第23話 解釈を内包する磁場
密閉された教室の中で、教師の放つ声が熱を帯びてフラフラと浮遊する。壁にぶつかり反響し、増幅してはまた反響を繰り返し、やがて均質的な濃度となって自然消滅する。
教師が発言するたびに繰り返されるこのサイクルの中で、僕の隣に座るフィルさんはすっかりと意識を失っていた。
日本の教室の中では、いつの時代でも見られる光景だ。
一睡もせずノートを取っているエンフィさんと比較すると、いかに対照的な双子であるかがわかる。
(こんなに違うものなのかな……)
例えば、僕と僕の姉とを比べたとき、それなりに似ている部分があると思う。昔、僕たちがお世話になっていたダヴァさんも、しきりに言っていた。体育会系でないところとか。指が長くて整っているところとか。ダヴァさんに言わせれば、身体的な特徴から精神的な特徴まで、僕たちの類似点は枚挙に暇がないという。
まあ、変態度(どのくらい変態かを表す指標)という点で言えば、比べ物にならないが。もちろん、僕は至ってまともだ。今の女の子の格好と照らし合わせると、説得力にほんの少しだけ欠けるかもしれないが。ほんの少しだけ。
一方、フィルさんとエンフィさんの間には、まるで類似点というものがない。そもそも髪の色からして全く異なる。
もちろん、仲はとても良さそうだけれども。全く違うからこそ惹かれあうものなのか。そういうことって、往々にしてある。
さて、今はそんなことよりも、僕にはやることがある。この授業が終われば、いよいよ体育が始まってしまうのだ。
集合場所はグラウンドで、着替える場所はグラウンド近くにある4号校舎の更衣室だ。女子だけの学園でも更衣室が存在するということに、他人事のように感心した。
更衣室で堂々とすっぽんぽんになって、同じくすっぽんぽんの女の子の肌を舐めるように見回す訳には当然いかないので、何かしらの対策を今のうちに講じておかなくてはならない。
これは、ただ単に着替えを見せ合いっこするのが恥ずかしいだとか、そういう次元の問題ではない。僕がこの学園に籍を置き続けられるかどうか、そして、僕が真夜中の路地裏のいかがわしいお店に左遷させられるか否かの問題にまで発展しうる、きわめて重大な案件なのだ。
頼れる人は少ない。僕が女子校に通っているという事実を知っている者は、パウロと姉しかいないからだ。そこで、僕は携帯電話でパウロにメールを飛ばした。どうしたら僕の正体がバレずに体育に参加できるか、といった内容で。
おそらく向こう(ムーンテリア男子学園)も授業中であるから、望み薄だが……。
なんて思っていると、5分も経たないうちに返信が来た。
(早っ)
高校が別々になっても、やはりパウロは親友だった。僕は早速そのメールを開封する。
「マターへ。
ああ~。体育は困るよね。わかるわかる。ボクもそうだったしさ。
ボクの方も、まだ体育が昨日始まったばかりだからなんとも言えないんだけど、基本的に更衣室で着替えるのは絶対にNGね。
もし更衣室で着替えるなんて状況に陥ったら……。お~しまい、という感じで。だから、絶対に更衣室の中に入らないように。例え邪で嫌らしい感情が跋扈してきたとしても。なんなら最初から近づかないこと。
まあそれさえ守れば自由にやったらいいんじゃないかな。正直、トイレの中でいくらでも着替えられるし。でも、もしかしたらトイレが混雑してるかもしれないから、万全を期すならあらかじめ体操服を下に着こんでおいた方が良いよ。バレないのかって? 大丈夫大丈夫。さすがに体操服を下に着こんだくらいで、『こいつ男だな』って疑いをかける人はまずいないから。というか、女の子でもやるし。
そっちも大変だろうけど頑張れ。こっちは当然男子用のトイレで着替えた訳だけど、まあ個室が少なくてね。ちょっと焦っちゃった。まあバレないでしょ、マターなら。そのかわいい顔でバレるならもう元からどうしようもなかった感じだからね。
という訳で、同じ境遇にある者どうし、お互い頑張ろう。さいなら。またメールよろしく。
オゼル」
僕がこのメールを読み終わったとき、まったく気づかないうちに僕の心臓が波打っているのが聞こえてきた。
最初、「パウロにしてはやけにフランクな文面だな~。そしてやけに詳しいな~」とか気楽に思いながら読んでいた。
そして、最後の最後に書かれてある送り主の名前を見た瞬間、驚愕した。
(これ、オゼルが打ったのか!?)
僕は確かにパウロに最初のメールを送った。おそらくその後、パウロがこのメールをオゼルに渡して、オゼルが返事を書いたのだろう。
ということは、つまり。
(オゼルに……僕が性別を偽って女子校に通っていることがバレたってことなのか)
確かに昨日、僕はオゼルからいろいろ女の子いじりをされたけれども、あくまで僕の在籍している学園までは知らなかったはずだ。
オゼルにこのことがバレた要因はただひとつ。パウロがこのことをオゼルに話したんだ。
(パウロよ……。僕は君とふたりだけの秘密として共有しておきたかったのに……)
しかし、冷静になって考えてみると、パウロがオゼルにこのことをバラしたということは、それだけオゼルが信頼に足る人物であるということを暗に語っているのかもしれない。パウロは基本的に口が堅い人間だから、そんなパウロがオゼルに秘密を話したということは、オゼルもまた秘密を守ってくれるタイプの人間なのであろう。
いやいや、もしかしたら、パウロが携帯を開いて僕のメールを読んでいるところを、単純にオゼルに見つかってバレただけかもしれない。むしろ、その方が容易に想像できる。オゼルさんのあのアクティブな性格なら。
ここまで思考して初めて、ようやく冷静さを取り戻してきた。しかし、まだ驚愕に値する真実が残っている。
『という訳で、同じ境遇にある者どうし、お互い頑張ろう』
メールの最後の方に書かれていたこの文面が指し示していることは、たったひとつしかない。
オゼルは、男装して男子校に通っている。すなわち、オゼルは女だ。
僕は、昨日のオゼルとの記憶を探ってみる。公園、洋服店、映画館、喫茶店、カラオケボックス。彼の、あるいは彼女の、声色や肌の柔らかさ、背の高さなどの手がかりをひとつひとつ拾い上げていく。
確かに、オゼルは男としては声が高いし、背が低いし、肌がきめ細やかで柔らかそうだった。
しかし、だからといって、本当は女の子だっただなんて判断できるだろうか。
それに、オゼルはそれ以外の部分について、非常に男らしかった。生来の男らしさというか、男としての人生を歩んでいる者のみが持ちうる何かがあった。
それは、おそらく理屈では説明できない。どうしようもなく感覚的で、定性的なものだ。けれども、空想上のものではない。ある一定の視点からでは、どうあがいても観測しえない解釈対象……。
『ボク、君と出会えてよかったのかもしれない。初めて会ったときから、ボクは君のことを他人とは思えなくて……』
昨日、去り際に、確かにオゼルからこう言われた。
この言葉が意味するものは、きっとこういうことだったんだ。同じ、居てはいけないところに身を置く者どうしの目には見えないつながりを、婉曲的に表したものだった。
「マターちゃん。マターちゃん」
と、その時、隣の席に座っているフィルさんが、僕の脇腹を突っついてきた。
「は、はい。どうしました?」
「もう授業終わったよ。皆起立してる」
「え、本当ですか!?」
全く気付かなかった。僕は急いで立ち上がる……が、思ったよりも随分とクラスメイトの頭が俯瞰できる位置にそろっていた。
……というのも、皆座っていた。
「う~そだよ~ん。ちょうど先生が見ていないときに仕掛けるこの私の親切心にあふれた悪戯。どうよ、この計算高き私の悪戯は? よかったらぜひ高評価とチャンネル登録の方をよろしくお願いいたします」
その時、フィルさんの真後ろに座っているエンフィさんが、フィルさんの頭を数学の教科書で思いっきり引っ叩いていた。
「こんなアナログ的な高評価の押し方はないよ!?」
ともかく、僕はすぐに席に座る。本当に教師にはバレてなかった。
おかげで赤っ恥をかかずに済んだ。いや、フィルさんが悪戯を仕掛けなければよかっただけの話だけど。
でも、僕の方も、よっぽどオゼルのメールのことで頭がいっぱいだったようだ。この学園の中では、特に気を付けていかないといけないな……。
それから10分近く経過すると、授業終了のチャイムが鳴った。




