無口な上司とドライブ
制作2課の前で、ゴクリと息を呑む。
あれから顔を出さないようにしていたけれど、お昼休憩の時に詩織ちゃんから時折制作2課の様子は聞いていた、どうやらピークを何とか乗り越え、数日前からやっと定時で帰れるようになったらしい。
けれど、今日も定時を過ぎてなお制作2課の明りは着いていた。シンとしたなかキーボードの打つ音だけ聞こえている。
私も出版部の仕事にも慣れ、予定は順調にこなしていた。今日も手元の仕事が終わったので、つい様子を見に来てしまった。と言いつつも、それはただの口実で本当は……。
とにかく、いつまでもここで突っ立っているわけにも行かない。ひとつ深呼吸をして一歩踏み出した。
「真藤課長。お疲れ様です」
「鈴木さん? どうして……、やっぱり何かあったのでは」
「いいえ、違うんです。あの、考えてみれば、今まで真藤課長から差し入れを貰ってばかりでしたので、お返しと言っては何ですが、紅茶を……。本当は自分で入れたかったのですが、苦手なので美味しく入れらるか自信がなくて」
そう言って、買ってきた紅茶を差し出した。
「……ありがとうございます。覚えていてくれたのですね。嬉しいです、すごく」
コンビニで買ってきた普通のミルクティーだったけど、真藤課長はそれでも喜んでくれた。けれど、しばらくこういうやりとりがなかったので、その後が続かない。しかも、今は私のデスクは資料や原稿の置き場に使われており、無いに等しい。身の置き所がないというか、いつまでも課長の前に立っているわけにもいかない。
「あの、何かお手伝いしましょうか?」
織田君に言われて控えていたけれど、間が持たなくてついそんなことを口にしてしまった。
「いえ、それはいけません。明日も、出版部の仕事があるでしょう」
するとすかさず真藤課長に断られる。
「それなら、大丈夫です。自分の仕事はちゃんとやりますから」
「いいえ。ダメです」
せっかくの機会このまま立ち去るのも心残りが多すぎる。なので、なけなしの勇気を振り絞ってもう一度言ってみたけれど、きっぱりと断られて、思わずシュンとしてしまった。
「……」
「……」
「ですが、あと30分待っていただけますか?」
「え?」
「帰りは、僕に送らせてください」
「……はい。お言葉に甘えます」
◆◇◆
「少し、ドライブに付き合っていただけませんか」
ぴったり30分後に仕事を片付けてから、送ってもらうために真藤課長の車に乗ったけれど、進行方向が違うような気がして真藤課長の方を見ると、そんな言葉が帰ってきた。
「私は大丈夫ですが、運転疲れませんか?」
「いえ、意外と運転は気分転換になるので、明日も仕事ですし少しだけですが」
「はい。あの……とても嬉しいです」
「……」
「……」
最初は少しぎこちない雰囲気だったけれど、久し振りの二人きりに時間に妙な懐かしさを覚え、しだいに心が落ち着いてきたところで、真藤課長から声を掛けられた。
「出版部の仕事はどうですか」
「とても新鮮で、楽しくて、でも自分が勉強不足なのを痛感しています」
「鈴木さんは、とても熱心だと藤井部長が褒めていましたよ」
「そんな……、ついていくのに精一杯です」
「もし……、もしこのまま出版部に希望があれば、言ってください。正式に配属出来るよう、可能な限り尽力しますので」
「よく考えてみます」
そうは言ったけれど、もう答えは決まっていた。とりあえず、それを告げるのは出版部の仕事をちゃんと終わらせてからだ。
「……立花さんの事を任せっきりにしてしまって、すみません。言い訳にもなりませんが、会議や出張などが重なってしまい……あんな事態になるまで、何も出来ず……」
「いえ、私の方こそ、なかなかうまく指導できなくて……ご迷惑おかけしました」
「……」
「……」
立花さんの話題に少し話が途切れてしまった。
けれど、しばらくして私のマンションまでもう少しという所で、おもむろに車を道の端に止めてから、真藤課長が再び口を開いた。
「……覚えてくれていたんですね」
「え?」
「鈴木さんが、立花さんに言ったことです。『良い意味で「普通」を』昔、僕があなたに教えた事と同じでした」
「真藤課長に教わった事を、私なりに伝えようとしたのですが……やっぱり課長みたいに上手くいかなかったです」
「いいえ、そんなことありません。常に声を掛けてあげ、上手にフォローもして、僕があなたに指導してた時よりも、ずっとしっかりしていました」
「新人の時は、すごくお世話になりました。今こうやって仕事が出来るのも真藤課長のおかげです。それなのに、私は……」
「……僕は、喋るのが特に苦手で、誰かに教える事が不安でした。そのうえ愛想も良くないですし、少し怖がられているのも何となく分かっていました。実際、僕も鈴木さんを指導するまで、全く上手くいかなくて失敗ばかりでした。けれどそんな僕に、あなたはとても素直に、分らない所は変に知ったかぶりをせず、臆せず何度も質問をしに来てくれました。そんなあなたに、僕も少しでも分かりやすく説明しようと、努力することが出来ました。その経験は今も活かされています」
「真藤課長……」
真藤課長の言葉に、息を呑む。そんな風に思っていてくれていたなんて、考えてもいなかった。
私、やっぱり真藤課長が好きだ。
この人を好きになって良かった。
「……」
「……」
私は自分の気持ちを再確認させられて、何も言えなくなってしまった。課長もそれから何も喋らず、再び車を走らせマンションについてしまった。
「今日は、付き合ってくれてありがとうございました」
「いえ、こちらこそありがとうございます」
「……」
「……」
ほんの少し離れがたく思ってしまった。
「あの……おやすみなさい」
「おやすみなさい」
けれど、結局肝心な事は口に出せないままそう言って車を降りると、今度は私がマンションに入るまで、真藤課長が見送ってくれた。