第3話 風吹き荒ぶ都市
屋外に植えられた人工芝の端っこで、僕は膝を抱えてしゃがみ込んでいた。
ここは……紛れもなくアステリア女子学園の敷地の中。
校門側からは死角になっている場所。
心臓の鳴動が、膨大な不安と警鐘とを織り交ぜて僕の中枢神経を支配してしまう。
僕が今感じている不安は、大きくふたつ。
ひとつ目は、いつか僕の性別が学園じゅうに知れ渡ってしまうのではないかという不安。
ふたつ目は、入学式の開会式がじきに始まってしまうだろうという不安。
(詰んだ……)
今から何事もなかったかのように、会場――この学園の本部棟3階に位置する講堂――に向かおうとすれば、まわりの女子生徒の誰かが僕の性別に気づく可能性が高い。
逆に、いつまでもこの建物の陰で座っているだけでは、性別がバレなくても今度は入学式に出席できない。
(死んだ……)
正直に言うと、御守りを探していた女の子に出会う前は「もしかしたら意外にバレないのでは」と自分でも少し思っていた。
いや、自分の女装の完成度に自負を持っている訳では、決してないですよ?
ともかく、そのような根拠のない直感が作り出した仮面は、初対面のあの女の子に根こそぎ剥ぎ取られてしまった。
「僕、どうしたらいいんだろう……」
「……ちょっと」
「ひゃああああ!?」
センチメンタルを刺激するエモーショナルなナンバーを脳内BGMに選定しようとしていたところに、僕の右耳からゼロ距離でクールな声が飛び込んできた。
「あ、ごめん……。そんなに驚かせたかな」
「い、いえいえ……! すみません、突然大声を出してしまって……。あ、あなたは?」
「私はエンフィ。君と同じ新入生……」
彼女の胸元をよく見ると、僕と同じ赤いリボンが、風にまかせるままにたなびいていた。
「もう少しで入学式が始まるのに……。具合でも悪いの?」
長く伸ばしたつやのある黒髪を、凛とした顔でそっと振り払いながら言う。僕のことを心配してくれるみたいだ。
(か、かっこいいなあ……)
とかく冷静さを欠きがちな僕には持ちえない魅力を持っている。発言のあいだあいだに挟まる、エンフィさんの小さな一挙手一投足を、ついつい目で追ってしまう。
確か、さっき会った人の妹さん……かな?
蒼穹をすっかり映しこんでしまった両目に、肌の白さと制服の紫のあわいに立ち込めるギャップ。
「……聞いてる?」
そして、僕の右耳をいともたやすく捻じりこんでしまうほどの、絶対零度の強さ。
「いたたたた!?」
「早く講堂に行かないと、間に合わない……。それでもいいの……?」
半分ジト目で僕を促してくる。
「……でも、僕は……その……」
困った。
今は講堂に行きたくない。その途中で確実に僕が男だということがバレてしまう。そんな、根拠のない絶対的な不安が僕の前進を拒む。
……今は講堂に行きたくない。
それならば、僕はいったいいつ講堂に行くというのだろう?
「……仕方ない。はい」
「うわっ!」
エンフィさんは僕にコインのようなものを投げつける。なんてことはない。ただの小銭だった。
「それなら私も待ってあげる……。その代わり、それでジュースを買ってきて……。なんでもいいから」
エンフィさんは、建物に張られた透明なガラス板にもたれた。
「あ……、自販機は、この建物の裏をまっすぐ行ったところにあった」
「あ、はい……わかりました……」
彼女の指差す先を目指して、僕は足を踏み出そうとする。
「あの……エンフィさんはどうするんですか? 入学式に出なくていいんですか?」
「……まあ、たまにはサボるのも悪くないかなって」
その言葉とは裏腹に、彼女はうっすらと笑みを浮かべていた。口元を持ち上げて、目を細めているはずなのに、限りなく無表情に近い、そんな笑み。
たまにはサボるのも悪くない……たまにはといっても、これは入学式だ。
新入生にとっての晴れ舞台であると同時に、人生の通過儀礼のひとつですらある。
そんな大事な行事を、彼女は……。
いや、違う。
僕は、なかったことにして、忘れ去ろうとしているのだ。
「……行きます」
「……え」
「僕、ちゃんと入学式に出ます。……その、お騒がせしました、というか、ありがとうございました」
エンフィさんが、ゆっくりと近づいてくる。
ちょうど彼女の豊かな髪が僕の鼻先にあたるものだから、女の子の匂いに僕は動揺を抑えきれる自信がない。
こんなに緊張するのは、僕が性別を偽って女装をしているから、というのもあるだろうが。
バレたらそれは殺されたも同義。そんなスリルが、僕のありとあらゆる身体機能のはたらきをアトランダムに促進しているのだ。
「……じゃあ、ジュースの話はなかったことにして、行こう」
それは、彼女の笑みが、笑顔に変わった瞬間だった。
「……はい」
良かった。
女の子だらけの、ある意味砂漠のようなこの場所で、話せる人がひとり見つかっただけでも大きな心の支えとなるはずだ。
……が。
「おーい、エンフィ―! そこでなにをしておられるー?」
高低差の大きな独特のイントネーションの声が、僕の背中から聞こえてきた。
「「げ」」
どういうわけか、僕とエンフィさんの声が重なる。
さっき、校門の外で御守りを探し求めていた人だ。改めて見ると、腰まで長く伸ばした黄金色の髪の毛が見る者の関心を湧きたてる。
見た目に劣らず笑顔もまぶしい人だ。
そしてなにより、僕が男であることを一発で見抜きなさった御仁でもある。
「さようならー!」
気持ちだけスカートの裾を押さえながら、初速を爆発させて逃げ出した。
「あ、待っておくれ!」
僕が逃げると、彼女が追う。
「ちょ……バカ姉! ちょっとは落ち着け!」
リアルタイムでエンフィさんの声が遠ざかり、視界に映る背景が連続的に更新される。
「う」
同じ服を着た人の群れが、視界の奥で列を組んでいる……。
講堂へ向かう新入生の列。そこは平生から多くの生徒で賑わうと噂の、開けた中庭だった。
後ろめたさを隠している僕は、そんな人の群れを眼前にして、一瞬足を止めてしまう。
「つーかまーえた!」
「ひえええええ!?」
制服の裾の上から、僕の腕を掴まれた。
「僕は男じゃありませんー!!」
「えーと、そのことなんだけど……」
「うっすら生えていたすね毛も剃らされましたし、髪の毛も結わされましたし、だから男じゃないんですー!!」
僕の精神(男)の一部が遊離して、安全な場所から僕の実体(女)を見下ろしながら、あいつは随分と支離滅裂なことを言っているなあと、感慨にふけっている。
……気がする。
僕の腕をつかみながら、彼女は空いた手で自分の頬をかき、こんなことを言う。
「えーと、その、少年と言ったのはなんというか……冗談でござる! ごめん!」
「……え」
冗談?
「まあまあつまり、私のまぎらわしい言葉遣いもやんごとない乙なものだということで、じゃあこれからもよろしく~」
「よろしくじゃないよこのバカ!」
「あたっ!」
追いついてきたエンフィさんが、一切の戸惑いもためらいもなく姉の頭を薄い鞄で殴りつけた。
「尋常じゃない痛みだよエンフィちゃん! このフィル様に向かってなんという仕打ちか!」
「入学式のしょっぱなから他人に迷惑をかけてるんじゃないよ! それに謝り方が雑オブザ雑!」
フィルさん(と言うらしい)とエンフィさんとの間に、あまり深刻でもない口論が勃発する。
打撃の瞬間に尋常ではない破裂音が鳴ったのだが、鞄は大丈夫なのだろうか。
それにしても……僕に対して少年と言ったのには、特に深い意味はなかったらしい。
安堵が怒涛の勢いで僕のハートに押し寄せて、ドッサリかいた冷汗が一瞬にして蒸発した。
(ああ、よかった……。もし本当にバレていたら、もう何処か危ない世界でそういうキャラとして貫き通す以外に生きる方法がなくなるところだった……)
「ところで、君なんて名前?」
「え、ぼ、僕ですか? マターって言うんですが……」
「へー。一緒のクラスになれるといいね~」
「……て、人の話を聞けこのバカ!」
あまり深刻でもないレベルで形相を変えたエンフィさんは、体重の乗った鞄攻撃を、今度は角を刃先としてフィルさんの頭を狙い撃ちする。
「いたたたたた!? 角は痛いよ角は!?」
今度は鈍い音だったが……。鞄は、もとい、フィルさんの頭は大丈夫なのだろうか。
それにしても、エンフィさんのイメージがさっきから随分と違うなあ。
フィルさんと一緒にいる今のテンションの高いほうが、素なのかもしれない。
「それに、さっきも御守りを失くしたとか言ってすぐにどこかに行ってしまうし。少しは落ち着きなよ!」
「無事見つかったからいいんです~! 妹にとやかく言われる筋合いはないんです~! 手伝わなかった妹ちゃんよりも手伝ってくれたマターちゃんの方が百倍役に立ってます~!」
「……て、その娘に手伝ってもらってたのか……。はあ、呆れた……」
フィルさんとエンフィさん姉妹は、失礼ながら生産性のなさそうな意見のぶつけ合いにいつまでも精を出していた。
「あの……お取込み中のところ申し訳ありませんが、集合時間まであと5分しかないですよ……」
「それは大変! 今すぐ行かなくては! というわけでマターちゃん、行くよ!」
まるで生まれ変わったかのように精神を切り替えて、僕の手を掴んで走り出すフィルさん。
「だ、だから落ち着けってばこのバカ姉!」
悪態をつきながら追いかけるエンフィさん。
……なんというか、初日からものすごい騒ぎに巻き込まれたな。
しかし、こんなスピード感あふれる調子が続けば、僕はとどこおりなくこの学園に三年間籍を置き続けることが可能かもしれない。
(……ん? なんだろ、あれ)
今、人工芝のところから、黒い霧のようなものが出たような……。
「……ところで、実のところ、マターはおのこ? おなご?」
「……え!? お、おおおお男!? だから違うと……う、げほげほげほ!」
「もうその質問はやめなよ! マターがびっくりして呼吸困難に陥るかというくらいむせてるじゃんか!」
ともかく、紆余曲折を経て、僕は入学式の会場に無事(?)にたどり着くことができた。