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【2】お爺ちゃんはもう遅い(匿名)

 かつてお爺ちゃんは速かった。何をするにも素早くて、私にとってのヒーローだった。


「お爺ちゃん、出かけるの?」


「ああ……ちょっと散歩にねえ」


 昼過ぎ、玄関でゆっくりと靴ひもを結びながら、お爺ちゃんは私にそう答えた。かつては機敏に身支度を整え、家族でお出かけをするときには一番に準備を済ませていた彼だけれど、そんな姿はもう見る影もない。


「恵美も一緒に来るかい?」


「うん、お爺ちゃんが心配だから」


 学校に行ってる間はお爺ちゃんの散歩に私がついていくことはできない。でも夏休みや、冬休みの間、それと休日はできるかぎりお爺ちゃんの散歩についていくことにしている。


 お爺ちゃんは別にボケているとかそういうことはないし、一人でも散歩に行って帰ってこられるのは知っている。でもお爺ちゃんはもう年だし、その歩みももう遅いから、彼の散歩に全く心配がないなんてことはない。


「それは……ありがとうねえ」


 お爺ちゃんは亀のようにゆっくりと首を私に向けてから嬉しそうに、にぃと笑う。その笑顔はいかにも人畜無害といった感じで見る相手をほっこりさせる。昔はもっと凛々しい感じの人だったから、今のお爺ちゃんとかつてのお爺ちゃんを比べると変な気持ちになったりもする。


 かつては家族の皆が気が付けば町内を一周して帰ってきていたお爺ちゃんだったけど、今はもうとても遅い。そう、お爺ちゃんはもう遅い。


「外は……寒いかねえ」


「正月だからね、絶対寒いよ」


「それは……厚着を準備して正解だったねえ」


 家の中は暖房が行き届いていて温かいけど、外は寒い。一月が早めに終わればいいのにと私は思う。外は寒いのでお爺ちゃんも私も結構な厚着だ。


 私はお爺ちゃんの横で靴を履く。その間にお爺ちゃんは近くに立てかけてあった杖を握り、しっかりとその手に杖が握られていることを確かめていた。


 私は立ち上がり、お爺ちゃんを待つ。お爺ちゃんはゆっくりと重い腰を上げるように立ち上がって、それから靴を何度か足でトントンとする。


 動きの一つ一つがゆっくりなお爺ちゃんを見ていると、かつての機敏だった彼の姿は昔を知る者にしか想像できないのだろうと思う。私が「お爺ちゃんはもう遅いの」と友達に言ったとき、友達から「昔からゆっくりな人だったんじゃないの?」と言われたことがある。


「さて……それじゃあいこうかねえ」


 ようやくお爺ちゃんは準備ができたようだった。私の準備ももうできている。


「外は滑るかもしれないから、気を付けてね」


 私が注意を促すとお爺ちゃんは亀が首を振るみたいにゆっくり頷く。少しだけその顔は緊張しているようで、お爺ちゃんが足元に気をつけようとしっかり思っているのが伝わってきた。


「気をつけようねえ……気をつけなくては」


「うん」


 私とお爺ちゃんより少し前に出て玄関の扉を開ける。扉を開けると家の中に冷たい風が差し込んでくる。とても寒い! 肌を刺すような風に思わず表情が硬くなる。


「寒いねえ」


 お爺ちゃんも私と似たような反応をしていた。家の中が暖房で温められている分、外の寒さは身に染みる。私たちは玄関から出て、私がしっかり扉を閉める。


「まあ、歩いていればそのうちなれるさ」


 私とお爺ちゃんは自宅の外に出て、道に積もった雪をしっかりと踏みしめる。雪はそこまで深くはないが、道を真っ白に染め上げている。お爺ちゃんも私もこけないように気を払う。


「さあ……行こうかねえ」


「うん」


 お爺ちゃんのゆっくりした歩みに私は歩調を合わせる。一歩一歩確実に前へ進んでいくけれど、この歩みで町内を一周するなら、夕方くらいにはなると思う。結構な時間がかかるが、お爺ちゃんが心配だし、好きだから、嫌な時間ではない。


「どこまで行くの?」


 今日もお爺ちゃんは町内をぐるっと一周してくるのだろうと思いながら、私はお爺ちゃんに質問する。私はいつも二人で散歩に行くときは「どこまで行くの?」と聞くようにしている。


 聞きながらこんなことを思うのも失礼なのかもしれないが、お爺ちゃんが私に言う答えは決まっている。


「今日は町内を一周してみようかねえ」


「わかった」


 私はお爺ちゃんの方を見てから軽く頷く。お爺ちゃんは前を見たまま軽く頷いて、ゆっくりゆっくり前に進んでいく。今は正月休みで家の外に出ている人も少ない。


 この町はそこそこの田舎だと思っている。遠くには山が見え、町内から出れば畑がある。そこまで人が少ないわけではないし、町内はいつもはそこそこ賑わって、入り組んでるところもあるけど……どうだろう……もしかしたら田舎かもしれない。


 そんなことを考えながら十分くらい歩いていたころだ。


「……恵美ちゃんは……この町は好きかい?」


 お爺ちゃんは唐突に、けれどもゆっくりした口調で私に話しかけてくる。こういうことはよくある。というか長い散歩でお互いに何もしゃべらないのは息が詰まってしまうので、話しかけてもらえると私としても助かる。


 私は少し考える。実はこの町が好きなのかどうか、今まで深く考えたことはなかった。うーん……どうだろう? 嫌いなところはないかなあ?


「好き……だと思う。嫌いなわけではないから」


「そうかい! そううかい!」


 私の答えに対して、お爺ちゃんはとても嬉しそうに反応した。お爺ちゃんもこの町が好きなんだろうなと私は思う。


「お爺ちゃんもこの町が好き?」


「ああ……好きだとも」


 お爺ちゃんは嬉しそうに話を続ける。


「ここはのんびりした空気が流れていて……僕にはとても合っている」


「そうかも?」


 私は相槌を打ちながら、お爺ちゃんの言葉に少し疑問を覚えた。今のお爺ちゃんはとてものんびりしていて、確かに街の空気にあっているかもしれない。でも、かつてのお爺ちゃんはとてもきびきびしていて、その姿はこの町に合っていたとは思いにくかった。


「お爺ちゃんはいつからこの町が好きなの?」


 疑問が想像になり、つい質問になってしまう。ひょっとしたらお爺ちゃんは最近になってから、今さっき言ったようなことを思うようになったのかもしれないと、私の頭にそういう想像が浮かんだ。


 お爺ちゃんは少し考えるように顎に手を当てるしぐさをする。そうしながらもゆっくりとした歩みは止まることはなく、私たちは着実に前へ進んでいる。


 少ししてからお爺ちゃんはその口を開き、またゆっくり喋り始める。


「僕はずっと昔から……子どものころから……この辺りは好きだなあ」


「子供のころから?」


「そうさ」


 さも当然のことのようにお爺ちゃんはそう答えた。嘘を言っているようには見えなくて、私は想像が外れてなんだか腑に落ちない気分になる。


「本当に?」


 言いながら、私はお爺ちゃんの言っていることを信用していないようなその口ぶりが家族とはいえ失礼なのではないかと思う。失言だったかな? 私はそういうところがある。


 お爺ちゃんが機嫌を損ねたらどうしよう。私の頭にはそんな思いがぐるぐる渦巻く。私はお爺ちゃんの顔をちらりと覗いた。


「本当だよ」


 私の想像はまた外れて、お爺ちゃんはとても柔らかい顔をしていた。多くの仏様の像が見せるアルカイックスマイルのような、どことなく亀を思わせるような、とても柔和でのんびりした笑みだった。そんな笑顔を見ると、とてもお爺ちゃんが怒ったりしていないことが感じ取れた。


「僕は昔から……根はのんびりな人間だった……昔は急ぐ必要もあったけど……今はその必要もないからねえ」


 お爺ちゃんの言っていることをそのまま受け取ると、実はお爺ちゃんが今でもやろうと思えば素早く動けるのだと、そう言っているようにも聞こえる。


 本当に今でも機敏に動こうと思えば動けるんだろうか? 私が疑問に思っている中、お爺ちゃんは言葉を続ける。


「僕は今でも……やろうとおもえば速く動けるんだ……でもそれは疲れちゃうからねえ……いざって時に力を残すようにしているんだ」


 そう言うお爺ちゃんはいかにも自然な顔で、見栄を張っていたりするようには見えない。でも私にはお爺ちゃんの言ったことがにわかには信じがたい。今の彼はとても速く動けるようには見えない。


 もしかしたらお爺ちゃんが自分は今でも早く動けるんだと信じているだけで、実際はお爺ちゃんが速く動こうと思っても、そんなことはできないのかもしれない。


 本当は今でもお爺ちゃんは速く動けるのか? それともやっぱり、今のお爺ちゃんはもう遅いのか、それは本人にしかわからない。かけっこ勝負なんかすればわかるかもしれないけど、今は足場が滑るし、寒いし、お爺ちゃんも歳だし、何より私がめんどくさい。


 疑問は気になるが、無理して確かめようと思うほどのものでもない。気にはなるけど……この話は一旦置いておこう。今はお爺ちゃんが滑って転んだりしないように、彼の散歩を見守るのだ。


「昔はもうちょっとものが少なくて……道も単純だったんだけどねえ」


 お爺ちゃんの言葉自体はなんだか今の町の姿を残念に思っているようにも聞こえたけれど、その声の出し方からは、お爺ちゃんが単純に昔を懐かしんでいるだけのようにも感じられる。


「最近は町内を歩くだけでも……疲れるようになってしまった」


「難儀だね」


 私が相槌を打つとお爺ちゃんは少し難しい顔をする。私、いまなんかまずいこと行っちゃった!?


 内心オロオロしていた私に対して、おじいちゃんはいつものように、ゆっくり気楽そうに話しかけてくる。


「難儀ではないかなあ……困難とか……面倒と思うほどのものではないよ」


 お爺ちゃんは私との会話を楽しむように言葉を続ける。


「ものが増えて……嬉しいことも増えたしねえ」


「嬉しいこと?」


 その時、ビュウウウ! と音を鳴らしながら冷たい風が、私たちの歩く道を通り抜けた。うう――寒い! 一月だから仕方ないけど――風が冷たい!


「……今のは寒かったねえ」


「うん」


「ものが増えて嬉しいことだけど……建物がいくらかは風を防いでくれるようになった……昔は風の強い日は……常にこんな風が、町に吹いていたからねえ」


「常に!?」


 今みたいな風が常に吹いてくるの!? 私は思わず身震いする。そんなのさすがに耐えられないかもしれない。


「恵美ちゃんはあんまり農家さんの済んでる辺りにはいかないからねえ……それは僕もだけど……この土地は昔から寒風が強いのさあ」


「へええー」


 私は素直に感心していた。というのも町の外まで行く時は大体、親の車に乗せてもらうし、農地の辺りで下りるなんてことはないから、意外と近くの土地の特徴というものを知らないものだ。


 かつてはお爺ちゃんも車を運転してくれたけど、今ではもうめっきり運転しなくなった。なにもかもゆっくりになったお爺ちゃんに車の運転は難しいのかもしれないけど、でも昔お爺ちゃんは車で私を色々なところに連れて行ってくれた……小さなころのことだったので詳しくはおぼえてなくてごめん!


 なんとなく昔のことが知りたくなって私はお爺ちゃんに昔のことを聞いてみることにした。私は面倒の発生しない範囲であれば結構好奇心の強いほうだと思う。


「昔はお爺ちゃん、車で私を色んなところに連れて行ってくれたよね?」


「そうだね」


 お爺ちゃんははっきりと、確かに覚えていると自信のある口調で答えてくれた。今もお爺ちゃんの頭ははっきりしていて、遅くなったのは体の動きだけで、頭の回転はまだ遅くなってはいないんじゃないかと思わされる。


 お爺ちゃんはまた顎に手を当てて、考えるしぐさを見せる。お爺ちゃんの頭は、古い過去まで記憶をさかのぼって色々なことを思い出しているのだろう。


 ほどなくしてお爺ちゃんはまた口を開く。そして彼は私が子どもだったころの事から語り始める。


「昔は確かに……僕の車で恵美ちゃんを色んなところに連れて行った……山にも行ったし……海にも行ったなあ」


「そう言われると、お爺ちゃんは昔から自然が好きだったかもしれない」


「そうだとも……僕は昔から……のんびりしたところが好きさあ」


 確かにそうなのだ。今、思い返してみると僅かに覚えているお爺ちゃんとのドライブの記憶で、都心だとか、遊園地だとか、人がたくさんいるような場所に連れて行ってもらったことはないかもしれない。


 かつてはせかせかしていたと思われるお爺ちゃんも、本当は昔からのんびりすぃた性格だったのかもしれない……となると、私がかつてお爺ちゃん抱いていたイメージは、実際のお爺ちゃんの性格とは乖離していたのかもしれない。


 そんなことを私が考えていると、お爺ちゃんは少し申し訳なさそうな顔を私に向けた。それまでゆっくりでも止まらなかった彼の足が止まっていたので、私もその横で立ち止まる。


「本当は今でも恵美ちゃんとドライブに行ければと思うこともあるんだけどねえ……この歳になると自分の判断力に自信がなくなってくる」


 お爺ちゃんは体の動きが遅くなって、頭のきれは今も健在だと思っていた私だから、彼が今でも本当は素早く動けるけど、判断力に自信がないというのは、私の考えに比べてなんともあべこべなものだと思った。


「昔は本当に頭の回転には自信があって……それにつられて体も早く動いていたし……そして何より体力があった……でも最近は色々きつくなってしまったねえ」


 悲しむというよりは、申し訳なく思っているという表現がぴったりな、そんな顔をお爺ちゃんはしていた。これは話の流れを少しは変えるべきだろうかと私は考える。


「私は今お爺ちゃんとゆっくり散歩をするのも凄く楽しいよ。できれば昔の町の様子とか聞きながら町内を回ってみたいかも!」


 私はあまり咄嗟に気の利いたことが言えるような人間ではない。だからこんな言葉で大丈夫だろうかと思ったけれど、お爺ちゃんの顔はさっきまでよりいくらか柔らかくなったように見えた。


「そうだねえ……今は散歩をしていたんだしねえ」


 お爺ちゃんはにこりと笑ってからまた前を向き、杖を突きながらゆっくりと歩き出す。ゆっくりと、それでも元気よく。


 どうやら間違ったことは言わなかったようだと、私は内心ほっとしていた。お爺ちゃんが悲しそうな顔をすると私も悲しいし、お爺ちゃんが嬉しそうな顔をしたら私も嬉しい。


「この町のこと色々教えてよ。たまにはそういう散歩も良いでしょう?」


「そうだねえ……そういう散歩もたまには良いねえ」


 それから私はお爺ちゃんと町内をゆっくりと散歩しながら、お爺ちゃんの昔話を色々と聞いた。この町の歴史を、この町で生きた本人から教えてもらうことで、私は色々と新たな発見に感心した。


 というか、私は色々とこの町のことについて知らなさすぎたような気もする。いや、今も凄く詳しくなったというわけではないのだけれど、人間って意外と住んでいる地域のことに興味を払わないものだなあ。


 それとも私がちょっと郷土に対する興味がなさすぎるんだろうかとも思う。そう思うと、少し自戒の念も出てくるな。なんか頭がつかれてきた。


 しばらく歩くと町の中でも特に賑わっている辺りまで来た。家の前とは違って、結構車が往来している。そこそこ人の姿も目に入る。正月だけれど、皆が皆、家に閉じこもってるわけではないよね。私たちだって散歩しているし。


 だいぶ歩いて、頭だけでなくて脚も疲れてきたかもしれない。ふらふらというほどじゃなくて、なんか疲れてきたかな? ってくらいの疲れだけれど。


 うーん、ちょっと休憩したいかも。でもお爺ちゃんがまだ歩きたい気分だとしたら私の方から休みたいって提案するのは言いずらいかもしれない。どうしようかなあ……うーん。


「――あ」


 そんな時、私たちは丁度町の公園に差し掛かった。そんなに大きくなくて、むしろ結構小さいと言えるくらいの公園で、空き地にベンチが置いてあるって感じの空間だ。


「……今日はちょっと休んでいこうかねえ」


 私が休みたがっているのを察してか、それとも今日は色々昔話をして疲れたのか、お爺ちゃんの方から公園で休まないかと提案してきた。正直、ありがたい。


「うん、そうだね――あ! なら何か飲み物買ってくるよ」


 私は公園の前の横断歩道を渡った先にある自動販売機を指さす。せっかくだから何か温かいものが飲みたい。


「……ああ、じゃあお金がいるねえ」


 お爺ちゃんは上着のポケットに手を入れてごそごそと探り始める。待って! 飲み物代くらい私持ってるよ!


「いいよいいよ! お金は私持ってるから!」


 これでもたまに親の自営業を手伝ったりもしてるから、少しくらいはお金持ってる。なにからなにまで家族にお金を出してもらうのはなんだか恥ずかしく感じてしまう。


 でもお爺ちゃんは私が止めてもポケットをごそごそして、そこから財布を取り出した。


「……僕にとって孫はいつでも可愛いものだからねえ……お金を受け取ってほしいんだ」


「うっ……」


 少し強い口調でそう言いながらお爺ちゃんは財布から五百円玉を取り出して、それを私の前にぐいっと出してくる。


「僕は……コーヒーを頼むよ」


 お爺ちゃんはどうしても私にお金を渡したいみたいだ。こういう時のお爺ちゃんって結構押しが強いし、私は押しに弱い。結局お爺ちゃんのお金を私は受け取ってしまう。うーん、コトワリキレナカッタ……私って駄目だなあ。


「じゃあ――丁度、信号が青になったし、行ってくるね」


「頼んだよ」


 お爺ちゃんの言葉を背に受けながら、私は横断歩道を渡っていく。ここの車道は車の往来が多いためか、タイヤでよく踏み固められて圧縮されているように思える。歩道より滑る感じがして、私でも気をつけないと危ないし、きっとお爺ちゃんにとってはもっと危ない。


 一歩一歩気を付けて、イチ、ニ、イチ、ニ。


 ほどなくして私は横断歩道を渡りきる。よし、自動販売機で何を買おう?


「お爺ちゃんはコーヒーだったな」


 私はお爺ちゃんがさっき言った言葉を思い返しながら、自動販売機に五百円玉を入れ、コーヒーを一つ選んでボタンを押す。それからもう一度同じボタンを押した。


 自動販売機のボタンを押すたびにガコン! と音が鳴り、自動販売機の下の口から缶コーヒーが吐き出される。それが二回あって、私は二つの缶コーヒーを取り出して上着のポケットに入れる。


 最後におつりを自動販売機から出す。後でおつりはお爺ちゃんに返すけれど、今は缶コーヒーと同じように上着のポケットに入れておく。


「さて」


 後は戻るだけだ。私が振り返ると信号は赤くなっていた。お爺ちゃんは横断歩道の向こうで、杖を地面について私が戻ってくるのを待っている。信号が青になったらまた早く戻らないと……もちろん横断歩道で滑ったりしないように気をつけないといけない。


 そう思いながら、横断歩道の前を車が走っていくのを見送る。私の家の前はそんなに車は走ってないけれど、こっちは本当に車が多いんだなあ――っと、そんなことを考えていたら横断歩道の信号が赤から青に変わった。


 よし、渡ろう。私は車道で滑らないよう、足元に気を付けながら一歩一歩前に進む。気をつけなければ滑る道だろうけれど、気をつければどうということはない――その時だった。


 私の耳にタイヤの滑るような音と、クラクションのような大きな音が聞こえてくる。いや――これは、ようなではない!


 逃げなくてはまずい! 私の頭に警鐘が鳴り響く。だのに――私は頭では速く走りださないといけないのだとわかっているのに――私は、馬鹿みたいに首だけを音のなるほうに向けようとしている。


 私の首が、音の鳴る方を向くと――そこには私が聞こえた音から想像した通りの光景があり、想像したとおりの危険が、私の身に迫っていた。凍った路面に滑った車が、車体を斜めに向けながら、止まらず私に突っ込んでくる。


「うああああああああぁぁぁぁ!」


 逃げないといけないとわかっているのに、脚を動かさないといけないとわかっているのに、私は馬鹿みたいに突っ立って叫んでいる! 馬鹿が! 逃げろ! 速く逃げろ!


 私の体は鉛のように重く感じられて、思考だけが加速していく。ゆっくりと動いて見える時の中で、けれどもスリップした車が私目掛けて迫ってくる。


 私の首は車の方を向いて固まって、私の目は車に釘付けになっては慣れない。殺人的な力を持ったそれが、私にどんどん迫ってくる。人間は死が迫ったときに時が遅く感じられることがあると聞いたことがある。まさかこんなに突然、自分の身に起こるとは、私は思ってもみなかった。


「――おおおおおおおぉぉぉ!」


 ああ、私は今も馬鹿みたいに叫んでいるのか? 本当に馬鹿みたいだ、足元に気を払いすぎて、横から迫る危険に気付かなかったなんて。


「――おおおおおおぉぉ!」


 今も叫んでいる。しゃがれた声で――しゃがれた? いや、これは私の声ではない。私は今、叫んでいない。ならこの声は? いや、私はこの声を知っている。


「――恵美いいぃ!」


 これは――お爺ちゃんの声だ! それがわかった時、私の体はドンッ! と突き飛ばされた。


 車にはねられた!? そうじゃない! 私は誰かの手で歩道に突き飛ばされた! 誰かの手じゃない――お爺ちゃんの手で私は突き飛ばされたんだ!


 その時、私の首は拘束が解けたかのようにぐるりと動き、車道で起きたその光景を見た。


 私を突き飛ばしたお爺ちゃんが、野球部員がヘッドスライディングするような動きで、私の方向に飛び込んでくる。そこへ車が迫り――車はお爺ちゃんの僅か後ろを通り過ぎる。直後、お爺ちゃんの体は歩道に滑り込み、滑っていた車は横断歩道を通過したところでようやく停止した。


 私は雪の上に尻もちをつき、お爺ちゃんは私の前で、雪の上に腹ばいになっていた。両手をピンと前に伸ばして、顔は私に向いていた。


「……大丈夫かい?」


 お爺ちゃんは少し心配しているような、安堵しているような、そんな顔を私に向けていた。


「……だ、大丈夫」


 突然のことが起こった後で、私の心臓はバクバクと鼓動していて、そのせいか、返事は少したどたどしくなってしまった。


「……それは良かった」


 お爺ちゃんは私の返事を聞いて、いつものようなのんびりした顔で微笑んだ。その笑顔を見て、ようやく私も安心できたのか、心は次第に落ち着いてきて、その代わりに両目から大粒の涙がぼろぼろと流れる。


「ありがとう……怖かった……すごく怖かったあ!」


「もう大丈夫だよ……大丈夫だよ」


 わんわんと泣く私にお爺ちゃんは微笑み続けてくれた。その顔はのんびりとしたものだったけれど、どことなく亀を思わせるような、のほほんとした顔だったけれど、今の私にはわかったことがある。


 お爺ちゃんはもう遅いのだと私は思っていた。でも、それは違ったのだ。彼は今でも素早くて、私にとってのヒーローなのだ。

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