第12話 動乱と反乱のシンメトリー
春の朝日が意識ひとつひとつを縫合させていく感覚と共に、目覚まし時計の音が鳴る。
僕は目を閉じたまま手をあちらこちらに伸ばして、そいつの居場所を探す。
(あれ……どこにいったんだ……?)
目覚ましの音が徐々に大きくなるが、僕は依然目を開かずに、両の手の動きだけで音の発生源を突き止めようと躍起になる。
なにせ眠気に耐えられない。昨日の夜はいろいろ考え事をしていて、よく眠ったという実感は湧かなかった。
僕の部屋の内部は、ベッドやタンス、本棚などのほかにはたいしたものは置いていないが、ひとつ目をひく物として、人間の背丈ほどの大きさの鏡がある。学園に通う前に、僕はこの鏡を使って念入りに容姿をチェックするのである。それを想像するだけでめまいがしそうだった。
ああ、なんだか起きる気が失せた。あと3年間もこのような生活が待っていると思うと……。しかし、なんにしてもこの癇癪を起こした赤子のような目覚ましを止めなければならない。
ふと、エンフィさんとフィルさんの顔が頭に浮かんだ。実際、昨夜は彼女たちよりもよっぽどインパクトのある相手と出会ったばかりだというのだが、無意識的に最初に浮かんだ顔はまぎれもなく彼女らだった。
仕方ない、と心の中でつぶやいた。
今日も学園に行くしかない。僕に残された選択肢は、それだけだ。
無茶苦茶なスタートとはいえ、学園生活そのものには憧れも人一倍持っている。それは、かつての僕が持ち合わせることができなかった感情であるような気がした。
(ん? なんだ、この二の腕のような感触の物体は……)
冷たい金属質の物体とは、その性質を全く違えていた。
それはまるで人間のようだと思った。
「ん~~。もう朝かあ……」
声が聞こえる。僕のではない、他の誰かのものだった。
催促の音は際限を知らず、けたたましく鳴り響いていく。しかし、僕が目覚ましの位置を探り当てる前に、その音はぴったりと消えた。
「マターちゃんちの目覚ましは音がでかいね。身内にさんざ寝坊助だと言われ続けている私でも、これは起きざるを得ないな。……そのはずなんだけど、こっちはまだ起きないかなあ。そろそろ家を出ないとまずいと思うんだけど」
誰が止めてくれたのかは分からないが、ストレスフルな騒音が消滅した安堵が次々と眠気を招来し、瞼がいっそうその重みを増した。起きなければならない。しかし、何かがそれを邪魔しているのだ。
ああ、気持ちのいい朝だ……。
ふかふか布団にぽかぽか陽気。僕の身体にも、なにかやわらかい物体が乗っかっているように思える。
どこか、姉のものとはちがう女の子の匂いもした。もうすでに出会ったことのある匂いのような気がした。頭の中で、きれいな長い金色の髪が春風の中にたなびいていた。
「おーい。起きんさい」
頭部に衝撃が走る。画一的な無機物による衝撃とは異なる、人間らしい手加減の感じられるものだった。聞いたことのあるような声も、徐々に薄れゆく意識の中で感じ取った。
「いい加減起きろー」
脇腹のあたりが撫でられる感覚。それと同時に、身体の反対側がのけぞるような衝動が来た。ああ気持ちいい。
「……起きないと殺すよ?」
もう一度、頭部に衝撃が走る。今度は人間らしい手加減の感じられるようなものとは異なる、強固な意志がそのままパワーに変換されたように、岩礁と見紛うほどの撃力が僕の頭を叩き割った。
「いた!?」
完全に無防備だった僕にとって、その強力無比な一撃は一瞬で意識を覚醒させるに足るものだった。というか、今はその姿を見せていないお月様の彼方まで意識がぶっ飛びそうだった。
「フィルさん……ですか?」
「はいはい私ですよ。あまりに気持ちよく寝ているものだから、つい加虐心に火がついてしまったよ」
人が寝ているところに全力パンチを食らわすあたり、結構ヤバい人なのか?
一度冷静になって、あたりを見回してみる。
いつもと変わらない僕の部屋だ。僕はベッドに横たわっている。目覚ましは枕元にはなく、音も消え失せていてとても穏やかな静寂があたりに分布している。平和な朝を切り取ったこの環境には、しかしひとつだけイレギュラーなものが混ざっていた。……僕の身体の上に。
「な、なんでフィルさんが僕の部屋の中にいるんですか!?」
「その反応を待ってました。なんでも何も、さっきからこの部屋にいましたが?」
フィルさんは呆れたような苦笑するような表情で、僕の顔を覗き込みながら言った。
顔が近い。紛れもなく、僕の身体の上に女の子が座り込んでいる。想像以上に重みを感じない。髪の匂いと歯磨き粉の香りの奇跡的なブレンドが僕の意識をぐらぐらと揺さぶる。
僕の人生史上最大の、心ときめくドキドキイベントだった。
……なんて邪な感情が真っ先に分泌されているのだから、今の僕はまだ女子学園を攻略する男性プレイヤーという枠組みの中では素人同然のようだった。
(まずい……。僕の性別がバレる)
なぜフィルさんが僕の部屋にいるのかは疑問しかないが、ともかく一刻も早くこの状況をなんとかしないと、僕の性別がバレて夜の街に左遷させられるのも時間の問題だ。
「そ、その、目覚ましを止めてくださったことはありがとうございます。でも、どいてください。このままでは起き上がれません」
「ええ~。私はもう少しマターちゃんを観察していたいなあ。苦渋に顔をゆがめるその表情をもっと見ていたいよ。それにこの状況、マターちゃんを私が押し倒しているみたいで、なんともいえない恍惚が卓越してきてもう……もう、どうしようもないなあ!」
「いやいやいやいやいやいや。どうしようもないこと全くないじゃないですか……」
とても鼻息が荒くなっていらっしゃる。なにが彼女をそうさせているのか、僕には与り知らぬことだった。
それにしても、姉といいこの人といい、僕の周りにはなぜこうも変態が多いのか。ああそうか、女装して女子校に通う僕が一番の変態か。ああ、変態の周りに変態が羽虫のように群がるのが浮世の真実であるのか。よし、死のう。
なんて考えている場合ではない。布団越しとはいえ、身体が密着しているこの状態は、かつてない危機的状況だ。嘘でもなんでもいいから、フィルさんにこの部屋から出てもらう言葉を発しないといけない。
「あの、もうすぐ学園に行かないといけない時間ですよね? 僕は着替えに時間がかかるので、フィルさんは先に行っていてください」
「だが断る。だいたい、私が真面目におべんきょするような御仁であるとそちは思うのかね?」
いちいち大層な言葉遣いでしょーもないことを喋るのはやめていただきたい。
「マターちゃん。今日はこのままサボってどこか遊びに行きませんか? 私いい店知ってますよ。なにせ、このあたりのうどん屋さんならすべての住所を諳んじていますので」
うどん屋かよ。
行きません、とつい言おうとしたが。
「わかりましたよ。どちらにしても着替えなきゃいけないのには、変わりありませんから。いったんこの部屋から出てください」
こう切り返せば、もう何も言い返せないはずだ……。
「……怪しい。怪しい臭いが硫化水素のようにあたりを漂っている」
急に疑り深い性格になった。フィルさんは僕に馬乗りしながら、いつぞやの探偵ポーズをとって自分自身の思考の海に沈んでいく。
「私をさっさとこの部屋から追い出そうとしているように見える。私はひとつの仮説を立ててみる。……ずばり、私を部屋から追い出そうとする理由を裏付けるものとして、マターちゃんが私に欲情しているということが挙げられる」
「へ?」
平坦な口調で何を言っていたのかいまいち聞いてなかったが、フィルさんはいきなり右手で僕のアレがアレでああなっているああいうアレの付近をまさぐった。
「ふぇ!? ふぁ、はは!?」
な、なにが起こっている? 僕のアレがフィルさんの手によって……いや、これ以上はいけない。
バレる。これはバレる。頭が真っ白になって何も考えられない。突拍子もいいところなフィルさんの行動がある種恐ろしすぎて、さしずめ今の僕は蛇に睨まれた蛙だ。
フィルさんは、もはやなんと形容していいか分からないような性的な表情で、僕の顔をゼロ距離で見つめながらこう言った。
「ほら……。もうこんなに大きくなってる……。まったくいやらしい人……」
「ひいいいやああああああああああ!?」
僕は咆哮をあげた。フィルさんを突き飛ばして寝間着のまま部屋の外に飛び出した。
(ば、バレた! 絶対にバレた! これでバレていないはずがない! よりにもよってフィルさんに……!)
僕は階段を一気に飛び降りる。足首に激痛が走る……ほどの心の余裕すらなかった。
フィルさんが呑気に僕を追いかけながら、おっかなびっくり、こうおっしゃった。
「えっと……。ごめん。今のは冗談のつもりだったんだけど……」
「ぜっっっっったいに冗談じゃありませんよね!? 今の! 女の子に対して言うセリフじゃありませんよね!? なんとか言ってくださいませんかね!?」
「いや、だから冗談だと……」
「もーいーです! 僕は今日は休ませていただきます! うわあああああああああ!」
リビングを通り過ぎて、僕は靴も靴下も履かずに、一目散に家から逃げ出した。
僕の思い描いていた夢の学園生活は、3日目にして崩壊した。




