序章 冥界の夜
星々の輝きは重苦しい雲に隠され、闇が街を覆い尽くしていた。道を歩く者は一人もおらず、不気味な静寂が辺りを支配いている。街道には腐乱した屍が数多く彷徨い、空には死霊が蠢いている。
例外的に道端で酔い潰れていた男が、不注意で窓を開け放していた一家が、空と地にあふれた亡者に取り囲まれ、生きるための活力とも言える生命力を奪われて息絶えていった。
そして、魂を失った身体は現世における肉体を持たぬ死霊の器となって、亡者の列に加わり、新たなる犠牲者を求めて徘徊し始めるのだ。
これは、カーディグラという名を冠されているこの都市に毎年訪れていた、降魔の夜と呼ばれた晩の光景である。それまで、天の片隅、地の底、大海の奥深くに眠っていた亡者が、魔の導きによって降り来る夜……それは、この都市に住む人々にとって、身近な、そしてこの上なき恐怖の対象だった。
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この都市は、いくつかの国家が点在するダグライマー大陸のほぼ中央に存在する。神の時代から存在していた豊穣神の大神殿を中心に渦巻き状に発展してきたため、神聖都市の名を冠されてもいる。フェルマーティウス皇国の首都でもある神聖都市カーディグラは、豊穣神ヴァルマイスの聖地としても、周囲の諸国の民に知られていた。富の繁栄と大地の実りを司る恵みの神ヴァルマイスが、元来この地域一帯の土地神だったからである。大神殿が建造された降神期よりも以前から、農耕民族であったこの土地の民から深く信仰されており、豊穣神の降臨祭においては、皇国の全ての民がその日を祝福する。
しかし、豊穣神にはもう一つ別の顔――つまり神格 があった。それが、腐敗神ティリオドールである。穀物が実り、そして大地に満ちれば、いつかは腐敗し大地に還る。大地母神ザガリレオスの娘とされる豊穣神ゆえの、もう一つの顔であった。
そして、腐敗神は亡者の神でもある。亡者は本来、大地に還るべき存在なのだから。豊穣と腐敗は表裏一体であり、互いに不可分の存在であると、ヴァルマイスとティリオドールの二神を奉ずる神官は言う。
だが、腐敗神は同時に邪神でもあり、強い感情を残して死した者の魂をこの世に縛りつけてもいると言い伝えられている。そして、この世に留め置かれた死者が彷徨い出すのが、年に一度、一五に分割された暦の九月一六日に訪れていた魔の夜、降魔の夜なのだ。
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――皇国暦一三七年一月一四日。
『魔術の父』の名で呼ばれる賢者フォルレウスが、この都市へふらりと現れた。“私の指示どおりに事を行え。さすれば、忌まわしき夜は去ろう”と、フォルレウスは仰った。そして、彼の指示により街道と用水路の一部に手が加えられたのである。
こうして、一つの結界がこの街を覆うことになった。
この結界の効果は、次に訪れた降魔の夜に明らかになった。亡者が街に彷徨い出てこなかったのである。この結界内においては、彷徨える死者ですら安らかな眠りを得ることができたのだった。
この年から、人々はこの忌まわしい日にでも平和な暮らしを営むことができるようになったのである。
当時の書記官ランティモニア・デル・カーテレルグはそう記している。
そして、これはフォルレウスが降魔の夜を封じてより六〇〇年余り後の物語――