第18話 ただ通じあう日々を待つ
地面の色が思い出せないほどの、更けた夜の中を歩いている。
気が付けば、僕は玄関の前に立っていた。
パウロは黙って手を振って去って行った。
彼の腕の感触を、僕はまだ忘れることができずにいた。
今思い返すと、僕はずいぶんと声を押し殺して泣いていた。他でもないこの僕が、こんなくだらないことで悩みに悩んでいることを、彼にだけは知られたくなかった。だから、声を押し殺して泣いたのだ。
もちろん、その前からとっくにバレていた訳だから、なんの意味もない抵抗だった。
僕は、扉を開けるのをためらう。
太陽がどっぷりと沈んだ、真っ暗な夜。でも、まだまだ就寝の時間には早い。姉もまだ起きているはずだ。
ドアノブに手を伸ばしては引っ込め、引っ込めては手を伸ばす。
なぜ僕はこんなにもためらっているのか。まだ心の底では、僕はそれを「くだらないこと」だと思い込んでしまっているのだろう。わざわざ誰かに言う価値のないような、そんな些末なことだと。声を大にして言うようなものではないと。
しかし、その考え方は間違っている。本来、この空間において、僕が僕であることは許されない。女装して学園に通うことを正当化することはできない。それをすっかり自覚してしまうことができたなら、僕が抱いているこのわだかまりは、一挙に溶け去ってしまうだろう。
そこまでわかっているのだが、それでもその先のエリアまで足を踏み出すことは、まだ今の僕にはできなかった。
その時、携帯が鳴動した。メールが届いたらしい。
パウロからのだと思ったが、違った。僕は、やはり件名を確認することなく、そのメールを開いた。
「マターさんへ。
こんばんは。夜分遅くに失礼いたします。フィルと申します。
この度は、本日の早朝に私がマターさんを傷つける発言をしてしまったことについて、大変申し訳ありませんでした。
私は平生、なんでも思ったことをそのまま口にしてしまったり、なんでもないことでも意味を捻じ曲げて茶化してしまう癖がありました。しかし、私自身、今回の件が起こるまで、そんな癖を自分の素晴らしい個性だと信じて疑いませんでした。
そのような私の驕りが、今回の件を招いてしまったのだと考えます。今回の件もまた、私の茶化し癖が原因で引き起こされた不適切な発言によって起こってしまったものだからです。
この件を持ちまして、私はこの身に染み付いてしまった悪い癖を、少しずつ是正していくことを約束します。そして、二度と同じ過ちを繰り返さないように、今から不断の努力を始めていきたいと考えております。
改めて、今日は本当に申し訳ありませんでした。
最後に、これからも私と友達でいてくださるならば、これ以上の喜びはありません。
……ごめん。謝罪メールとか初めてだからこれで合ってるのかわかんない……。でも、今日は本当にごめん。できればまた明日も一緒に登校したい。
あ、メールアドレスはカナさんから教えてもらいました。最初のメールがこんなので本当に申し訳ない。またマターちゃんとメールできることを祈っています。
あ、そうそう。そういえば初めて会ったときも、なんか失礼なことを言ってしまった気がする。マターちゃんのことを少年って呼んだんだったっけ。そして、その後の謝り方もすこぶる雑だった気がする。本当にごめんなさい……。思い返すと本当に失礼な言動しかしていない気がする。
なんかまとまりのない文面になっちゃったけど。本当に申し訳ありませんでした。できればこれからも一緒にいたい。できるだけ迷惑な言動は慎むことにいたしますので」
「……ふふ」
なんだよ。なんなんだよこのメールは。
「最後に」って書いてあって、その後にすごい文章が続いてるじゃないか。
しかも、丁寧語、いや、敬語の嵐だ。クラスメートに送るメールに、堅苦しい言葉遣いのオンパレードだ。きっとこのメールは、文を打ったのこそフィルさん本人だろうけれども、その後ろからしっかり者のエンフィさんがいろいろと指示を出していたのだろう。そう仮定しても、そんな情景を頭の中に思い描いてみても、そこになんら違和感はなかった。
本人はとても申し訳なさそうにしているけれども。初めてのメールがこんなにも面白いものなら、僕はフィルさんとメル友にならない理由がないじゃないかと。
これで完全に関係を絶ってしまうなんて、それ以上にぞっとしないことはない。
それになんだ。結局、フィルさんも僕と同じだったじゃないか。
自分の考えていることが、主義主張が、まったくたいしたことのないものだと、そう信じて疑わなかったんだ。でも、実際は、今この状況に至っているその背景を作り出してしまっている事実そのもののように、とても重大で深刻な問題だったんだ。
今の僕は、そのことを理解している。だから、フィルさんが一生懸命書いてくれたこのメールを、不必要に大仰なものだと一蹴してしまわずに済んだ。
いつの間にか、僕はメールの新規作成を行っていた。
どう返信するも僕の自由だけれども、やはり僕も敬語を主とした謝罪メールを書くことにした。
ほとんど詰まることもなく書きあげて、なんのためらいもなく返信した。
僕がいよいよ家の中に入ろうとしたその瞬間、また携帯が痙攣した。
「Re」がふたつ続いている件名のメールが届いていた。
僕から返信がもらえたことに対する喜びがつらつらと綴られている一方、明日の体育について僕を心配していた。
僕は前に、体育が嫌いだとフィルさんに言っていたのだった。
ああ、明日は体育があるのか。まいった。何も考えていなかった。
トイレで着替えることにしよう。でも、トイレもまだ行ったことがない。なら初めから着込んでおこうか。それでは暑すぎるが、我慢するしかない。しかし、体操服を制服の下に着るとなると、見た目に違和感が出るかもしれない。それならば……それならば、どうしよう。
僕は明日の体育の対策を考えながら、もう一度フィルさんに返信メールを飛ばした。
もうそろそろ家の中に入らないとまずい。しかし、またメールがどうしようもなく届いてくる。
自分はいろんな魔法使いから命を狙われている身だということも忘れて、僕はまた返信した。そして、またメールが返ってきた。
電池の残量が少なくなっていることを知らせる警告を目にするまで、自分の家の前でひたすらにメールを送り出す作業が続いてしまうのだった。
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「ねえ。いつまで携帯いじってんのさ。せっかくおかず温めたのに、すっかり冷めきってるよ」
「ごめーん、エンフィちゃん。もう一回温めて」
「仕方ないなあ……」
私は、姉がコンビニで買った生姜焼き弁当を、電子レンジで再度温めた。
姉の為に弁護しておくと、彼女は年がら年中うどんばかりを摂取して生きている訳ではない。たまにはこういうものも食べるのだ。
「もしかして、メールのやりとりしてるの? もう夜遅いんだからほどほどにしときなよ」
「だって、止まらないんだもん。それに見てよこのマターちゃんの返事。『僕が大人になったら今この瞬間から体育の存在しない世界線を創り上げるだろう』だってさ。いやはや面白いですな」
「いや、よくわからないけど。まあ、仲直りできてよかったね」
「本当だよ。正直ひやひやしてた」
私は、今日の昼のことを思い出していた。
カナさんに、マターの電話番号を聞きに行ったときのこと。そこには紫色の長髪が一本だけ、誰の目にも触れないように地面に落ちていた。
それ自身に見覚えはなかった。しかし、それに限りなく近いものを、私はすでに目にしている。おそらくは。
そしてもうひとつ、気がかりなことがある。カナさんが言っていた、一連の不思議な体験……。
『この前、私は校内放送で弟を生徒会室に呼びかけたんだけど……。時間になっても、マターは見つからなかった。私はあちこちを探した。何回かエレベーターで上り下りしていると、マターは生徒会室の前にいた。いったいいつ上ってきたのか、よくわからなかった……。だって、まさかマターが隠れていたわけないじゃない? もしそうなら、どうして隠れていたのかって話になるのは当然……。あなたたちは、どうしてこんなことが起こったのかわかる? ……って、今の説明でわかるわけないか。ごめんなさいね。聞かなかったことにしてくれて構わないよ。それじゃあね』
生徒会室に呼びつけた人物が、生徒会室のまわりにいなかった。そして、カナさんはエレベーターを上り下りしていただけなのに、気が付いたときには彼は生徒会室の前にいた。
もちろん、エレベーターを使わなくても、階段を使って生徒会室まで行くことはできる。しかし、15階分の階段を、自分の足だけで上ろうと思うだろうか……。
もちろん、カナさんがすでに言及している通り、マターがわざわざカナさんから隠れておく理由もまた考えにくい。
となると……これは、つまり。
私のなかに、あるひとつの確信めいた予感が芽生えた。
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