第一章 神隠し
1
賢帝として知られる、現皇帝ハシュマーニ・エル・フェルマーティウスが二一歳の若さで即位してから、すでに八年が経過していた。他国との戦争に敗れることなく、国内においての紛争が勃発することもなく、悠々とした時間の中で平和な時を甘受していた人々は、今日、久しく感じていなかったほどの恐怖を夜の闇の中に見出していた。
今年に入ってから、頻繁に神隠し――原因不明の行方不明事件――が、決まって月が紅く染まる晩に起こるようになったのだ。
古来より、月は『時を渡る魔獣 』の邪悪を司る左目であるとされており、月が紅く染まる晩には、何か良からぬ事が起こると言い伝えられている。
人々はこの言い伝えを信じ、また、神隠しそのものを恐れて、夜に外出することを避けるようになっていった。
一月に二人、多いときには十人の行方不明者が出ている。そして、決まって三夜が過ぎた翌朝に、物言わぬ骸となって発見されていた。
むろん、皇国政府議会も特別捜査団を組織し、神隠しの脅威から人々を救おうと努力はしているのだが、なぜ神隠しが起こるのかも、なぜ必ず三日経つと死体で発見されるのかも、犯人が誰なのかも、一向に判明していない。
豊穣神の教団で最高司祭の位を得ているサーフレインが豊穣神に神託を願ったりもしているのだが、直接的に解決の糸口となるような託宣は得られなかった。
さて、この国の魔導騎士団第五分隊長に任命されているフェリエ・ヴル・ディバイソンには一三歳になる妹がいたが、先月の初め頃に彼女もまた、その神隠しの被害者となってしまった。夕暮れ時に家の中庭で遊んでいたのをフェリエ自身が目撃したのを最後に、彼女はその後の消息を絶ったのである。フェリエはすぐに彼女を捜し始めたが、必死の捜索にも関わらず、妹を見つけだすことはできなかった。
そして、やはり捜索を始めてから三日後のことだ。彼女は物言わぬ屍となって、ディバイソン邸の門前で発見されたのである。
遺体に外傷はなく、まるでただ眠っているだけのようなその死に顔に、苦痛の色はなかった。近隣の人々はフェリエとその妹のために嘆 き、フェリエ自身はその日一両日、自室にこもって、表に出てくることはなかった。
妹の葬儀を終えると、フェリエはこの神隠しについて、独自に調べ始めた。とはいえ事件解明の勅命を受けているわけでも、捜査団の一員でもない彼が、好き勝手に被害者の家族に訊きに行くわけにもいかず、できることといえば捜査団の記録を閲覧することぐらいに限られていたが、それでわかったことも幾つかある。
この頃までに出た行方不明者の数は四〇数名。
すべて、行方をくらましてから三日後に、死体となって発見されている。
神隠しの被害にあったのは一五歳以下の少女だけであること、彼女たちが豊穣神の降臨祭 の日に前後して生まれたということ以外、共通点はあまり見つけられなかった。
しかし、その僅かな共通項に注目したフェリエは、降臨祭に関係ある書物を国立図書館で調べ始めた。
そして、今となってはその名だけが知られている降魔の夜に関して書かれた古文書を発見したのである。彼は寝食を忘れ、古文書を貪るように読み進めていった。
さて、それから数週間後、ついに皇帝ハシュマーニの五歳になる娘が神隠しの被害にあってしまった。王女の捜索を命じられたフェリエが体験した忌まわしい事件は、恵みの神が与えた試練だったのか、腐敗の神が与えた呪いだったのか。
2
月も高く天に昇り、人々の殆どが、既に夢を見始めた頃のこと、フェリエのもとに一人の使者が訪れた。皇帝直々に、至急登城せよとの要請があったとのこと。
皇帝とディバイソン家は昔から付き合いがあるが、こんな時刻に呼び出されたことはない。急な呼び出しの理由が思いつかないフェリエは、訝 しがりながらも支度を調え、急いで城へ向かった。
入り口の大扉の前で迎えの者が待っており、皇帝の私室へ入るように告げられる。
「いったいどうしたというのだろうか……」
一人で皇帝の私室へ向かっている間、幾度も彼は呟いていた。謁見の間に通されず、皇帝の私室へ通されるとはいったい何事であろうか、と。
いくら考えても解が得られず、いつの間にか目的の部屋の前まで来ていた。
扉の前で立ち止まり、彼は姿勢を正す。
そして二回ほど戸を叩いた。
「入れ」
室内から発せられたその声は、間違いなくハシュマーニ自身のものである。
「失礼します」
そう言ってから扉を開き、フェリエは室内へ入っていった。
扉の向こうは魔導の灯明で照らされ、珍妙な獣の毛皮を敷いたソファーの上に座っている皇帝の金髪も艶やかな光沢を放っている。しかし、ハシュマーニの表情は、その場のすべての輝きを消失させてしまうほどに翳 っていた。
「魔導騎士団第五分隊長フェリエ・ヴル・ディバイソン、お召しにより参上いたしました」
フェリエは跪き、告げる。
ハシュマーニは、虚ろな眼差しで彼を見据えると、その表情から察するにあまりある、弱々しい声で話しかけた。
「よく来てくれた。急な呼び出しで済まないな。今宵、私は皇帝としてではなく、一人の父親として、お前の友として相談があって呼んだのだ。だからそのように畏 まらなくていい」
それから、ふと気付いたように、
「そこの椅子に座るといいだろう」
と椅子を勧める。
「はい」
フェリエはその勧められた椅子に腰をかけた。
このような皇帝を、フェリエは見たことがない。
何があったというのだろうか。
ハシュマーニは傍らのテーブルに置かれていたワインの瓶を手に取ると、二つのグラスを用意し、中程までワインが注がれたグラスを一つ、フェリエに差し出した。
遠慮がちにフェリエがそのグラスを受け取ると、彼自身も手に持ったグラスにワインを注ぎ、優雅な動作で一口、ワインを口に含む。
フェリエも、一口だけグラスに口をつけた。皇帝が飲むものだけあって、このワインは香りも味も申し分ない。しかし、ワインを飲むことが今夜の目的ではないだろう。
フェリエは、自分が呼ばれた訳を訊こうとした。
しかし、ハシュマーニの持つワイングラスには、何か暗い色を宿した彼の瞳が映り、その瞳にはグラスの中に揺れるワインに浮かんだ彼自身の顔が映っている。
それを見ると、自分からは声が掛けられない。
フェリエのその様子を見て、ハシュマーニは重い口を開いた。
「フェリエよ、卿の妹は確か数週間前に神隠しにあったのだったな?」
やや遠慮がちにも聞こえる皇帝の言葉に、フェリエは沈痛な面持ちで頷く。
フェリエは、未だ癒えぬ真新しい心の傷に触れられ、軽い痛みを覚えた。しかし、
「妹を失って間もない卿に酷なことを訊いてしまって申し訳ない。だが、実はな、今日の夕方頃から、私の娘の行方が知れなくなったのだ。現場に居合わせた侍女の話によると、一瞬目を離したほんのわずかな間に、その姿が消えてしまったらしい。おそらくは、件の神隠しだろう」
むしろ『淡々とした』という表現がふさわしいハシュマーニの言葉に、
「そんなっ……」
フェリエは、驚きと興奮のあまり立ち上がってしまった。驚きが消えぬまま、再び座り直す。
「フェリエよ、私の娘の行方を探して欲しい。むろん、既に捜査団を組織してはいるが、私は、お前に頼みたいのだ。妹たちも、それが良いといっている」
フェリエは頷いた。
「皇后陛下はこのことをご存じなのでしょうか」
恐る恐る訊ねると、ハシュマーニは小さく頷いた。
「ルザーニエラは、報告を受けた途端に失神してしまったのでな、今は自室のベッドで眠っているよ」
自嘲ともとれる苦笑を浮かべたハシュマーニは、フェリエを真正面から見据えた。
「フェリエよ、この神隠しには、邪なる者の企みが隠されているようなのだ。
つい先日、豊穣神の最高司祭殿が神託を願ったときに聞いたのだが、その神託には闇に潜む者が関わっているとも出ていたそうだ。
お前には、この神託の言葉の意味の解明も依頼したい。メギリエラ・ヴル・ディバイソンは優秀な魔導騎士であった。その嫡子である卿なら、きっと可能であると信じている。
頼む、私の娘を、そして、闇に潜む恐怖に怯えるこの街の民を救ってくれ」
「承知いたしました、陛下」
フェリエはゆっくりと椅子から立ち上がり、グラスを傍らのテーブルに置くと、ハシュマーニの前に跪いた。
ハシュマーニはゆっくりと頷く。そして、傍らに置いてあった鈴を鳴らした。鈴の音は夜の静けさを裂いて響いていく。しばらくすると、扉が数度叩かれ、二人の女性が入ってきた。
一人は優しげな雰囲気の女性で、清潔そうな白い司祭衣に身を包んでいる。胸に紐で下げられたリングにはめられた紋章から、豊穣神の信徒であることが知れた。
もう一人は、右目が緑で左目が紫という、不思議な瞳を持った女性だった。野の獣のような躍動的な身のこなしが印象的である。
「紹介しよう。豊穣神の司祭カトーニャ・ダルティッシモと、皇室直属の密偵であるペルテシア・ソル・オルグトロイだ。この者たちと共に、一刻も早く娘を捜し出して欲しい。残された時間は、あと三日もないのだ」
「かならずや、ウリュシュワーニ殿下をみつけだしてごらんにいれましょう」
フェリエはそう言うとカトーニャたちに視線を送り、ハシュマーニに一礼したあと、部屋から退出した。
カトーニャたちも皇帝に一礼すると、フェリエのあとを追う。
「頼んだぞ……」
彼らの背中に視線を送りながら、ハシュマーニはそう呟いた。
彼は立場上、自ら動くことができない。
自らが出向いて娘を捜し出すことができないもどかしさに、ハシュマーニは己の立場を恨めしく思うのだった。
3
廊下を抜けて大広間のテラスに着くと、フェリエは背後を振り向いた。彼の後ろには、カトーニャたちがいる。
フェリエはあらためて彼女たちの姿を見た。
物静かで大人しそうなカトーニャと、野性的で活発そうなペルテシア。どこか対照的な彼女たちは、まっすぐに彼の瞳を見つめていた。
「初めまして、魔導騎士団第五分隊長フェリエ・ディバイソンと申します」
フェリエはそう言うと、二人に頭を垂れた。彼の少々長めの金色の髪が、精霊の悪戯のように不規則に吹く風に揺れる。あと数日で満ちようとする月が放つ金色の輝きに照らされて、彼の髪は黄金の草原のように揺れていた。
「今夜より捜索を開始したいと思うのですが、お二人はついてきていただけますか?」
フェリエの言葉に、二人は頷く。
「しかし、捜索を開始するとおっしゃいますが、いったい何をすればよいのか。私が豊穣神に神託を願っても、いっこうにそれらしい解は得られません。ただ、哀れな使徒を救済せよ、という言葉が返ってくるのみなのです」
カトーニャはそう言うと数歩進んでテラスの縁に手を乗せ、未だ微かに明かりの残る町並みに目を向けた。
「このように静かな夜だというのに、人々は安らかに眠ってもいられないのですね」
悲しげに呟くと、カトーニャは自らが信奉する豊穣神に祈りを捧げる。これ以上、神隠しの被害者が出ないようにと。
その横顔には、哀しみが満ちていた。
「しかし、ウリュシュワーニ殿下の捜索を行うにしても、どのようにしたらいいのか」
ペルテシアは右手の親指の爪先を軽く噛みながら言う。その言葉に、カトーニャもフェリエも頷いた。
「とりあえず、今夜は夜明け頃まで見回りをすることにしましょう。もしかすると、誰か神隠しが起こった瞬間を目撃した人が居るかもしれません。殿下の居場所を知る方法がない以上、神隠しそのものを調べるしかない――神隠しの真相に近づくことができれば、あるいは殿下の居場所が判るかも知れませんからね」
「そうだな、このままここで話し合っていてもしかたがない。早速、街に出ようか」
フェリエの言葉にペルテシアは頷いた。
フェリエは登城の際に最低限の武装はしていたし、カトーニャたちも準備は整っている。
司祭であるカトーニャは武器を携帯する必要性はなく、密偵であるペルテシアは、普段から習慣として、常に腰に短剣を帯び、防具としても十分に通用する革製の上着を着込んでいるのだ。
準備が整っているのを再確認し、彼らは夜の街へと歩を進めたのだった。
裏路地は静寂に満ちていたが、酒場の密集した場所は、夜半をかなり過ぎているにもかかわらず騒がしい雰囲気に満ちていた。
だが、少し様子が奇怪しい。酒を呑んで騒いでいるのとは違う話し声が、道を歩くフェリエたちの所へ風に乗って運ばれてくる。
「おい、見つかったか?」
「いいや、まだだ」
「早く見つけないと」
「ああ」
「しかし、あれはいったい何だったんだ?」
そんなことを話し合っている男たちがいたので、フェリエは彼らの所へ歩み寄っていった。カトーニャらもそれに続く。足音に気がついた一人の男が、雷鳴に撃たれたかのように一瞬身をすくませ、勢いよく振り返った。
「よかった、人間か……」
「どういうことでしょうか」
ほっと胸を撫で下ろした男に、カトーニャが訊ねた。豊穣神の神官衣を目にして安心したのか、他の男たちも近付いてくる。
「どうかしたんですか?」
フェリエは目の前にいた男に訊ねた。
「私たちはこのところ続発している神隠しについて調査している者です。もしかしたら、何かそれに関係があることなのではないでしょうか?」
「あんたたち、神隠しについて調べてるのか。そう言えば、特別捜査団とかいうのも組織されてたんだったな」
「はい」
フェリエが頷くと、男は仲間の方を振り返った。そして、互いに頷き合うと、もう一度フェリエたちの方へ振り返り、今まで話していたことを大雑把に話し始める。
「なんだと?」
ペルテシアの顔色が変わったのは、話が終わろうというころだった。
「その闇色の怪物ってのは何だ」
話していた男の胸ぐらを掴んで、絞り上げる。
「待てって」
男の仲間が慌てて止めに入り、もう一人の男が話を続けた。
「とにかく、そのカリーナって娘が、その闇色の怪物にさらわれたんだよ。それもほんの少し前にだ。もしかしたら、神隠しって言うのは、そいつの仕業じゃないのか?」
「……そうかもしれませんね」
カトーニャが何か思案している様子で頷いている。ペルテシアは辺りに視線を配り、付近を警戒し始めた。しばらくすると、路地の奥から彼女の耳に微かに悲鳴のようなものが聞こえてきたような気がした。
彼女はフェリエの名を呼ぶと、急いで走り始める。男たちに一礼すると、フェリエとカトーニャもそのあとを追って走った。
闇の満ちる裏路地を、ペルテシアは真昼のように走り抜けていく。
彼女の髪が反射する月の光を目印に、フェリエたちは走った。
走りながら、フェリエは彼の家の近所に住んでいた少女のことを思い出す。
彼女もまたカリーナという名で、今年で一二歳になる。快活な少女で、昔からフェリエのことを兄のように慕っていた。
フェリエの妹、ミューシャとも姉妹のように仲が良く、彼ら三人は本当の兄妹のように育ってい
た。二年ほど前に、彼女とその家族は住まいを変えたはずだ。
彼女の誕生日は、ミューシャのそれの翌日である。
〈まさか、あのカリーナが闇色の怪物とかいうものにさらわれたのだろうか〉
不安な気持ちが高まる中、フェリエはペルテシアの背中を追った。
しばらくして、ふと空を見上げたカトーニャが小さな、しかしはっきりとした驚愕の声をあげた。
「どうしました?」
ペルテシアを見失わないように前をしっかりと見つめながら、脇を走るカトーニャにフェリエは訊ねる。
「月の色が紅く染まっています。神隠しが起こるときには決まって月が紅く染まっていると言います。彼らが見た闇色の怪物とは、神託にあった闇の者のことかも知れません」
「そうですか。ならばよけいに急がなくては」
「ええ」
彼らは走る速度を上げる。
幾度目かの曲がり角を右に曲がる。先頭を走っていたペルテシアが不意に立ち止まった。
彼女は、目の前の建物の屋根を凝視してる。
「どうしました?」
小声でフェリエが訊ねると、ペルテシアは顎で空を指し示した。
その先には、屋根の上にうずくまる黒い塊が見え、その傍らに白い二本の棒のような物が転がっていた。
「闇色の怪物……でしょうか」
「恐らくな」
ペルテシアは慎重に頷いたが、それと同時に、突然屋根の上の影が動いた。銀色の滝のような髪を振り乱し、こちらの様子をうかがっている。
「来ますっ」
カトーニャがそう言って身構えた。フェリエとペルテシアも、影の動きを見逃すまいと、視線を逸らさずに身構える。
一瞬の間をおき、影は屋根から飛び降りてきた。その手に握られていた短剣の刃が、きらりと月の光を反射する。
フェリエは腰に帯びていた長剣を抜いた。
闇の中に二つの輝きが交差する。
同時に鋭い金属音が響いた。
影の持っていた短剣と、フェリエの剣が衝突したのだ。
フェリエは剣を持つ手に力を込め、間髪入れず大きく横に薙いだ。
影は大きく回転しながら着地する。いつの間にか、その手にある短剣が二本になっていた。
フェリエは剣を構えると、影に突進する。
二度三度と剣が打ち合わされた。
カトーニャは影の正体を見極めようと、じっと見つめている。
「万物の根元、輝けるものよ、光の理と契約のもとに、我が力を彼の地へ導くため」
フェリエが剣を交えながら呟く。
「光り輝く灯明よ、我が手の上に!」
いったん後ろに退いた彼が天へ剣を持たぬ左手を翳したとき、その先に輝く光の玉が現れた。
煌々と光を放つその光球は、瞬く間に辺りを照らし出し、満ちていた闇を打ち払う。
光の中に怪物の姿が浮かび上がった。
漆黒の皮膚を持った人の姿。何かを憎悪しているようなつりあがった目は、しかし虚ろな色をたたえ、銀色の腰までのびた頭髪からは鋭く尖った長い耳が見え隠れしている。
四肢が異常に長く、体には粗末な衣服を身につけていた。両手に握られた短剣の刃は、激しい撃ち合いの後であるにも関わらず、刃こぼれした様子はない。
「タトゥース……そんな、嘘だろ」
光に照らされたその闇色の怪物を見て、ペルテシアは硬直してしまった。
完全に無防備な今、斬り掛かられたなら、彼女は必ず死んでいただろう。
しかし、闇色の怪物は何を思ったのか、勢いよく跳躍し、屋根伝いに逃げ去ってしまった。
深追いは危険だと判断したフェリエは、腰の鞘に剣を収める。先ほど創り出した光球は、彼の肩の辺りに浮かんだまま、辺りを淡く照らしていた。
呆然としているペルテシアも気にはなったが、フェリエは先程見えた白い物が何なのか確かめようと屋根に登った。果たして、二本の棒と見えたその白い物体は一人の少女の両足だったが、少女は五体満足な状態で横たわっており、その淡く膨らんだ胸が微かに上下していた。
「カリーナ――」
フェリエの両目が、驚愕のあまり見開かれる。
彼の足下に横たわっているのは、見間違えるはずもない、あのカリーナであったのだ。
彼女の無事を確かめたフェリエは、慎重に彼女を屋根から降ろした。
少女を背負って屋根から降りてきた彼のそばに、ペルテシアたちが歩み寄る。
「この子があの男たちの捜していた娘か」
ペルテシアがカリーナの顔を心配そうに覗き込みながら問うと、フェリエは頷いた。
「大丈夫、怪我はしていません」
フェリエがそう言うと、彼女の表情は和らいだ。
少女に歩み寄るカトーニャにフェリエは場を譲り、数歩後ろに下がった。フェリエが移動してできた空間にカトーニャは移動し、
「気を失っているようですね」
と言うと、少女の額に手を当てて、豊穣神ヴァルマイスに、カリーナの意識の回復を願う祈りを捧げた。
「慈悲深き恵みの神よ、この者の精神に活力を」
最後の一節を唱え終えた時、カリーナの額に当てた手の平が一瞬だけ淡く光を放つ。それから間を置かず、彼女のまぶたが動いた。数回瞬きをすると、彼女は上半身だけ起きあがって周りを見回し、あの怪物が居ないことを確かめて胸を撫で下ろした。
「あなたたちが助けてくれたの?」
弱々しい声で訊ねる。そんなカリーナに、ペルテシアは頷いた。そして、彼女に手を貸して立ち上がらせる。
「あなたを捜していた人たちの所までお送りしましょう」
「ありがとうございます」
カトーニャの言葉に遠慮がちに礼を言った直後、ふと、それまで視界に入っていなかったフェリエに気づいた瞬間、彼女の顔が驚きと喜びで埋め尽くされ、
「フェリエ兄さま!」
カリーナはフェリエに抱きついた。
「フェリエ兄さまが助けてくれたの?」
歓喜を満面にたたえて訊ねる。フェリエは小さく頷いた。
「なんともないか、カリーナ」
「うん!」
フェリエの胸に顔をすり寄せて、カリーナが答える。
安堵する気持ちが、フェリエの心に満ちていた。
妹を助けることはできなかったが、彼女と同じように大切に思っていたカリーナを助けることはできたのだ。
自分に近しい者を失うあの身を裂かれるかのような悲しみは、もう二度と味わいたくはなかった。
だから、カリーナを救うことができたと実感できた時、フェリエの心もまた、歓喜で満たされていたのだった。
4
「知り合いだったのか?」
ペルテシアがフェリエに訊ねる。
「ええ」
カリーナの頭に軽く右手を置きながら、フェリエは頷いた。
「彼女は、幼い頃、私の家の近所に住んでいたんですよ」
と言って、カリーナの頭を撫でる。
「さあ、カリーナ。こちらのお二人にきちんと挨拶して、お礼を言いなさい。君を助けられたのは、彼女たちの力もあったからなのだから」
「はい、兄さま」
カリーナはそう返事をして、ペルテシアたちの方に向き直った。
「助けて下さってありがとうございます。わたしは、カリーナ・エリス・リターニアといいます。本当にありがとうございました」
カリーナは深々と頭を下げた。
「どういたしまして」
にっこりと微笑みながらカトーニャが言うと、カリーナも満面の笑みを浮かべた。
ペルテシアも、カリーナの頭を撫でている。
◆◆◆
ところで、皇国の民の名前は、個人名・家族名という構成になっているが、その間にもう一つの名前が入ることがある。それは挿名と呼ばれていて、各々の職業を指し示す言葉が使われることが多い。
例えば、フェリエの挿名である「ヴル」は魔導騎士 、ペルテシアの挿名「ソル」は密偵といった具合だ。カトーニャの挿名は司祭 である。
カリーナの「エリス」は『学ぶ者』を示す挿名で、学生であることを示していた。
◆◆◆
「さあ、君を捜していた人たちの所へ戻ろう」
「はい」
ペルテシアの言葉に、カリーナは頷いた。
それから、フェリエたちは彼女を囲むようにして歩き、先程の酒場へ戻った。
「おお、カリーナ、無事だったか」
彼女のことを人一倍心配していた男が、彼女に走り寄ると、その存在を確かめるように抱きしめた。
「ジャビーニおじさん、痛いよ」
笑いながらカリーナが言う。怪物から救われて、彼女もかなり喜んでいるようである。
「ありがとう、あんたたちにはいくら礼を言っても言い尽くせるもんじゃない」
ジャビーニと呼ばれた男が、皆を代表してフェリエに礼を言い、頭を下げる。
フェリエは困り顔で、男に顔を上げさせた。
「いえ、あの怪物には逃げられてしまいましたから。どうか警戒を怠らないでいて下さい。あの怪物が今度は誰を襲うか、まったくわかりません」
フェリエの言葉に、酒場に居る男たちは頷き、それぞれの家に帰るために散開していく。
「さあ、私たちは捜査を続けましょう」
フェリエが後ろを振り返ったとき、ペルテシアは何かを思案しているようだった。彼女の癖なのだろう、また右手の親指の爪を軽く噛んでいる。
「どうしました。先程、あの闇色の怪物をタトゥースなどと呼んでおられたようですが、それと何か関係があるのでしょうか」
「うむ、まあな」
フェリエの問いに、ペルテシアは曖昧に答える。
だが、何かが吹っ切れたような表情になると、やや聞き取りづらい小さな声で話し始めた。
「さっきの魔物、あれは私の密偵仲間だったタトゥースによく似ていたのだ。彼はもう二年も前に死んでいるはずなのだが、な」
ペルテシアが再び考え込んでしまったので、フェリエはカトーニャの方を向いた。
彼女も、ペルテシアの言葉に興味を覚えたようで、何かや考えているようであった。
豊穣神の教義では、すでに死んでいる者は本来この世に戻ってくることはない。死後、必ず新しい命となって現世に転生しているからだ。
死者が彷徨い、現世に戻ってくるとしたら、それは降魔の夜以外にはありえないのだが、その降魔の夜はもう数百年の間訪れたことはなく、その実体をフェリエたちは知らなかった。
最後の降魔の夜に前後して記録の多くが失われてしまっているが、その名と、恐怖の記憶は昔話として語り継がれている。
しかし、伝聞と実際とでは、内容が食い違っている場合もあるし、語り継がれていく課程の中で過剰に装飾されている部分もあるので、正確なものは伝わっていない。それに、皇室の公文書保管庫に、当時の記録が僅かながら残っているのだが、長い年月を経て風化したり、虫に食われたりしていて、これを以てしても正確な情報は得られない。
「あの……」
カトーニャは遠慮がちに声を出した。
「なんでしょうか」
フェリエが訊ねる。
カトーニャはペルテシアにしばしば視線を向けながら言った。
「ペルテシアさんも何か考えることがあるようですし、今夜はここまでにしませんか。明日の昼に、他の神隠しにあった方のご家族に話をお伺いに行くというのはいかがなものでしょう」
「それも良いかもしれませんね。正直言って私もいささか眠くなってきているんです。こんな状態では満足な結果は得られないでしょうからね。
それでは、明日の昼から調査を再開することにしましょう。出発の時刻を定めて集合するよりも、ひとかたまりで行動したほうが良いでしょうから、これから私の家へお出で下さい。客間をお貸ししますから」
フェリエはそう言うと、彼女たちの先に立って道を歩き始めた。