【1】青い花(馬込巣立)
私が住んでいる街は青い花の絵に侵食されている。
最初にそれを見た時は誰もがただの落書きだと信じていたはずだ。駅前の階段脇にある壁は監視カメラの映像に映されない場所にあったから、犯人探しよりも清掃業者による洗浄が優先された。
しかし洗い落とそうと何度擦っても水をかけても消えやしない。どころかそれが現在進行系で蔓を伸ばしていると見物していた子供から指摘を受ける形で判明し、一度は大騒ぎになった。
しばらくすると警察やら何を商売としているんだかよくわからない企業やらが出張ってその区域を封鎖して、街の住民達は一旦その花の絵から目を逸らす期間を得た。
別に何も解決していないと誰もがうっすら察していたし、事実その通りだったわけだが。
聞けばあの後現場を封鎖した連中は国お抱えの秘密組織か何かで、ああいった奇天烈な存在を扱う専門機関のようなものだという。
彼らは元の位置にあった絵を地面ごとくり抜く形で強引に撤去したらしい。
まさかそれで花が怒ったというわけでもなかろうがその二日後、公園の地面に大きな青い花が描かれているのをランニング中の男が発見した。
しかも花の絵の大きさは明らかに以前より凄まじいもので、ぱっと見れば公園の敷地全てが真っ青に見えるほどだった。
変わらずそこから蔓が伸び、蔓は伸びる中で蕾を点々と形成していく。
それらは数日で花となって更に蔓を増やし、また蕾をつける。
地面ごと抉っても効果がないと見て国も躍起になったらしく、強力な酸を撒いたり削岩機で表層から少しずつ削り落としたり手を変え品を変えやっていたようだった。
やがて花がそれ以上広がらないところまで広がったあたりで、国の方が音を上げた。
何をどうしたところでもう遅いと気づいたのである。
役人の説明曰くあの青い花々は水道管の内側にまで蔓を伸ばしていたという。なるほどそれでは街ごと掘り返すしかなく、しかしそんな真似は非現実的だ。
倫理的にも予算的にもお手上げと見なした彼らは自分達が引いた線より先に蔓が伸びてこないと認めてからこの街を放棄している。
さて、ではこの花が我々に何をもたらすというのか。
結論から言えば現状特に何もない。
強いて言うなら鬱陶しいくらい鮮やかな姿のおかげで、無機質なコンクリートの建物が少し綺麗に見える程度だろう。
しかも夜光塗料よろしく暗闇の中でもその美しい青さを主張してくれる。地中にある絵まで発光しているせいか、丑三つ時にでもなれば蔓しかない地面さえ薄く光って見えるほどだ。
つまるところ見た目以上の影響は現状ない。
成長が止まってしまえば今度は学術的な好奇心からその正体を見抜こうとする輩が現れる。
新種の生物なのか特定地域にのみ現れる異常な化学反応なのか、とにかくどういうものなのか理解したいという物好きが集まってきている。
私から言わせてもらえるなら、こんな香りもしない風にも揺れないバカみたいな大きさの花の絵なんぞに興味を持つ彼らの方こそ酔狂過ぎる変人達に思えた。
こんなものはただの花の絵だ。
ただ勝手に増えて途中で止まった、それだけの存在だ。
そんなどうでもいい存在目当てに酔狂な連中が来ていると認識しながらも私の日常は特に変わらない。
とはいえ友人とSNS越しにこの街の話をしたところ随分心配されてしまった。どうやら外の連中にとっては充分な異常事態であるらしい。
しかし何が問題だというのだろう。花の絵に誰か殺されたわけでもないだろうに。
ただ範囲を広げていっただけの謎の絵に、そこまで興味を持つとは暇な連中だ。
そんな風に言ったら友人は半笑いでこう返してきた。
「お前、そんなジジイみたいに枯れてたっけ?」
失礼な男だ。こちとらまだ大学卒業から一年も経っていない。
社会人になってから少々好奇心を発揮する場面を失っただけに過ぎず、心も体も充分若いだろうに。
こちらが不服そうにしているのを悟ってか彼は面倒臭そうに別れの挨拶を述べて通話を切った。
まあいい。そう怒るほどの話でもないのだから。
ふと窓の外を見ると白衣を着た連中があくびを漏らしながら車に乗って街の外へと走っていくのが見えた。いよいよ連中もこの花の絵に対する興味を失ったのだろう。
それもそうだ。私だって気にならなかったわけではないが、しばらくこの風景の中で過ごしてきたせいかすっかり慣れてしまった。
窓から視線を外して時計を見る。そろそろ眠る時間も近い。
そこで私は一つの発見をした。
時計周りの壁紙を侵食している蔓が、いつの間にか時計の中にまで潜り込み文字盤にまで伸びていたのだ。
何かきっかけでもあったかと思うもののそれを見た時点であまり関心が持続しない。
もう夕飯も済ませたし、とっとと風呂に入って寝よう。それがいい。
部屋の電気を消して枕に頭を預け、意識を手放す少し前。
極めてわずかに生じた疑問が頭の中をすり抜ける。
――果たしてあの青い花は何を養分としているのだろう。
朝、目覚めた頃には全てがどうでもよくなっていた。