第22話 咆哮を知らぬ花々
アステリア女子学園の校門から少し首を斜めに構えれば、視界を埋め尽くすほどの校舎に圧倒される。
無数に張り巡らされたガラスに、平面と球のみで構成された幾何学模様のビル群。ふと目を細めれば、太陽の光を跳ね返す黄金色のフィルターめいた作用が目視できた。
今日の体育を行う場所であるグラウンドは、ここからは見えない。
体育館や講堂はひとつずつしかないが、食堂は複数存在する。生徒数と全く釣り合わない敷地の広さ。土地の無駄遣いではないだろうか?
生徒の談笑が、あちらこちらから聞こえてくる。
この学園そのものが、ひとつの都市のようだった。そう思わせるのは、学園の規模の大きさだけではない。この学園そのものが、ある意志を持って動いているように思わせる何ががあった。
根拠こそないけれども。
「そういえば」
フィルさんが、手をポンっと鳴らしながら、思い出したようにつぶやいた。
「なんですか?」
フィルさんは、体育会系の人みたいに、腕をピシっと伸ばして人差し指を突き出した。
「あそこらへんに生えてる草や花って、モノホンなのかね?」
「草や花なんて、この学園ではよく見かけるような気がしますが」
「いやまあそうだけど、ほら、あそこの庭とかさ」
フィルさんが指差す方向には、開けた中庭があった。人がひとりも座っていない木製のベンチが円を描くようにずれなく設置されている。ベンチに沿うように、白や黄の花々が繚乱している。
植物という有機物で覆われたその中庭は、この上ない無機質な印象をありありと訴えている。寂寥感に塗れた美しさが、太陽に照らされて影を伸ばしている。
「マターちゃんは美少女だから、あそこに生えている花の名前はすべてわかる。ドントユー?」
「いや、決めつけないでほしいんですが。どうして美少女だったら花の名前がわかるんですか」
フィルさんは、雨乞いをするように両の手のひらを太陽に向けて、首をかしげながら両腕でゆっくりと円を描いた。
「マターちゃんは、お花さんとお友達になって優雅に戯れちゃうタイプの、そんな純粋無垢な美少女というイメージだから。もう少し詳しく説明すると、幼少期はマイペースで生きてきた人間が順調に他人からの愛情を受けながら成長を続けた結果の反映のようなイメージ。幼少期にありとあらゆる英才教育を受けてきたような、いわゆる『お嬢様』と言われるような人種とは対照的な成長を遂げた人間のみが持ちうる、今にも世の中の穢れに吸い寄せられていってしまうような、まさに儚く消えてしまいそうで消えない有時間的現象を内包する個体としての美を感じる無垢である」
フィルさんは、雄弁さを感じさせない極めてあどけない表情で、ペラペラと喋り散らかした。
思わず「は??」と返してしまいそうになった。
「もったいないお言葉、ありがとうございます」
「むむ? そのセリフは本心から紡がれた言葉ではないね? 顔に『いきなり何言ってんだこのカス』と書いてあるのが霊媒師の私には見える」
「自覚はおありなんですね」
「ドヤア」
えっへん、という感じに腰に手を付けて胸を張るフィルさん。
「で、話はそれで終わりですか?」
「いやいやいやいや。あの花はいったいなんて言う名前なの、ていう話だったじゃあないですか奥さん」
「あの、パッと見た限り、僕にもわかりませんが」
「ひとつも?」
「はい。なにひとつわかりません」
花も草も、中庭に植えられた大木の名前も、ひとつもわからない。僕の見たことも無いような種類の植物が視界の全てを埋め尽くしている。
「ちゃんと見た? 見たところ結構たくさんの花が植えられているみたいだけど」
「そういうフィルさんは、どれか分かる花はないんですか?」
「私は……、私は……。いやほら、分からない訳じゃないよ? 私も美少女だから花の名前くらい普段なら余裕のヨイで分かるんだけど、今はちょっと寝不足でエネルギーが足りないんですな。朝もうっかり寝坊しかけて朝ご飯食べてないし」
「前日の夜に充電するのを忘れたスマホのような脳をしていらっしゃるんですね」
「おたく、さっきからリプライの内容が辛辣すぎん?」
もしそうだとすれば、それはフィルさんとの距離が縮まってきて、どんな言葉をもって会話を繋げたらいいか、という感覚が少しずつわかってきたからなのかもしれない。気恥ずかしいので口には出さないが。
「そんな意地悪な娘には、一時間ほっぺたぷにぷに刑か、二時間頭なでなでの刑のどちらかを速やかに遂行してやるでござるよ」
「どっちも嫌です……」
どんな形であろうと、身体を密着させるのはシャレにならない。それを、僕はあの日に嫌と言うほど思い知ったのだった。
「でも、この花ってさ、なんだか味気ないというか、ぼんやりした感じがするよね」
「確かにそうですね。画一的と言うか。これらもおそらく人工のものだと思います」
「色はこんなにも鮮やかなのにね。絵の具でドババーっと塗りたくったような感じ。男気が溢れてるような」
「まあ、それが最近の流行りというか、時代の流れなんだと思いますよ。人工物なら基本的に永遠に咲き続けますし。なにせこんなに広い学園ですからね」
「手入れの手間を削減してる。そういうことかんね」
僕とフィルさんは、お互い視線を外して中庭まで進む。
近くで見ると、フィルさんが言及した花の印象がますます説得力を帯びていくのを感じる。
あと何百年と経過して、この学園が人為的に取り壊されてしまった後も、この花たちは生き残るのかもしれない。
もしそうだとすると、この学園そのものとこの花たちとが、切り離された別個の存在であるという認識がますます強まってくる。学園の死が、花の死と一致しないのであれば。
あくまで、この花はこの学園に咲いているのに。それでも、どうしようもないほど、この学園と花は相容れない関係なのだ。
寂寥感を覚える理由が、おそらくここにある。
……これが、この学園の意志のひとつなのだろうか?
「ところで、昨日は寝不足だったんですか? さっきそう言ってた気がしますが」
なんとなく、僕は話題を変えたくなった。
「うん。身体が泥のようだよ。泥もしたたるイイ女ってやつだわ、これ」
「そうですね。で、遅くまで起きていたんですか?」
「うーん、そんなつもりじゃなかったんだけど。でもさ、ひとつ考えられることとしては」
フィルさんはいきなり僕の両手を自分の両手で包み込んで、僕の顔を覗き込みながらこう言った。
「マターちゃんとまたこうやってお喋りしながら登校できるかどうかが、とっても不安だったから、かな」
木漏れ日を浴びたような瞳に、桜の色に染まった唇。絶えず風にさらされる豊かな髪。それは、僕なんかとは比べ物にならないような美少女のもののように思えた。
フィルさんのこの言葉は、僕が一度も見ていない彼女の安堵の表情から紡がれたものだった。
安堵の裏側には、不安がある。時間という媒介者のもとで行われる、不安と安堵との表裏一体的な結びつき。
一回分の月光を浴びて変化した、彼女の不安と安堵とを行き来する胸間。
彼女を不安にさせた張本人である僕が、未だ彼女の不安に満ちた表情を見ることができずにいるのだった。
したがって、弁明の余地も、自省の材料も探し出すことが叶わない。それが少しだけ僕の心臓を突いたような気がした。
「さあ、そろそろ教室に行かないとまずいですぜ、あんさん」
「……そうですね。行きましょうか」
いつか、彼女の裏側の感情を見ることができるのだろうか。たとえ僕であっても。
もしそれが叶うのならば、その時は、さっきの彼女の言葉に返答をしたい。そう思った。