第10話 超常たる演者たち
この男が、どうしてそのことを知っているのか。僕がいつ、自分の情報を外部に漏らしてしまったのか。ひとつの疑問が上界なく膨れ上がり、闇の中の僕を照らし出し、筒抜けにする。
カマをかけているだけかもしれない。しかし、この威圧感のなかで、もうごまかしは通用しないと悟った。
「……あなたは、いったい何者なんです? この学園の関係者ですか?」
長くも短くもない静寂の奥にいる男に対して、僕は震える言葉を投げ掛けた。
言葉をひとつ発するだけのことが、こんなにも恐ろしいだなんて。
「……さあ。答える必要もないでしょう」
彼は口をつぐむ。当然なのかもしれない。
僕が今知りたいこと。一瞬で過ぎ去った昼、探しても見つからない姉。僕が生徒会室に呼び出された理由。そして、この男が僕の秘密を知っている理由。おそらく、彼はすべてを知っているはずだ。
「私の目的はただひとつ。それはあなたを断罪することです。心当たりがあるでしょう。自分がなぜ断罪されるか、その理由について」
男はそう言うと、ローブの内側に隠されている棒状の物体――ステッキとでもいうべき物を大道芸人のごとく振り回して、僕の身体に張りついた服ぴったりにその矛先を向けた。
今僕が見ている映像は、本当に現実のものなのだろうか。ついさっきまで、僕は友達と一緒に授業を受けたり、ご飯を食べたり、平和な時間を回していたはずだ。
僕は、自分の命そのものに迫ったステッキを一瞥して、真正面にいる正体不明の存在に目線を構える。断続的に風に揺れるその黒いローブが、彼の得体の知れなさを僕に教えてくれる。
喜びの感情を一切表していない微笑が、そこにはあった。善人の顔でも、詐欺師の顔でも、快楽犯罪者の顔でもなかった。
刃物のようには見えないが、おそらくこのステッキの何らかの作用によって僕は死ぬのだろう。僕を生かすも拷問するも、あるいは殺すも、文字通り彼の胸先三寸であるようだった。
そして僕は、それからなにひとつ言葉を発せなくなっていた。
「では……」
僕の胸先に突き付けられたステッキが、僕の身体を埋めるように力を作用させる。それが、不可思議な違和感の信号となって注射器のように僕の脳を叩きつける。
あまりにも唐突な出会いに、あまりにも唐突な死の宣告。その間隙に挟まれたコミュニケーションは、たった数分程度の、あまりにも短すぎるものだった。
だから、周囲の闇夜が反応したのだろうか。
「待ちなさい」
僕でも、彼でもない第三の声が、周囲全方向から一様に降り注がれた。
マント男もそれに反応する。
「あなたはこの場にいるべきではありません、カケル。すぐに立ち去りなさい」
女性の声だった。だから驚愕を抑えきれなかった。
声の持ち主は、美しい紫の毛並みを纏わせた、獣だった。
暗闇の中でも、その美しさをそれとなく主張していた。成人の膝下くらいのサイズの獣だった。
「おやおや、なんですかなこの獣は? 明らかに実在する動物じゃない……。その美しく整った魅惑的な声に、毛先……」
「この少女の前から立ち去りなさい。さもなくば、あなたの正体を学園じゅうに公開しますよ。明日からの自分の生活を守るために、手を引きなさい」
獣は突然跳躍して、僕の右腕にひっつき肩まで上り、マント男を睨みつけた。間近で見たその瞳は、ガラスでできているかのように美しかった。
「これは穏やかではありませんね。いいでしょう。あなたの望み通り、私はこの場から退席しましょう。それでは、また次の機会に会いましょう……。マターさん」
最後に僕の名前を口にしたその男は、マントを翻す動作と共にその姿を闇の空間に溶かして分散させ、肉眼で視認できないレベルまでその濃度を薄くした。
威圧感も、それと同時に霧散した。僕の心の中にかかった霧が、徐々に晴れていくのを感じた。
安心感が身体の緊張感と体力とを結合させ、僕は静かに足をくずしてその場に座り込んだ。
「大丈夫でしたか、マター様」
目の前に移動した獣が、僕を呼びかける。
「あの男に、何かされていませんか?」
「ええと、はい」
「それは幸いです。見たところ、マター様の身体には、傷ひとつついていないようです。安心しました」
ガラスの瞳が、安堵の色を帯びた気がした。
「ところで、マター様はどうして生徒会室の前にいらっしゃったんですか?」
「ええと……僕の姉に呼び出されたんです。放送で。でも、来てみたら誰もいなくて、生徒会室から廊下にもう一度出た途端、あたりがこのように真っ暗になっていて……」
「あの男が迫ってきたわけですね」
獣は瞳を閉じて、考えるしぐさをした。
「あの。あの男は何者なんですか?」
正直、この獣の方も何者なのか非常に気になるが、とりあえずさっきのマント男について尋ねることにした。あの男を言葉だけで退けられたのだ。なにか知っているに違いない。
この獣は、あの男を「カケル」と呼んでいた。
「マター様はこの学園の新入生ですので、知らないのも無理はないでしょうが……。彼は、この学園の教師ですよ」
「え?」
「正真正銘、この学園の関係者です。宝石があしらわれたあのマントは、彼の愛用している魔法着で、公の場で着ることはありません」
魔法着という言葉を、不思議と呑み込めている自分がいた。
「じゃあ、いきなり周囲が暗くなったのは、彼の、ええと……」
「ええ。彼の魔法です」
魔法……。
ある意味、目の前の獣が魔法の産物のようであるが。
「今、この闇を晴らしてあげます……が、その前にマター様にお願いしたいことがひとつあります。あ、そういえば、まだ名乗っていませんでした。私の名前はアースといいます。どうぞよろしく。あと、マター様は私に敬語を使う必要はありませんよ。私はマター様のしもべですから」
「は、はあ……」
もうなにがなにやら。でも、味方ができるのはありがたいことだろう。
「で、願いってなに?」
「これです」
アースと名乗る獣が、自分の口を何倍にも膨らませながらあんぐりと開けて、その中から一着の衣服を取り出した。
(汚っ!)
見たところ唾液はついてないようであるが、まさかこれを着ろとは言わないよね?
「これは魔法の服です。この世界には、あの男……カケルのような魔法の力をつけている者が多数います。そして、おそらくこれからもマター様のお命をたびたび狙っていくでしょう。それに対抗するために、まずはこの魔法の服を着てもらいます」
「却下します」
「認めません」
待ち時間ゼロの僕のレスポンスは、硬直時間ゼロのアースの言葉によって遮られた。
「ち、ちょっと待って。僕の命を狙ってるってどういうこと? あの男以外にもいるってこと? 僕なにかした? それとも、女装と命は等価交換だとでも言うの?」
うっかり僕が女装している男だとばらしてしまったが……。まあ、おそらくさっきの僕とカケルとの会話を聞いて既に知っているだろうから、いいか。
カケルは教師だから、性別を偽って女子学園に入学した僕をひとしれず排除しようとした。これだけでも僕を殺す理由としてはかなり怪しいところだが、それに加えて他の人物まで僕を狙っていると言うのだ、この獣は。
「それが、詳しいことはあまりよく分からないのです。しかし、奴らの思考はある程度共通しています。異質を排除し、それにより一体感を保って恒久を望みます。おそらく束になってマター様を襲ってくるでしょう」
笑えない冗談、と一笑に付そうとする僕の心理の裏側には、このことをもはや笑える真実だと認めている心理が折り重なっていた。
「ご安心ください。対抗する戦力を、マター様が身につければいいのです。この魔法の服が、それを可能にします」
アースが服を僕の方に突き付けてくる。さっさと着ろという合図だろう。
しかたがないので、僕は制服の上着を脱いで、その魔法服を身につける。始終その臭いを入念に嗅いだ。予想とは裏腹にうっすらとしたマーベラスな花の匂いだったが、逆に違和感がすごかった。
魔法服は、ローブだった。アースの毛並みのような紫色であることを除けば、あの男が着ている物と大差ないようだった。男物の服が着られて満悦至極だった。
「これを着れば、魔法が使えるようになるでしょう」
アースは言った。
魔法を使う。この僕が。
目的も実態も、なにもかもが不明瞭であるけれども、その言葉の響きは少しだけ魅惑的にも思えた。
いったい自分は何者なのか。裏を返せば、自分を規定する世界の姿とはなにか。魔法という非現実的なものを手にすることによって、そんな根源的な問いの正答に行きつけるのかもしれない。
ひとりの人間として、僕は少し好奇心を持ち始めていた。