第9話 置き去りにされた日常
食堂に怪しい団体客が来たり、変な幻覚が見えたりとよくわからない一日だったが、無事に今日の授業がすべて消化された。
「マーターちゃん、いーっしょーに帰りましょ」
減衰振動のように、左右にフラフラと往復しその振幅を減少させながら、フィルさんが僕の机に近づいてきた。
「はい。少し待ってくださいね」
「余は待つのが嫌いじゃ。はようせい」
「わかりましたから鞄でベシベシ机をたたくのはやめてください」
新品の教科書を自分の鞄に詰め込む。この学園は鞄の指定はないが、偶然にも、フィルさんやエンフィさんとほとんど同じタイプの手提げ鞄だ。
数学、国語、理科、英語……。このあたりの科目に対しては、特に不安という不安はないのだが……。
「確か明日は体育があるそうで。楽しみだぁねえエンフィさんや」
「うーん、私はどちらかというと嫌いだけど」
(た、体育……)
体育はヤバい。そのヤバさのレベルは、もはやあえて語るまでもないだろう。更衣室、あるいは、二人一組の準備体操。主にこのふたつのワードが僕の背後と真正面から大きな渦を描いて僕の心臓を抉りとろうとしている。
体育の時間中に、雌雄間における第二次性徴の対比を目の当たりにした、あるいはされた瞬間に、僕はもう立ち直ることは望めないだろう。
「マターちゃんは、体育はお好き?」
「え? 体育ですか? う……、き、嫌いです」
フィルさんの質問には、こう答えるしかあるまい。
「そっかあ。やっぱり非うどん民はどいつもこいつも根性無しなんだね。嘆かわしいよ」
「ちょっと。さりげなく私にもその独特の罵詈雑言を浴びせるのやめてよ」
明日の体育はどうしよう。休むかサボるか欠席するか……ってどれも同じだ。なんてとりとめのない思考を巡らせていると、
「(校内放送のアナウンス音)生徒会から連絡です。一年生のマターは今すぐ生徒会室に来るように。以上です。(校内放送のアナウンス音)」
なんて音声が、天井端に取り付けられたスピーカーから聞き覚えのある周波数で耳に飛び込んできた。生徒会長、すなわち僕の姉の声だ。
「すみません。たった今、僕は用事ができたみたいなので、これで失礼します」
「校内放送? 校内放送マジ妄想、妄想屋なんて虚言癖、虚言癖なら今日元気、元気におうちに帰りましょう。ということで、そんなの、ほっぽり出しちゃいなよ、ユー」
フィルさんが三流ラッパーのような真似事を披露したその瞬間、エンフィさんの鞄が垂直かかとおろしのようにフィルさんのつむじに向かって下ろされた。
「げ、ぽあぁ!? い、たたたたたたたたたたた……」
フィルさんの、自己の命そのものの揺らめき、生と死の狭間、全人的な心の叫びを全身で表現するようなその激しい動き、悶えの背後に、僕は彼女の役者としての才能を見た。
「……バカ姉はこっちで取り押さえてるから、お姉さんのところに早く行ってあげて」
「あ、ありがとうございます……。あの、人ならざる者の悲鳴が聞こえましたけど、大丈夫ですか?」
「大丈夫。バカ姉は今まで何回もこの仕打ちを受けてきた精鋭なので」
「は、はい」
エンフィさんがフィルさんの頭を鞄でしばくのは、なるほど二人の間の様式美であるらしい。頭がクルクルパーになったりしないのだろうか。
……まあ、極力気にしないようにして、僕は生徒会室に向かうことにした。
授業に使う校舎から随分と離れた位置にある建物へ向かい、15階まで上って生徒会室へ。15階建ての校舎がある時点で、並の学園とは別次元の広さだ。なんとエレベーターがあったので、それで上った。
生徒会室なんて人生で初めて入るので、やはり緊張する。身内である姉が待っていると考えれば、多少は気が楽だけれども。
(……あれ、さっき、エンフィさんが『お姉さんのところに早く行ってあげて』と言っていた気がするけど……。よく考えたら、僕の姉が生徒会長であることは知らないと思うんだけど……)
そんな疑問がはたと生まれたおかげか、いつの間にやら緊張はどこかへと去っていた。
「失礼します……。あれ、誰もいない?」
思ったよりも広い……と思いきや、人がひとりもいなかった。
生徒会室ということで、古くからある伝統の場所、なんていうイメージを勝手に抱いていたが、どの机も棚も、朝露を浴びた葉っぱのようにキラキラだ。
この学園自体が、割と新しく出来たと聞いたことがあった気がする。
とりあえず、誰もいないので部屋の中を物色することにする。
……が、すぐに物色し終わった。
当然と言えば当然だが、机の上には書類のひとつもなく、完璧に整っている。書類はすべて棚に収められているようで、まさか勝手に取り出して読むわけにもいかない。
つまり、今の僕にできることはひとつもない。
しかし……鍵が開いているとは不用心だな。透明なガラスの自動ドアになっていて、映し出される自分の可憐な女の子の姿に今更ながらも深々とため息をつきながら入ったので、何の違和感もなかった。
もしかしたら、僕が別の部屋と勘違いしてるかもしれない。そう思って部屋の外に出て室名札を確認してみたが、シンプルに「生徒会室」と記述されていた。
……どうなっているんだろう?
部屋の外で待っていた方が、誰か来たときにすぐに気づける。変な疑いをかけられても嫌だというのもあって、いったん部屋を後にした。
しかし。
「……え?」
そこは、真っ暗で何も見えなかった。
(あれ、廊下は? 廊下はどこに消えた?)
よくよく確認してみると、僕は確かに廊下に立っていた。しかし、太陽がすっかり沈んでしまったかのように、あたりはどんよりとした陰に包まれていた。
(どういうこと……? 一瞬で夜に変わった……?)
そんな馬鹿な。そんなことはナンセンス。そんなことはありえない。
徐々に目が慣れてくると、視界が確保できるようになってくる。
「お姉ちゃーん。お姉ちゃーん?」
左右に伸びる暗闇の道へ、僕は極めてゆっくりとした歩行に乗せて、二度ずつ呼びかけていく。
しかし、僕の声は闇夜の中に吸い込まれていき、なんの返事も返って来なかった。
「どういうことだろう……」
よくわからないが、あまりこの場所に長居するわけにはいかなさそうだ。しかし、おそらく生徒会室の近くにいるであろう姉を置いていくわけにもいかない。
校内なので躊躇われたが、スマートフォンを取り出して、姉との通話を試みる。
……つながらなかった。コール音だけが虚しくあたりを満たしていった。
「どうして出ないんだろう……」
その時。
僕のつぶやきに呼応され、ある闇の住人が目を覚ました。
「……それは、私の魔法のおかげですよ」
振り返る。
大きなその顔面だけが、闇のなかに幻影のように浮かび上がっていた。
ホタルが群れをなして不気味な生命力を光として轟かせているかのようなその現象に、僕は絶句した。
「あなたのことは、以前から知っていました。そう、あなたがこの学園に入学してくる前からね」
じわり、じわりと目の前の威圧感が肉薄してくる状況を、想像だけで感知した。
この声の発生源である肉体が、徐々に闇の中に立ち現れてくる。黒以外の宝飾品やアクセサリーなどの存在が、男が黒の装束に身を包んでいるというただひとつの事実を無時間的に表していた。
「それだけではございません……。あなたは本来、この学園に入学してくる資格がないことも」
男は、視界のきかないこの空間において、見抜いた……いや、それは非難と同等だった。
僕がこの学園に入学してきたという、その禁則の。
「あなたは確か……男性、でしたよねえ?」