第14話 凶兆に触れし少女たち
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「エーンフィーちゃーん。もう疲れた帰りたい」
昼食直前の授業中、私の姉は長い金髪を隣の席の人に当たるくらいまでブンブンと振り回しながら、あまり深刻そうには聞こえない泣き言を口にした。
「はいはい。あと少しだから我慢しましょうね」
「エンフィちゃんが敬語になるときは、心が疲弊していていろいろと面倒くさくなっているときである」
「よくわかってるね。さすがは私のバカ姉だよ」
「うんうん。私はかわいいかわいい妹ちゃんのことならなんでも知っている。エンフィちゃんもこの童貞二足歩行型ゴキブリ教師の展開する英語の授業にはらわたが煮えくり返って、それで心が疲弊しているんだよね」
「いや、心が疲弊している原因はそこじゃないんだけど……」
私の真正面に座る姉は、よく教師に適当なあだ名をつけて遊んでいる。どのくらい適当かと言うと、教師をあだ名で呼んだその数分後に呼び方が変わっているくらいである。
「おい。そこで顔を上下さかさまにしている奴。授業はちゃんと聞いておけ」
教師から姉に注意の声が入る。私の顔を覗き込もうとして、今にも椅子から転げ落ちそうなほど椅子にもたれかかってこちらを見ているので、バレないはずがなかった。
「ちぇ。あの変態英語教師が。女子校趣味変態英語教師……」
罵倒を多分に含んだ姉のつぶやきを教師は無視して、ホワイトボードにつらつらと文字式を連ねていく。
「というか、今は英語じゃなくて数学なんだけど」
「アルファベットばっかじゃないかー。これで数を学ぶってよく言えるよね。詐欺だよ、詐欺。この変態無能詐欺師英語教師が……」
もはやあだ名ではなく、脳に浮かび上がってきた感情をつらつらと垂れ流しにしているだけだった。それがなにより、授業中におけるこのバカ姉がいかに生気を失っているかを物語っている。
ああ、なんかますます心が疲弊してきた。
「あのさ。それより、結局なんでマターは来てないのさ。それも一時間目から」
私は教師にバレないように、上下さかさまの彼女の耳元でささやいた。
「それは……。私がからかったら寝間着姿で外に飛び出しちゃって、あれっきり」
「ちょっと待ってちょっと待って。寝間着姿ってどういうことなの」
「私はマターちゃんを起こしに行ってあげていたのだ」
「私がマターの立場なら、寝ている時にいきなりよその人が自分の家の、それも自分の部屋までやってきたら、心臓が止まるくらいびっくりするだろうね。どうせ後から機会はあるんだから、今は我慢しておけばよかったのに……。しかもその上からかったのか。どういう風にからかったのさ」
私がそう言うと、姉は顔を逆さにしたまま頬を赤らめて、こう言った。
「……言わなきゃダメ? えっと、マターちゃんの股間のあたりをこう、布団越しに手で探ってですね……。『ほら……。もうこんなに大きくなってる……。まったくいやらしい人……』ってセクシー声で言ったら、マターちゃんがいきなり発狂してどこかに行ってしまったというわけで……」
姉の口から真実が語られるにつれて、私はなんというか慙愧に堪えない気持ちになってきて、
「こ……、こんのアホーーーーーーーーーーーーーーーー!!」
と、教室の後ろ側に置かれた水槽の水が一気に気化するくらいの勢いで叫び倒した……としたらどんなによかっただろうか。
「あのさ、自分が言われてどう思うかとか考えたことないの」
「うう……。あいにく、自分にこんなえろいセリフを言われるなんてシチュが想像できなくて……」
「じゃあ、バカ姉の崇拝するあの英語……じゃなくて、数学教師から同じセリフを言われたとしたら、それも同じように股間を触られながら言われたとしたら、どう思うのさ」
「トラックに轢かれてこの世の全てを憎む大魔王に転生して人間を好き放題殺したいくらいの衝動には駆られると思います」
私は、なんというか、ただただ呆れるしかなかった。
「絶対に今日じゅうに謝っておくこと。わかった?」
「うん、わかった……。今回ばかりはちょっと猛省します……」
バカ姉はそう返すと、頭を上げて、まだ板書していないホワイトボードの内容を急いでノートに書き写していった。
最後の授業が終わる前に、私は荷物を整理しておく。放課後が訪れると、すぐに席を立った。
「なになに。エンフィ様はどちらへお行きございますの?」
「ついてきて。マターの携帯の番号を、生徒会長さんに尋ねにいくよ」
「待って待って。エンフィちゃんいつのまに鞄の用意してたの? すぐに行くからちょっと待って」
バカ姉は空っぽの鞄を提げてこちらに向かう。いわゆる置き勉というやつで、姉はだいたいいつもやっている。そのため、普段は私が帰宅の準備を整え終わるまで暇を持て余すことが多く、私に膝かっくんをしたりやたらと性的な甘い言葉を囁いたりと、殺意が芽生えるばかりか一斉に開花するくらいストレスフルなちょっかいをかけてくるのが日課となっていた。
「というかさ。天下の生徒会長様が、どうしてマターちゃんの電話番号を知っているのさ?」
「え、なんでもなにもないでしょ。この学園の生徒会長であるカナさんは、マターのお姉さんだよ」
「初耳みみーのよいよいよい」
「そんなはずはない。前に言ってたでしょうが」
「言ってた?」
「言ってた」
「誰が?」
「ダヴァさんが」
「……Oh」
駄目だこりゃ。
エレベーターを昇って、生徒会室の手前までたどり着く。15階という高さは、別段高いところが苦手という訳ではない私でも、できれば窓の外を見たくないくらいだった。
「電話番号を聞いたら、ちゃんと謝らなきゃ……。どんな文面にしようかな……、いや、電話の方がいいかな……」
姉が、めったに見せない表情を浮かべながら、ぶつぶつと独り言ちていた。その顔は真剣そのもので、さっきまでの姉とはまさに別人であった。言うことがコロコロと変わる人だから、さっきまでおちゃらけていてもコロコロと真剣になるのが、このフィルという人間だった。
普段の素行からは想像できないが、こういうところもある。
(ん……)
私も姉につられて、つい地面を覗き込んでしまったからだろうか。青い幾何学的模様が敷かれた床の上に、紫色の長い毛を見つけた。
拾い上げてみる。それはとても長くてきれいだった。
そして、それは微かに、魔法の匂いがした。
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