無口な上司とバナナ 3
デスクの上のバナナ。
一体、誰が? といっても、この場で考えられるのは、ただ一人。
冷静沈着で、無口な真藤光博課長。
問題なのはその理由なんだけれど。
しかし、私にはひとつ思い当ることがあった。
先日引き受けた仕事が思いの外、手間取ってしまい真藤課長にフォローをしてもらったのだ。あんなに迷惑を掛けてしまったのは、新人の頃以来だったかもしれない。
そう、入社して3ヶ月の新人研修期で私を指導してくれたのは、まだ課長になる前の真藤課長だった。当時は私も真藤課長の事が怖くてびくびくしていたけれど、思い切って質問すれば分かるまで丁寧に教えてくれたし、仕事が遅かったり、失敗した時は、叱るよりも問題点と反省を次に活かすように指導してくれた。
何人かの同期からには「怖そうな先輩で、鈴木も大変だな」とか「鈴木には悪いけれど、自分の指導が真藤さんじゃなくて良かった」とか、色々心配された。
確かに、厳しかったけれど、その時すでに真藤課長が怖いだけの人ではない事を知っていた私は、課長に教わる事が出来て良かったと心の底から思っていた。その後、制作1課に配属されてからは、さらに感謝することになる。ちなみに2課に異動するまでの間、真藤課長とのあまり接点はなくなっていた。
そんなこんなで、この前フォローしてもらったお礼も兼ねてコーヒーを差し入れてみた。真藤課長の好みなんて分からないから、近くのコンビニで買ったやつだけど。考えてみれば、課内での買い出しや、他の社員とのちょっとしたお菓子のやりとりはあっても、真藤課長個人にこうした、差し入れなんて初めてだった。
「真藤課長、先日はフォローしていただいて、ありがとうございました」
「……」
「これ、お礼といっては何ですが、どうぞ」
「……」
私がそう言うと、何やらとても驚いた様子の真藤課長。
返事がないのはいつもの事だけど、その珍しい表情を前に、やっぱり唐突すぎたかなと、変な緊張が走った。が、一瞬の間のあと、眼鏡をクイッと押し上げ、無言で小さく会釈をすると、差し出したコーヒーを受け取ってくれた。
そのまま口にしていたので、ひとまず安心したけれど、慣れない事はしてはいけないと改めて思った。
そうだ、真藤課長には物ではなく仕事でお礼を返せば良いのだと、そんな風にひとり勝手に結論をだして、この件は私の中で終わった。
はずだった。
そもそもあれは、お礼のつもりで渡したので普通はお返しなんて、必要ないのだけれど、いくら考えても、デスクの上のバナナの理由なんて他に思い付かない。バナナ1本に、考え過ぎだと笑われるかもしれないけれど、いや、それくらい予想外の出来事だったのだ。私にとっては。
「あの、これは、もしかして、真藤課長ですか? えっと、先日のコーヒーのお返し……とかですか?」
「……」
おそるおそる尋ねると、無言で眼鏡をクイッ。
たぶんだけど、YESと言っているんだと思う。
「あの、あれは先日フォローしていただいたお礼のつもりで、お返しなんて……余計な気を遣わせてしまったなら、すみません」
全く想像していなかったお返しに、ちょっと申し訳なく思ってそう謝ると、真藤課長が戸惑ったような表情に浮かべ、眼鏡をクイッと押し上げながら口を開いた。
「……バナナは、嫌いでしたか?」
「!」
無口な真藤課長からの、その言葉に私は心の底から驚いた。
大袈裟だと思われるかもしれないが、この3年間、仕事以外で話し掛けられた事は、ほとんど無かった、はず。
(いや、ちょっと待って……)
何かひとつくらいあるだろうと、新人研修の頃も含めて過去を振り返って見たけれど、咄嗟に仕事関連以外の会話の記憶が出て来ない。
普通に挨拶はちゃんとしてるし、課長も普通に返してくれる。そりゃ、天気の話とかくらいはしたこともあるけれど、いつも私から話し掛けて、真藤課長は大抵、眼鏡クイッで終了。雑談らしい雑談はなかった。
とにかく、この状況に何か言わなければと慌てた。
「いえ、バナナは栄養があって、残業にぴったり……あわわ、え〜とそうじゃなくて、私、バナナ好きです。ありがとうございます。遠慮なくいただきます!」
まくし立てたような言葉だったけれど、私のその返事にホッとしたようにクイッ。ただ、そのホッとしたように見えたというのも、全部私の想像なのだけれど。
正直、バナナといえ、こんな遅い時間に食べるのは、いささか気が引けるお年頃。……都合の良い時だけ、乙女ぶってごめんなさい。
しかし、せっかく貰ったのだ、たぶんこれって、今ここで食べないとマズイよね。
とりあえず、目の前のバナナを手に取ってみる。
(おおっ、いつもスーパーで買っているのとは何だか違う)
ちょっと高級そうなバナナに、不覚にもそんな事を思った。でも、やっぱりこの静寂のなか上司の目の前で、一人でバナナを食べるというのもなかなか恥ずかしくて、無駄な時間稼ぎをしてしまう。
私は、見たまま、感じたままに、ペラペラとバナナの感想を述べ始めた。
「うわ〜、すごく立派ですね」
クイッ。
「とっても長いし、太いですね」
クイッ。
「大っきいから、全部食べるのは、大変かもですね」
クイッ。
「あ、以前キレイな剥き方をネットで見ました」
クイッ。
「ほら、こうやるとキレイに剥けたでしょ」
クイッ。クイッ。
私のくだらない感想にひとつひとつに、律儀にも返事代わりに眼鏡を押し上げる真藤課長。そして、いよいよ感想も尽き、あまり気乗りはしないが、覚悟を決め、皮を剥いた淡黄色のバナナを一口頬張った。
ほっぺが落ちそうな美味しさに、思わずほっぺを押さえる。
「美味しい!」
「っ!」
敬語も忘れ、ほっぺを押さえたまま、真藤課長の方を向きそう言うと、さっきまで眼鏡を押し上げていた手がピタリと止った。
しかし、私はそれに気づかず、ただバナナの美味しさに感動しながら、残りを食べる事に夢中だった。そんな私を一時止ったものの、それまで以上にせわしなく眼鏡をクイ、クイと押し上げながら、熱心に見ていた真藤課長の様子にも、もちろん全く気づかなかった。
本当に、今まで食べてきた中で一番、美味しいバナナだった。
そして、この時は全く何も考えてなかったが、私はその三時間後、寝る前にこの台詞を冷静に思い出して、変な想像を働かせてしまい、深い後悔と羞恥心に震える事になる。そして、そんな風に考えてしまった事にさらに落ち込んだ。
ただ、次の日も仕事だ。いつまでも落ち込んでいる場合ではない。バナナごときでうろたえているのは私だけだと思うし、相手は真藤課長だ。うん……大丈夫、なんの問題もない。そうだ、そうだと言い聞かせ、目が覚めた時にはすっかり元通りで、この奇妙な出来事は終わった。
はずだった。