第13話 哲学への邂逅
人工的に植えられた桜の花びらが、規則的な配列をもって散り散りになる。
小さな隙間もよく通るような柔らかい風が、前方から、あるいはそれ以外の方向から、僕の身体のその先を狙って我こそはと滑り込んでくる。
(どうしよう……)
僕はそんな街中の中央で、パジャマ姿に裸足で突っ立っていた。
時計も、携帯電話も、もちろん教科書も、何もかもを持っていなかった。
(冷静になれ……)
こんな姿を他人に、ましてや同じアステリア女子学園の生徒に見られてしまうなんてことは、女装姿を見られることの次に屈辱的な仕打ちである。僕は大通りを外れて、人通りの少なそうな脇道をランダムに選び取ってそこに身体を放り投げる。まだ早朝なので、幸いにも周りには僕の無様な姿を見下ろす者はいなかった。
今が何時なのかはわからないが、おそらく今から学園に行っても授業には間に合わない。今日は学園を休まざるを得ないだろう。
(もう、フィルさんには会えないな……)
彼女が僕の正体を、どのくらい多くの人に言いふらすかはわからない。というか、なんとなく、彼女はこのことを誰にも言わないんじゃないかとも思う。口調は適当そのものな彼女だが、性格まで適当とは限らないし。
そのような楽観的な推測はよそにして、とりあえず、今は家に戻るしかない。フィルさんはもう学園に向かっただろうか。もしそうなら、おそらく玄関の鍵は開けっ放しだと思われるので、そこから入ればいい。
(いませんように……いませんように……)
出来る限り人がいない場所・タイミングを狙って、自宅へ小走りで向かう。この場所から家まで、自分でも驚くほどに遠かった。それだけ、無我夢中でフィルさんから逃亡していたということだ。
(どうしてこんなことになったんだ……)
家の扉は閉まっていた。遠目で見ているから、鍵が掛かっているかどうかはわからない。僕が家を飛び出した時に、扉を閉めた覚えはない。フィルさんが閉めたことは明白だが、その本人が果たしてこの家の中に残っているかどうか。
フィルさんに起こされた騒ぎの時にはもう、すぐに支度を始めないと登校に間に合わない時間であった。そのため普通に考えたら、フィルさんは既にエンフィさんと共に学園に向かっているはずであるが……。
『だいたい、私が真面目におべんきょするような御仁であるとそちは思うのかね?』
(こんなこと言っちゃう人だからなあ……)
不安が、気管と食道から一挙に喉元まで押し寄せてくる。
僕は、凶悪犯罪者の潜むアジトの内部へ侵入する新米警察官のごとく、警戒姿勢をとりながらカタツムリよりも遅いペースで玄関の扉をゆっくりと開ける。
土間が視界に入ると同時に、僕は顔だけ伸ばして靴を確認する。僕や姉以外の靴は、そこにはなかった。
フィルさんがこの家に残っていないことが確定したので、僕はどっと安心して、そのまま上がり框に重力に従って尻もちをつき、しばらくそのまま座り込んでしまうのだった。
誰もいない家の中は、朝なお静かそのものだ。
10時を過ぎてから私服に着替え、冷めきった朝食を嫌々とった。
姉はとうに学園に行った。生徒会長という役職柄、朝は早いのだ。
「マター様。いきなり外へ飛び出すものですから、心配いたしました」
あ、誰もいないわけじゃなかった。
昨日の夜に出会った紫の獣、アースが、ぬいぐるみのような格好で部屋に戻ってきた僕に話しかけてくる。あの日僕の制服のポケットに隠れたアースは、自由に身体の大きさを変えることができるらしく、今は初めて会ったときのように猫くらいのサイズになっている。
「いろいろなことがあって……」
「わかっています。マター様は女性の姿になって、女子生徒としてアステリア女子学園に通っている。そんな立派な男性ですよ」
アースは僕のこぼした言葉を拾い集めるように、あたりをゆっくりと歩きまわった。
「バレてしまった……。僕が男だということが……。ねえ、アース。僕はどうしたらいいと思う? フィルさんは、こんな僕のことをどう思ってるかな?」
僕はアースの目線に合わせるために、その場にしゃがみ込む。ガラスでできたアースの瞳に、僕の顔がうっすらと映りこんでいた。その表情が予想以上に悲しそうで、僕は他人事のように笑みを浮かべようとした。それにもかかわらず、瞳に映りこんだ僕の表情に、なにひとつ変化はなかった。
「私は人間ではありませんから。私にはわかりません。でも、もしこれでバレてしまったのだとしたら、もうそれはどうしようもないことですよ。マター様は女性になりきるための努力を惜しまなかった方ですから」
「……どうしてそんなことが言えるの? 昨日会ったばかりなのに」
アースは、僕の右手にその肉球をそっと触れさせた。人間のように温かかった。
「その右手はなんですか? 今のマター様の格好は、男物の私服ですよ?」
「あ……」
さっきしゃがみ込んだ時に、僕はとっさに右手でスカートの裾を押さえる動作をしていたらしい。
「100点満点の作法です、マター様。きっと大丈夫です。ご学友に嫌われるなんてことはありませんよ」
アースは、そう言って僕に微笑んだ。
「ありがとう、アース」
細められたアースの瞳には、僕の顔も潰れて映っていた。だから、その表情は読み取ることが叶わなかった。
不意に、机の上に無造作に置いてあった僕の携帯電話が鳴動した。
「では、私はこのあたりで失礼いたします。良い一日を」
「うん」
アースは四本足で歩きながら、その身を風船のようにしぼませて、自分の背丈の数十倍の跳躍をして制服のポケットの中にすっぽりとその身を収めた。
アースはいったい何者なんだろう。人間でないということは確かだが……。昨日出会ったカケルという男も言っていた覚えがあるが、確かに彼女(?)は実在する他のどの動物とも違いそうだ。
とりあえず、僕は携帯電話を確認する。メールが届いたらしい。心ここにあらずな僕は送信元を確認せずにそのメールを開いた。どうせ通販サイトか何かからだと思っていたのだが……。
『マターへ パウロより
俺のところは今日午前までしか授業ないけど、そっちはどうだ。もし俺と同じなら、遊びましょう。
PS いい加減進学先を教えろ』
(これは……)
簡潔な文面のそれは、中学時代の友達であるパウロからのメールだった。
(あいつ……。懐かしいな……)
パウロとは同じ中学に通っていた。彼はその後僕と違う学園に通うことになった。男子校だということは知っているが。
彼とはよく一緒に遊んだ。よく家にもあげたから、姉もパウロのことはよく知っている。僕より背が高くて、端正な目鼻立ちで、なにより男らしかったから、当時男っぽくなりたくて背伸びしていた僕にとっては同時に憧れの存在でもあった。
(……どうしよう)
確かに、学園をサボった僕は、午後からの時間はまるまる空いている。しかし、とうてい遊ぶ気にはなれなかった。なにせ、これからどう身を振ればいいのか、皆目見当がついていないからだ。
しかし……。
『きっと大丈夫です。ご学友に嫌われるなんてことはありませんよ』
アースの言葉を励ましの意味だととらえて、僕はパウロに返事を出す。
送信ボタンを押してしまうと、僕の中にわだかまった糸くずの塊のような不安はドロドロに溶けて、不明瞭な影にすっかりその形を変えてしまった。
今日の午後、これからやることが決まった。




