第20話 史実を取り戻す旅人
学園へと続く道は無数の桜の花びらに覆われて、僕はその上を軽い足取りで歩いていく。
このあたりの桜には、生命の瑞々しさは感じられない。地面を埋め尽くす花びらを踏みつけて覚える寂寥感もなかった。
その答えは、少し首を持ち上げて上を仰ぎ見ることで、すぐに知ることができる。
たくさんの花を散らせた桜の大木に、更なる花が繚乱していた。大木はまた春風に大量の花びらを舞わせ、また体内で桜を生産する。
大量の子供を産み落とし、更なる子供を生産する、機械仕掛けの母親というフレーズが浮かんで消える。そこには限界や時間の概念は存在せず、よって生命らしさといったものもすっかり凍てついている。
僕が桜に目と心を奪われているところに、誰かが僕の右肩を優しく叩いた。
「マターちゃん。この桜好きなの?」
振り向いてみると、フィルさんが立っていた。
僕は咄嗟に声を出すことができなかった。後ろめたさに似た感覚が浮上してくるのを感じる。
「おはよう。マターちゃん」
奇想天外な言動が十八番の彼女としては珍しい、シンプルな挨拶と呼び掛けだった。
「おはようございます。フィルさん」
朝の挨拶は、今までより少しぎこちなく感じた。
「そう言えば、昨日も体育があったわけだけどさ。全然ハードじゃなかったから安心するがいいぞよ」
「フィルさんに優しい言葉を掛けられるって、なんだか新鮮ですね」
「なにおう。人の優しさに悪態をつく輩を、我は友達とは認めませぬぞよ」
「す、すみません」
フィルさんは少しだけ頬を膨らませて、いつもの笑顔を浮かべた。この人は、エンフィさんと違って常時笑顔を浮かべているような人だ。わざとらしさはまったく感じられなくて、僕は好きだ。
「うむ。寛大な心で赦してしんぜる」
しんぜる、なんて日本語があるのかどうか、よくわからなかった。
「エンフィさんの姿が見えませんが」
「エンフィちゃんは先に出かけたよ。用事があるんだってさ。ところで……昨日のメール読んだ?」
フィルさんは、ごく当たり前のように僕にそう尋ねてきた。このことに関して、気まずさを感じているのは僕だけのようだった。
「読みましたよ。……というか、読まないと返信できるわけないじゃないですか。昨日は随分と長い間やり取りをしてましたよね?」
「おう……それもそうだった……。マターちゃんは頭が切れる天才だよ」
まったく思い付かなかった、と顔に書いてあった。
「ところで、僕は昨日、どういう理由で休んだことになったんでしょうか。その、出席をとるときに……」
「ああ。確かねえ、私が弁解したと思うよ」
「先生になんて言ってくれたんですか?」
「『マターちゃんは今、オタクショップで声優さんのサイン会に出席しています』て言った気がする!」
「ええ、なんでそんな言い訳にしちゃったんですか!?」
サイン会で学園を休むとか、完全にずる休みだ。なぜ「風邪」を理由にしてくれなかったんだ……と思ったが、正直この人の性格では、なんというかもうどうしようもない。
「はっ。確かに、マターちゃんはこんなにかわいいかわいいフェイスで素朴な様相であるのに、オタクという設定はまずかったか……。学園中の童貞オタク男性教師どもがマターちゃんにこぞって絡んでくるようになるかもしれない……! そして三つ指をついてご結婚をお申込みなさるかもしれない……!」
「いや、そんな心配はしていませんけど」
「マターちゃん。何かあったらこの私に相談するんだ。私は逃げ足だけは速いからね。こう、忍者のようにさ。完全勝利でござるよ」
「……それ、僕の逃げ足も速くないと、意味ないですよね」
「……確かに!」
まったく夢にも思い付かなかった、と顔に書いてあった。こんなに顔に出やすい人に、少なくとも忍者は適性がない。
「ちぇー。とにかく、マターちゃんのおフェイスには、猫にも杓子にも指一本触れさせないからね! あ、でも、猫と戯れているマターちゃんもまた良き……」
とかなんとか言いながら、手のひらで何かを弄びつつ妄想の彼方へと飛び去ってしまった。法悦な表情を浮かべて、視線が青空の先へ固定されてしまっているので、見ていてとても危なっかしい。
「ち、ちょっと、フィルさん! そんなに振り回したら、持ってるそれの紐が千切れますよ!」
「はへ?」
言うも遅し、フィルさんが握りしめているものと鞄とを結び留める、厚みのある白い紐が綿を垂れ流しながらあっけなく千切れ去った。
「うおおおおおおおおおい!? エンフィちゃんに夜なべして結んでもらった紐が! まっぷたつに!」
見たところ、それなりに丈夫そうな紐だったのだが、今フィルさんが握っている紐は見るも無惨な状態だ。
「また結びなおしてもらったらどうですか?」
「いやだ……絶対怒られる……絶対殺される……」
フィルさんはわなわなと震えた。
「だったらもうちょっと気を付けましょうよ……」
「……拙者、ぐうの音も出ないでござるよ」
顔に出やすかったり、ボーっとしたり、物を壊したり、およそ忍者とは対極の存在だ。
「ところで、フィルさんが握りしめてるそれはいったい何ですか?」
「ああ、これ? これはね……。じゃんじゃかじゃかじゃかじゃか……じゃん」
セルフドラムロールを行いながら、手のひらに乗せられた物体を僕にそっと見せてくれた。
それは見覚えのある物だった。
「僕が前に拾ったことのある、御守りですね」
「そう。そして裏には風情もクソもないペン書きがなされておる」
フィルさんは「ほら見てよこれ」と言う具合に御守りをひっくり返して、僕のほっぺたに押し付けてきた。
「見えません見えません」
僕は御守りを手に取って見てみる。
『これは肌身離さず持っておきなさい。いざという時のために、あるいは、なんらかの事故が起きたときに、必ずお前を助けるであろう。父より』
前に見たときと同じ文章が、黒のマジックペンで書かれてあった。
僕はそれを近づけたり遠ざけたりしながら、丹念に調べてみる。
(やっぱり……この字は見覚えがある気がする)
姉の字でも、パウロの字でもないが、それは確かに覚えのある字体だった。なつかしさすら感じる。
ある人物の影が、受動的に映像として浮かび上がってきた。それは、僕と姉が昔お世話になっていた、ダヴァという名前のおじさんだった。
ダヴァさんは、だいたい僕たちが10歳くらいになるまでは、今の家で暮らしていた。その後ひとりで家を出てから、ほとんど連絡を取り合っていない。家を離れる時に、「俺にはやらなければならないことがある」と言っていた気がするが、それが具体的に何なのかは今でもわからない。
今僕の目の前にあるこの御守りに書かれた文字が、ダヴァさんの字と酷似している。これはいったいどういうことだろうか。
でも「父より」と書いてあるし、さすがに同一人物ではないだろう。おそらく。
「あの、マターちゃん。もうそろそろ時間がヤバいのだが」
「あ、すみません。つい真剣に見てしまって……」
「そんなに面白いこと書いてあったかな……?」
僕はフィルさんに御守りを返した。
「マジックペンで念を押すなんて、その御守りは何か特別な物なんですか?」
「……うん。そうだね」
フィルさんは、少しだけ目を細めて、ぽつりと言葉を紡いだ。
「とても大事なものだよ。絶対に失くしちゃいけないものだから、エンフィちゃんが鞄に紐をつけてくれてたというのに、私ときたら……」
フィルさんの神妙な面持ちが、風になびかれた長い金髪によって見え隠れする。
「なんとなく、エンフィさんの性格なら、『信用ならないから私が持つ』とでも言いそうな気もしますが」
「エンフィちゃんも持ってるよ。これは二個ある。私とエンフィちゃんで一個ずつ持ってる……。そうじゃないと効果が無いんだ」
背中と首の間あたりが、ぞわりと波打った。フィルさんが冗談を言っているようには聞こえなかったからだ。
「効果が、無い……?」
ひとりが二個とも持っていては、効果が無い。裏を返せば、一個ずつ持っていれば、それはもはや決定的な「意味」を持つようになる。
フィルさんの瞳が、まるで雨上がりの夕焼けに照らされているように蒼く光を弾いている。魔力のひとつでも通っていそうな、水晶玉の瞳……。
「それは……いったいどういう効果なんですか……?」
まるで、僕ではない何者かが代行しているかのように、質問が口をついて出た。
「それはね……」
「……それは?」
僕は口の中にたまった唾を飲み込む余裕もなく、じっとフィルさんの口元に視線を合わせ続けた。
「……交通安全」
「へ?」
フィルさんの瞳から、蒼い光が取り除かれた。
「ふたりが一個ずつ持つことで効果発動! これを持っている間、ふたりは乗用車、自転車、電車、新幹線属性に対しての各種防御力がアップし、さらに攻撃を受けたときに国からお金が下りてくる」
「いや、お金が下りるのは御守りの効果ではないと思いますが……」
そして、新幹線に轢かれたら御守りがあっても確実に逝く。
「という訳で、さっさと学園に行くのだ!」
「え」
フィルさんは突として僕の手を取ったかと思うと、腕が引きちぎれそうな勢いで走り始めた。
「痛いです痛いです! というかまた御守り落としますよ!?」
「遅刻するよ遅刻! 私はともかく、マターちゃんが今日まで遅れたらさすがに先生も強行作戦を発動するよ!」
「強行作戦ってなんですか!」
「なんだろう! 適当にそれっぽいことを言ってみただけだったりする!」
ふたりで叫びあいながら、緩やかな傾斜を走破していく。
僕の中にあった気まずさも、もうすっかりと色を消していて、以前の調子が完全に姿を取り戻していた。
昨日の今日で、この心境の変わりっぷりには、僕自身呆れるしかない。
でも、ふたりの関係が元通りになったわけだから、ひとまずは安心だ。
桜並木が、水平方向に高速でスクロールしていく。
その前後に、真逆の心情を持った仮想的な僕がふたり、桜を見上げながら立っていたのだった。




