをして……だから」
そう言って彼女は、優越感に浸っているのか、かつての彼女からは想像もできない妖艶な表情で目を細めた。
「もう二度と、私から離れられないようにしてあげる──」
その言葉と共に、彼女の口が私の首筋に迫る。生暖かい吐息が触れる度に、全身がぞわぞわと震える。どうやら彼女は、完全に自分がこの場の主導権を握っていると思い込んでいるようだった。──だからこそ気付かなかったのだろう。いつの間にか、彼女の使った魔眼の力が失われていることに。
──動ける。
数瞬の間を置いてそれに気付いた私は、すかさず周囲を見回した。
「──らぁ!」
彼女が油断している隙に、私は素早く傍にあった枕を掴んで彼女の横顔に叩きつけた。中身は贅沢にも綿で柔らかくなっていたらしく、思っていたよりも感触は軽く弱かったが、それでも彼女の不意を打つには効果的だったらしい。
「……きゃっ!」
大して威力も無いはずの一撃で、彼女の細身の身体は簡単に倒れた。──形成逆転。
「そうやって簡単に力に驕っている間は──」
得物を手に取る暇はない。そもそも、今の私には──例え悪魔に身を堕としていたとしても──彼女を手にかけるつもりは無かった。
「簡単に足元を掬われるのよ……!」
今度は、私自身が彼女に馬乗りになる番だった。彼女の両手首を掴み、全身で彼女の身体を押さえつけると、私と彼女の顔は鼻先が付きそうなほどに近くなっていた。
「私、ずっと後悔していたのよ。貴女を置いて行ってしまったこと」
「! 何を──」
「──私を拾ってくれた師匠に頼んでいたの。町にルーシィっていう桃髪の女の子がいるから、助けてほしいって。でも、そうしたら見慣れない人と一緒にそれらしい少女が町を出て行ってしまったって聞いて……」
そう言っていた師匠の顔は、明らかに私を気遣っている様子だった。当然のことだ。この時代は奴隷や身代金目当ての人攫いという奴の話をよく耳にした。田舎から独り身で出てきた少女の行き着く先など、たかが知れていた。
「もう二度と会えないかもしれないって師匠は言ってた。でも、私はまだ諦めきれなくて……だから私は師匠に弟子入りしたの。傭兵になって各地を回れるようになれば、いつか貴女に会えるんじゃないかって」
窮地を運で乗り越えた先に、私が選んだ道はまたしても分不相応に険しいものだった。離ればなれになった友人と再会する。ただそれだけの為に命のやりとりをする仕事に手をかけるなど、端から見れば私はただの気狂いの類でしかなかっただろう。
「今更そんなこと……もう遅いよ……」
一方でそれを耳元で囁かれた吸血鬼の少女は、先ほどの威勢が嘘のように消え失せた声で言った。その声色は、五年前に離別した時のあの泣き声そっくりだった。
「私はもう……貴女とは全然違う。もうタダの化け物だから……」
彼女の顔をふと見ると、その獣のような瞳にはまるでふさわしくない大粒の涙を浮かべていた。まるで情緒不安定なその様相に、私はにわかに憐憫の情を抱いた。──多分、無理して強がりしていたんだろうな。
「……化け物がそんな簡単に泣いてるんじゃないわよ。情けない」
そう言って私は、少女の身体を優しく包むように抱きしめた。──思えば、昔から私とこの子はこういう関係だった。泣き虫で弱虫だったルーシィは、何かあればすぐに私の所に泣いて駆けつけて、彼女を虐めた男子どもを私が問答無用で叩きのめしては親に迷惑をかけていた。
──そんな彼女だからこそ、私が村を出ることを告げた時に自分も付いていくと言ったのは正直驚いた。無茶を言うなと何度も反対したのに、この時に限って彼女は一切折れることはなく強情に我を押し通していった。今にして思えば、彼女は私と──
「──ねえ、今からでも遅くないわ。私と一緒に行かない?」
「……エレナ?」
私の提案を一瞬理解できなかったのか、ルーシィは泣き顔で首を傾げた。
「別に村で最初からやり直そうって訳じゃ無いけれど……言ったでしょ? 師匠と一緒に傭兵やってるって。私は自分の食い扶持を稼ぐだけで精一杯だけど、こんなカビ臭い所で引き籠もっているより、よっぽどマシだと思うわ」
「……別に好きで引き籠もっていないもん」
そう文句を垂れつつも、彼女は何かを慮っている様子だった。今更何を悩む必要があるというのか。
「……私、化け物だよ? 一応」
「ええ」
「教会とかに知られたら大変な目に遭うよ?」
「バレなきゃ良いだけじゃない」
「それは、そうだけど……」
──ああ、成程。なんでこれ以上ない提案を渋っているのかと思えば。当人が問題無いと誘っているというのに、このお人好しな元村娘はこの期に及んで私の心配をしているようだった。
「私は平気よ。村にいた時だって、いつも私が貴女を護る側だったでしょ?」
「……でも」
「でもは無し。吸血鬼になっても私に組敷かれるような弱っちい子が、文句言うんじゃないわよ」
何時までも渋るこの根性無しに、私はいよいよ業を煮やした。せっかく五年も捜していた親友と再会できたのだ。なんとしても取り戻したい。
「──それとも、貴女は私と一緒にいるのが嫌?」
そう言うと、ルーシィははっとした表情で私の顔を見上げた。
「ずるいよ、そんな言い方……」
そう文句を垂らしながらも、彼女の両腕はしっかりと私の身体を強く抱きとめようとしていた。若干荒い鼻息が胸元を擽る。
しかし、数分も経つと彼女の啜り泣きは穏やかな寝息へと変わっていった。──随分と暢気なものだ。
──私はもう眠れそうにないわね……眠気はあったが、あまりにも現実離れした出来事に身体が興奮しきっていた。だが、これは確かに現実なのだと、抱き止めている少女の肢体の温もりが告げていた。
──一晩中、このまま眺めているのも良いかな。そんな邪な考えが一瞬だけ頭をよぎった。
***
──窓の外から暁光が見える。あれだけ興奮冷めやらぬ状態だったのは自分の感情だけだったらしく、身体の方は結局素直に眠りこけてしまったらしい。昨日のことは夢ではないのか。そんな不安を抱いたが──
「──あ、起きてる」
脱ぎ散らかしていた服を着終えるのとほぼ同時に、ルーシィが部屋に入ってきた。──どうやら杞憂のようだった。──それにしても。
「……どうしたの、その格好」
彼女が身に着けているのは、昨夜見た時の綺麗なワンピースでは無く、無骨な鞣革の旅装束。──昔、私たちが村を出た時と同じ格好だった。
「一応ね、持ってたんだ。もしかしたら……と思って」
私の問いかけに対し、彼女はやや頬を赤らめながら答えた。
「……連れて行ってくれるんだよね? 今度こそ、一緒に」
後ろ手を組み、私を見上げるような姿勢で彼女は言った。まるで強請り方を覚えた子どものような仕草に、私は思わず吹き出した。
「……真面目に聞いているんだけど?」
「っ……ごめん」
ふくれっ面で文句言う彼女に再び緩みそうになった頬を無理矢理押しとどめながら謝った。
「自分で言った手前、無かったことにするわけ無いでしょ? 我ながら今更強引な気がしてきたけど──」
そう言って私は手を差し出す。
「一緒に行こっか? ルー」
「……うん」
細くて小さい彼女の手の感触が掌に広がる。握りしめると彼女の温もりが僅かに伝わった。
「……ありがとう、エリー」
***
「……ん」
外に出ると、眩しい陽光に思わず眼を瞑った。実時間的には一晩過ごしただけだと言うのに、なんだか太陽が久しぶりの様に思えてくる。
「──やることが山のように増えたわね」
「大変そうだね」
──全部貴女のせいなんだけど……暢気に言ってくるルーシィに、私は溜息を吐いた。──だけど。傍らに親愛のおける人間がいるというこの感覚。村を出た直後。狭い馬車の中で、これから何をしようか、どんなものを見ていこうかと無駄に壮大な夢を語り合っていた、あの旅立ちの時のことを思い出した。
「町に戻ったら……まずは何をしようか?」
何とはなしに、彼女に問いかける。
「とりあえず……また、一緒にお茶がしたいな。エレナが大好きな林檎茶で」
「……悪くないわね、それも」
大いなる夢への再開の出だしがお茶会というのも、なんとものんびりとした話ではあるが。──無理に背伸びして無茶をして、大事なモノを失うよりは……私たちには、これくらいゆっくりな方がちょうど良いのかもしれない。
不意に森の中を微風が駆ける。彼女の傍を通ったその風には少しだけ、林檎の匂いが混じっている気がした。




