第17話 人生を承認するということとは
「次は映画館だ! 映画映画!」
洋服店を出た僕たちは、それからもずっとオゼルの先導に従って、街の中を練り歩いていった。僕はもとの服装に無事戻っていた。
「はいどーぞ。やっぱり映画といえばポップコーンだよね」
オゼルが勧めたのは、ここ最近流行りの恋愛アクション映画……ではなく、監督も出演者も無名ばかりの聞いたこともないタイトルの映画だった。
平日の午後だけあって、席がガラガラだった。オゼルは、映画の上映を心待ちにしている人たちの誰からも遠い席に、居を構えるように座り込んだ。
そして僕たちは映画を見た。
「あー面白かった! 次はあそこでコーヒー飲も、コーヒー!」
そこは僕が行ったことの無いような喫茶店だった。
春ではあるが、適度な空調が効いていた。と思ったら、店内を横切るように、陽光を浴びてとても冷たそうに光る水が、丸太を切ってできた段差を流れていた。
僕たちはそこで、僕とパウロは一杯、オゼルは二杯のコーヒーを飲んだ。
オゼルは四杯ずつミルクを入れて飲んだ。
「あー美味しかった! 次はカラオケかな!」
オゼルは喫茶店から最も近い場所にあるカラオケボックスに立ち寄った。
機種を選ぶのに、十分ほどかけた。
僕とパウロは手ぶらで、オゼルはコーヒーを持って部屋の中に入った。オゼルは僕たちの二倍多く歌を歌った。
「あー楽しかった! 次はね……」
「待て」
数時間黙り倒しだったパウロが、オゼルの肩をひっつかんでその歩みを止めさせる。
「およ? パウロ、どうした?」
「ん」
パウロは「これを見てみろ」という風に、左手首をひねりながらオゼルに向かって差し出した。もちろん、そこには腕時計がはめられている。
「お前には、これが何に見える」
オゼルは、きょとんとした顔でその腕時計を見つめる。今日一日共に行動していて分かったのだが、オゼルの仕草には、時々とても子供っぽい雰囲気が見え隠れする。
「もうすぐその姿を消してしまうような暗いオレンジの夕焼けに当てられた、金属質で冷たい鈍色の腕時計が、パウロの左腕にはめられているように見える」
「おお、そうだな。じゃあ、もうすぐ姿を消してしまう夕焼けという視点を保ったままで、もう一度この腕時計を穴を開けるつもりでよく見てみろ」
「ええと……七時かな?」
オゼルとパウロに出会ってから、もう五時間は経過していた。五時間分の疲労が僕の両足にからみついて、締め上げている。
「お前、ここからだと家遠いだろ。俺の家がある方角とも反対側だし。だから、お前はここで帰れ」
「マターは?」
「ここからだと、こいつの家は俺の帰り道の途中にある」
「……もっと遊ぶつもりだったんだけど」
「服屋と映画館と喫茶店とカラオケボックスのほかに、どこに行くつもりだったんだよ」
「定食屋と漫画喫茶と、ホテルと駅と旅館かな」
完全に、泊まりがけの旅行に繰り出す計画だった。
「明日も学園があるだろ」
「それ」
「じゃあ早く帰れ」
オゼルは、「ちぇ、仕方ないなあ」とぼやきながら、靴を地面にすり合わせながら僕たちと一歩距離を置いた。
「じゃあ、ここでお別れだね。また明日、パウロ。それと……。あ、そうだ、マター」
一度離れたオゼルが、もう一度近づいてくる。僕が無意識のうちに遠すぎる夕焼けに目をやっていたからなのかもしれない。オゼルの姿形が一瞬で大きくなったように感じた。
僕の耳元に、彼のささやきが漏れた。
「ボク、君と出会えてよかったのかもしれない。初めて会ったときから、ボクは君のことを他人とは思えなくて……」
「え?」
他人とは思えない? あんなにアクティブなこの人と、この僕が? 性格も趣味も、個性も、なにもかもが違うように思えるけれども。
なにより、彼と僕とは、まだ出会って一日しか経っていない。互いのことを、まだ全然わかっていない状態だというのに。
社交辞令の常套句ともとれるような、敢えての言葉遣い。そこには、陽の光を浴びずに眠っている、なにかしらの秘密が隠されているのかもしれない。燃え尽きる寸前の夕焼けに照らされた、彼の心の奥底に眠っている秘密のほんの一部が、この耳打ちという形で零れ落ちたにすぎないのだろう。
「それじゃ! また会おうね!」
オゼルは何事もなかったかのように身を翻して、右手を指先まで伸ばしてブンブンと振った。
夕焼けの逆光で、半分も見えない彼の右腕。そこに、疲れの色はまったく見えなかった。
「なあ、マター」
青が、黒と白とを照らし出す夜の帰り道。オゼルと別れてから数分経った後、パウロが隣にいる僕を唐突に呼びかけた。
「なに?」
「お前、何かあった?」
その言葉が発せられることを、僕は心のどこかでは、予言していた。
別に、人に相談するほどのことじゃない。ちょっと、僕の秘密が友達にバレてしまったかもしれない。それで、これまでの短いけれども尊い関係が崩れてしまったかもしれない。ただそれだけのことだ。
そのままお互い何も口にしないまま、数分過ぎた。いつの間にか、パウロが僕の数歩先を行っていた。
「なあ」
パウロは、突然歩みを止めた。僕は、彼の背中に顔をうずめるかたちになってしまった。
彼は、背中を僕に向けたまま、こう言った。
「俺はさ。お前の女の子の姿、嫌いじゃない。とても似合っていると思ってる。きっと、オゼルだってそう思っているだろう。身体の骨格も、見た目の柔らかさも、何処から見ても女の子のようにしか見えない」
「……いきなり、どうしたんだよ?」
きっと、彼は今、とても真面目な顔をしているのだと思う。
「だから、なにも心配しなくていい。ちょっとやそっとじゃバレない。……だから、明日からも安心して学園に通え」
僕は、あまりに疲れすぎていたからか、彼の発言に通常なら見出されるべき違和感を、すぐには見つけることができなかった。
僕は、彼の話の繋げ方をもう一度よく整理してみる。そこで、ようやくその違和感に気づいた。
「……なんで、パウロがそのことを知っているの?」
「本当は言うつもりはなかった。だから、しらばっくれようとも思っていた。メールには『進学先を教えろ』と書いていたが、本当は知っていた」
「……どうして?」
「カナさんから、教えられたんだ。最近、弟が私のせいで思い悩んでいるかもしれない、てな」
カナ……僕の姉が。
「どうして……」
「俺たちがバラバラの学園に通うようになる前から、俺はよくカナさんと会ってたし、別に不思議なことじゃないはずだ」
「でも……」
僕は、頭の中がぐちゃぐちゃにかき乱されていた。ついさっきまで、僕はフィルさんに僕の秘密がバレたことだけを考えていればよかったのに。僕が女子学園に通っていることが、パウロにはもう既にバレていた。
僕は今この瞬間、さらにはその次の瞬間と、その次の次の瞬間、何を最重要視して生きていけばいいのだろう? 身体の中に内在している問題が山積みも山積みで、心の余裕を容赦なく押しつぶしている。
「マター」
パウロは、大きな背中を僕の視界から隠して、僕の方に向いた。そして、そのたくましい両腕を僕の背中に回した。
それは、パウロには初めてされる行為だった。
パウロは、僕の顎を優しくつかんで、そっと持ち上げた。僕とパウロの頭一個分くらいの身長差が、青いシルエットとなって誰も使っていない道路を照らしている。
「俺には何もできないけれど……。でも、お前はひとりじゃない。中学の時からお前を知っている。根拠はないけれど、俺から言えば、お前は決して乗り越えられない困難の中にいるわけじゃない。俺はそう信じている」
……目が開かなくなった。
疲れが限界に達したとばかり考えた。違った。
目よりも先に、頬に違和感が走った。電撃のようだった。
「……なんで、僕は、泣いているんだろう」
別に、たいした問題じゃなかったはずだ。
学園の規則には反している。倫理にも道徳にも反している。僕が女装して学園に通うことは、本来はそういう意味だ。
元来、冗談は通用しない世界だったのだ。しかし、僕はその現実に耐えられなかった。だから、そういった定められた責任も価値観もすべて捨てて、空想のモノだと思い込むことにした。
しかし、それはたった3日でガタがきた。僕の心がそれに耐えられなかった。
フィルさんたちと出会ったことが悪かったわけでもない。僕が、彼女らに秘密がバレないようにする努力が足りなかったわけでもないと、アースは言っていた。僕が女子校に通うことも、仕方のないことだった。
なら、僕はいったい何を「悪」だと見なせばよかったのだろう?
もとは、たいした問題じゃなかったはずなのに。
そうだ。
その考え方そのものが、間違っていたのだ。
僕は男で、本来通うべきところじゃない場所に通っている。それを全人的に受け止めなければならなかった。
そこに、冗談は通用しない。言い訳も通用しない。僕がこれまでの人生で培ってきた常識も、なにもかもが通用しない。僕が女子校に通うことは、それは大変大きな問題だった。しかし、そこには「悪」は存在しなかった。
そのことを、夜の街の中で、ただただ静かに悟った。
僕は、しばらくの間、パウロの胸の中に顔をうずめて、泣いた。
流した涙のぶんだけ、僕は頭が空っぽになった。
容量が増えた脳は、新たなる知見と知恵とを僕に教えてくれる。
……アステリア女子学園に、再び通うときが近づいていた。