第6話 火花立ち込める駆け引き
「マターちゃんマターちゃん。見てよあれ」
フィルさんの指差す先、仮想的な直線を視覚情報に頼って辿っていくと、桜の繚乱が見えた。
「きれいですね」
「……そうだね」
僕が直送の感想を口にすると、エンフィさんが桜の方を見ながら同調する。
「昨日は心の余裕がなくて全然気が付かなかったけど、落ち着いて見るとこんなにきれいだったんですね。ちょっと言葉にするのが難しいんですけど」
まだ人の少ない早朝では、集団をなした桜の全貌が余すことなく僕の双眸に飛び込んでくる。
桜の外見の美しさだけでなく、その裏に秘められた、決して人間が理解できないようなものが自己を主張しているようだった。
「……ん? マターは昨日、心の余裕がなかった?」
エンフィさんが小首をかしげて、桜とは関係ない話題を振ってきた。
「そりゃそうですよ。だって女の子ばかりの学園の入学式に僕が……いやいや! なんでもないです気にしないでください!」
「……え? う、うん」
うっかり口を滑らすところだった。
女の子との会話は、かくも恐ろしい。
「うーん、怪しいにゃあ……」
今度はフィルさんが話のバトンを受け継ぎ、表情ひとつ変えずに僕の全身を舐めるように見つめてくる。
「な、なんでしょうかフィルさん……」
「今日、家を出ながら手鏡で怨念のような執念深さで自分の外見を確認、そして昨日は最近家を出て一人暮らしを始めた息子を持った母親のように心の余裕がなかったという発言……。そこから導き出される結論は……」
僕の周りをゆっくり回りながら、ぶつぶつとなにやらつぶやくフィルさん。
まるで刑事モノのクライマックスのような嫌な雰囲気……。
フィルさんの推理によって僕が男だということが暴かれて、熱血系エンフィさん刑事の熱い弁舌によって僕が涙を流しながら自首するところまで想像してしまった。
それで、黒塗りの車に乗せられてフェードアウト。
「マターちゃん……いやマターさん、あなたは……」
フィルさんは不意に僕の正面で立ち止まり、両手でそっと制服の上着を整え、つむじ風を起こしながら僕の顔面に人差し指を突きつけた。
……開けた水色の空の下、まるでこの後CMのひとつでも挟まりそうな雰囲気の静寂が、僕たち三人を包みこんだ。
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「目標と思われる人間を発見しました。引き続き監視と調査を続けます」
「ああ、わかった。くれぐれも相手側に感づかれないように」
白衣を着た痩身長躯の男が、乱暴に無線の通話を切った。
「誰と連絡してたんですか?」
その男の隣にいる、紫の豊かな毛並みを纏ったネズミほどの大きさの獣が尋ねる。
「この前向こう側に派遣した男だ。私にとっては気に食わない人間だが、あれで隠密行動には最も長けた人材のひとりだ」
「気に食わないって……なにが気に食わないんです?」
「性格も考え方も根っこから私と違う奴だ。私が苦痛に顔をゆがめるようなありとあらゆる出来事を、逆に享楽的に貪るような人間……。まったく、いつだって五分も話が続きやしない」
そう吐き捨てながら、彼はモニタの電源を付け、机の上の獣に見せた。
「あいつの視界はこの映像とリンクしている。お前もよくこの画面を見ておけ」
「分かりましたよっと……あれ、ここからすぐ近くの映像じゃないですか。こんなところに本当にあれがいるんですかね?」
「無論だ。なにせ、それを目的としてここに本拠地を配置したのだからな」
「ふーん……。おお、かわいい人間の娘たち、いっぱいいるじゃあないですかあ」
「ふざけてないでしっかり監視しろ」
「はいはいっと」
その映像は、壁にホワイトボードが設置された狭い部屋の中、そして数十名の女子生徒を真上からの視点で鮮明に映していた。
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「マターさん……あなたはずばり……!」
フィルさんの伸ばした人差し指が僕の顔面に向けられたまま、徐々にこちらに近づいてきた。
「あなたはずばり……!」
彼女の指が鼻に当たって、けっこう痛い。
「そう、ずばり……!」
無駄にもったいぶられるので、緊張感で今にも発狂してしまいそうだ。鼻も痛いし。
「あの……もうCMは終わった頃合いかと……」
「CM? マターちゃんいきなり何の話?」
「いえ、なんでもないです……」
心理戦というか、間の持たせ方が致命的に下手くそな刑事だった。
「恋ですね!?」
と思ったら、いきなり真相を口になさった。さっきまでの異様な引き伸ばしはなんだったんだ。
「え、恋ですか?」
「ええ、いきなり手鏡で外見を気にしだすようになるなんて、恋以外の何者でもありません。それに、今は春ですし。出会いの季節ですし」
「でも、僕が通うのは女子校ですよ? 出会いなんてあるわけないじゃないですか」
僕は男なので、本当は標準の二倍の出会いの機会があるのだが。
驚くことに、フィルさんはやにわに泣きそうな表情を浮かべた。
「……え、違うの? 恋じゃないの?」
「……違います」
「……じゃあ、恋煩い?」
「同じです」
「……初恋とか」
「……それも同じです」
「……あれ、同じってことは、それで正解ってこと?」
「違います。僕の二日間の一連の行動の原因は恋ではなく、そして恋煩いや初恋も同じく違うという意味です」
「え? 同じく違うってどういう意味?」
番組の終わりの方で、混乱の極みに達した刑事さんに対して、容疑者がなんとか一生懸命状況を説明しようとするまさかの超展開を見せた。
「とにかく、僕が心の余裕がないとかその原因がどうとか云々は、別に気にしなくていいですよ」
「……まあ、納得いかないけど、マターちゃんがそれでいいなら……そういうことにしておいてやろう」
最後だけなぜか突然俺様口調に変貌したが、フィルさんはいつもの(どういう状態がいつものなのかはまだよく知らないが)表情に戻った。
というか、本当に心の余裕がないのは、フィルさんの方ではないだろうか。
「なあんだ。だいぶ時間も食っちゃったし。マターちゃん、早く学園に行こうか」
「そうですね。わかりました。エンフィさんも……あれ、エンフィさんは?」
ゆっくり全方位を見渡してみても、エンフィさんの姿が見当たらなかった。
「あれえ。エンフィちゃーん。エンフィちゃんやー」
「さっきまでここにいたと思うですけどね……」
「……こうなったら、最終手段のあれを使うしかないか……」
フィルさんはそっと目を閉じた後、突然少年マンガ調のシリアスな表情を浮かべて、前傾姿勢を作って腹の底から声を出した。
「エンフィちゃんの……エンフィちゃんのおっぱいはAカップだああああああああああああああああああああ!!」
その声は、野を越え山を越え、地球の裏側までこだました(気がするくらい大きかった)。
……セルフ耳栓が全く間に合わず、聞いてはいけない部分までバッチリ聞いてしまった。
しかし、フィルさんのこの決死の行動の結果は、通行人の何人かがゴミを見るような目でこちらをチラ見したくらいで終わってしまった。
「……バカな!? この私の最終奥義がまったく通用しないだと……!? いつもならこの後すぐに飛んでくるというのに……!?」
フィルさんの言ういつもというのが、どのくらいの頻度を指しているのか実に気になった。
「……ねえ、マターちゃん。今って何時?」
突然冷静さを取り戻したフィルさんが、僕の方を向いて尋ねてくる。
「時間ですか? ええと……」
……エンフィさんが突然いなくなった理由は、他でもない僕の腕時計が示してくれていた。
「……八時四十分です」
フィルさんが、青ざめた表情をして問いかけた。
「……HRは」
「……八時三十分です」
「……完全に理解した」
フィルさん刑事の大活劇。しょっぱなから後続の番組の時間を10分も割く超大迷惑行為を働いて終了した。