第19話 荒野へのリスタート
目覚まし時計が鳴り始めた瞬間に、僕は布団から身を起こす。
「おはようございます」
寝ぼけ眼を上品にこすりながら、僕の制服からちょこんと紫の毛並みをなびかせて、アースが出てきた。
「おはよう」
僕は挨拶を返しつつ、軽く背伸びをしてから、すぐさま制服に袖を通した。
「今日は学園へ行かれるのですか?」
「うん。心配かけてごめん。もう大丈夫だ」
「それはなによりですね。マター様には笑顔が一番お似合いですから」
獣という獰猛な言葉の響きとは裏腹に、アースからは上品な物腰を感じられる。それに加えて、おそらく魔法に関しても、僕には想像のつかない円熟の境地に達しているだろう。
口から服を吐き出すのに目をつぶれば、とてもいい人……いや、獣だ。
「それに、これからたくさんの魔法使いを相手にしなくてはなりませんからね」
「そのことなんだけど、まだいまいち信じられないというか、本当に僕なんかが相手になるのかな?」
魔法が使えるなんて言っても、まだ「どうやら僕は魔法を扱えるらしい」とぼんやり捉えてるレベルでしかない。ましてや、どうしてこんな僕を殺そうとする理由があるだろうか。
「前にも言いましたが、異質を排除し、一体感を保って恒久を望むのが彼らの共通思考です。しかし、彼らがマター様の命を狙う理由は正確には分かりかねます」
「気にしても仕方が無いか」
いったいどういう集団なんだろう。宗教的な結びつきでもあるのだろうか。
「マター。早く来ないと遅刻するよ」
階下から姉の声が飛んできた。今日もまた、姉は生徒会の仕事がある。姉がアステリア女子学園に入学した去年の今頃から、朝はずっとこんな調子だった。
アースは僕の制服のポケットに身を隠した。これから彼女はこのような形で学園についていくことになる。女装のほかに、絶対にばらすことのできない秘密がまたもうひとつできてしまった。
「今日も相変わらずかわいいなあ。わが弟は」
僕がテーブルに席をつく頃には、姉は朝食をほとんど終えていた。
「またマイクを仕込んだりしてないよね」
「それはもう懲りた。その代わり……」
「その代わり?」
「今この場で私にもふもふさせなさい」
姉は食パンをコーヒーで口の中に流し込むと、上から目線の言葉を発しながら僕のほっぺたを時価百万円の壷を扱うがごとく、ゆっくりとなぞりながら触ってきた。
「変態的なムーブメントはやめて……」
「あああああああああ、たまらないよこの触り心地……。どうして映像や音は記録に残せる時代なのに、触覚は記録に残せないんだろう。誰か発明してよ誰か……。この触り心地を半永久的に保存できる記録媒体をさ……。ああああ……気持ちいい……。このまま世界の終りまでずっともふもふしていたいよ……」
「変態的な独り言もやめて……」
「そうだ。もし何かあったときの為に、柏手も打っておこう。これでマターのもふもふ萌え萌えエナジーを補給した私に、もう怖いものはないよ」
「これから死ぬ人みたいだからやめてね」
「ま、そろそろ出かけないといけないし。それじゃあいってきます」
一通り堪能したらしい姉は僕からそっと離れると、早口で喋りながらいそいそと持ち物を整理して家を出てしまった。
「あ……」
出かける前に、姉に言うことがあったのに。
昨日の夜、フィルさんからメールが届いた。僕のメールアドレスを彼女に教えたのはカナさん、つまり僕の姉だと、フィルさんは言っていた。
もしフィルさんのメールが無かったら、僕は今も重い気持ちを引きずっていただろう。よって、姉に礼を言っておこうと思ったのだが……。
(最近はずっとこうだな)
姉とは、最近あまりコミュニケーションを取れていない。この家に住んでいるのは、僕と姉のふたりしかいないにも関わらず。
もっとも、姉がもう少し変態行動をひかえめにしてくれれば、僕としても話をする時間的余裕が生まれるというものなのだが……。
時間の空いた人間関係は、その長さだけ間隙が生まれる。このままでは、将来的にいつか、自然な意志疎通が叶わなくなる日が来る可能性もある。一度疎遠になった友人どうしとの会話が、決して長くは続かないように。
少しリアルな想像をしてしまったからか、悪寒が背中を波打たせた。疎遠になりたくはない。せめて家族とは。
……家族。
ふと、姉がこう言っていたのを思い出す。
『ねえ、マター……。私たちって、本当の姉と弟なのかな?』
僕は、姉とは姉弟の関係であると信じて疑わなかった。しかし、少なくとも彼女の方は、それに疑問を抱き始めている。
それに、僕の方にも、心当たりがまったくないわけではない。
僕は、昔の自分のことを良く思い出せないのだ。
もしかしたら、誰だって過去のことは思い出しづらいものなのかもしれない。しかし、僕の場合は、連綿と続く一連の記憶が断片的に抜け落ちているような状態だ。
別の言い方をすれば、その記憶が、もとから無いのではなく失っていると認識できる状態だ。前後の記憶情報から、失った記憶を復元しようと試みることはできるが、残された過去の記憶もハッキリと思い出せるものではないうえ、いくら推測したところで、それは本当の記憶とは限らない。
過去の記憶について、普段はあまり考えないようにしてきた。しかし、このように時々思い出したように過去の記憶を呼び覚まそうとしてしまうことがあった。
(でも、これも同じだな)
僕はおそらく何らかの記憶を失っている。これは僕が想像している以上に重大なことなのだろう。それを僕自身も認識しておくべきだ。
決して放っておいてよい問題ではない。そういう意味で、これは僕が女装を隠して女子学園に通うことと同じなんだ。
時計に目をやると、もう出発の時刻を指していた。