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無口な上司とたい焼き 5


「ねぇ〜、聞いてよ」


 不機嫌な声が響いてきたので、思わず足を止めてしまった。誰か、なんて考えなくてもすぐに分かった。運動不足解消に階段にしたけれど、タイミングが悪かったみたいだ。


「もう、やっとムカつく先輩がいなくなったと思ったら、次は上司から仕事押し付けられて〜」


 立花さんの指導から外れてから、1週間が経とうとしていた。私から真藤課長へ指導がバトンタッチされた時は、目に見えてはしゃいでいたが、最近は大人しくなっている。

 さすが課長というか、最初は無理そうに思える量でも、やってみれば出来てしまった、という絶妙なさじ加減の仕事内容と量を回していたので、さすがの立花さんも、不満を言おうにも言いづらい感じだった。

 それに「先輩」という立場の私とは違って今度の相手は「上司」だ。そうそう何か言う事も出来ないのだろう、フラストレーションは溜まっていそうだとは思っていたが……。


「そう、そうなの。今度は男の人だから、ちょっと甘えたりしたら仕事減らしてくれるかなと思ったけど……全然駄目で。仕事以外じゃ喋んないし、すっごいつまんないヤツなの。てか、あの人女性に興味なかったりして。だってさぁ……。え? やだ〜、まさか! でも、本当だったら気持ち悪い〜!」


 友達とでも話しているのか。愚痴なら誰にだってあるし、それを言うのも別にかまわない。正直、今は関わりたくないし、気づかれないようにその場を離れようとした。けれど、あんまりな物言いに我慢できなかった。


「今度は真藤課長の悪口ですか?」


 電話が終わったタイミングでそう声を掛けると、一瞬驚いたように振り返った。けれど、相手が私だと分かるととたんに、ニヤニヤしながら口を開く。


「やだ、立ち聞きですか〜。趣味悪いですよ」

「悪口も、趣味が良いとは思えないけど」

「……」

「だって、私まだ入ったばかりなのに、課長からの仕事の量が多くて……」

「私に仕事取られて、不満だったんじゃないの?」

「……」


 私にしてはめずらしく言い返していると、立花さんはだんだん不機嫌になって、むすっとした感じで黙っている。


「愚痴をこぼすのは別にいいけど、私の事はともかく、真藤課長に対してさっきのは言い方はないんじゃない? 課長はちゃんと部下の事を見てるし、誰かに対してむやみに仕事を押し付けたりしない、立花さんなら出来ると思って……」


 私がなおも言い募っていると、立花さんは不機嫌そうな顔から一転、急に勝ち誇ったような顔をして私の言葉を遮った。


「随分、真藤課長の肩を持つんですね。でも、可哀想……」

「え?」

「だって、真藤課長は、私が鈴木さんとの事で相談(・・)した時、あなたの事何も言わなかったけど」

「……」

「鈴木さんが言うように、ちゃんと部下を見てるなら、普通は(かば)うくらいするんじゃないんですか?」

「……」

「だって本当(・・)の事は分かってるはずなんでしょ? なのに私じゃなくてあなたが異動なんて……。鈴木さんって、仕事は出来るかもしれないけれど、男性から見たら可愛げのない生意気な女性に見えてるのかもしれませんね」


「……だから、本当は真藤課長もどこかであなたのこと目障りだったりして。なんてね、冗談ですよ」


 立花さんが笑いながらそう言うと、わざと肩にぶつかってそのまま通り過ぎた。あんなのはただの出まかせだと分かっていても、思わず言葉を失ってしまった。

 さっきの立花さんの言葉に嫌な記憶が甦った。過去に元カレに言われたのと同じ言葉が、私の心を抉った。


◆◇◆


「はあ……」


 立花さんと話してから、気にしている素振りは出さないように務めたけれど、彼女がいなくなるととたんにため息が出た。最近なんだかため息ばかりかも……。立花さんの言う事なんか、真に受ける必要なんかないと思ってなんとか仕事に集中しようとしたけれど、思ったよりも傷は深かった。

 もうみんな帰っている、さすがに今日真藤課長と残業なんて無理だ。ちょうど課長は席も外しているし、今のうちに帰ろう。そう思って、素早くデスクを片付けていると、タイミング悪く真藤課長がフロアに戻って来た。


「お疲れ様です」

「……お疲れ様です」

「……」

「……」


 気まずい。立花さんの言った事を鵜呑みにしたわけじゃない。でも、真藤課長に対するもやもやした気持ちがずっと心の中でくすぶっていた。


 なんで私が異動になったんだろう……。

 課長は本当に、一言も私を擁護してはくれなかったのだろうか? もしかして、心のどこかで私を生意気とか……。


 そんな事、課長は思わない。でも……もし本当にそうだったら、私は……。


 立花さんに言われた言葉が、私の心を蝕んでいた。


「鈴木さん、良かったらこれを」


 そんな私の気持ちを知らずに真藤課長が、いつかの紙袋を差し出してきた。たぶん、たい焼きだ。私が美味しいと言った。それを聞いて、また差し入れしますと言ってくれた。だから……。


 けれど、今の私は、その優しさすら疑ってしまう。

 とても、それを受け取れる気にはなれなかった。


「すみません……。私、こんな時間に食べたりしないことにしているんです」


 自分でも驚くほど、冷たい声になってしまった。こんな態度とるなんて……自分が嫌だ。


「……確かに、こんな時間に。今まで、配慮が足りずにすみません」


 ついこの前まで、平気で食べていたくせに、急に態度を変えた私に、真藤課長はそれでも優しかった。申し訳なさそうな声に、胸が痛む。


「……」

「……」

「あの、異動の件ですが、前向きに考えていただけたでしょうか?」


 このタイミングで、その話題……。悲鳴をあげそうな心臓がさらにズキンと痛んだ。


「……お引き受けしたいと思います」


 声が震えないように答えられただろうか。


「そうですか。では、藤井部長に伝えておきます。たぶん来週の月曜日からという事になると思います。良かったです、これが鈴木さんの良い経験になると……」


 しかし、私のその返事に少しホッとしたような真藤課長の言葉に、自分の心の弱さを棚に上げ、思わず堰が切れてしまった。

 良かった? 何が良いの、ちっとも良くない。こんな形で憧れの出版部になんて行きたくなかった。

 

「でも、私は……」

「え?」

「私は、立花さんにパワハラなんてしていません……」

「……どこでそれを」

「していません!」

「……」

「……分かって……」

「分かっていません! じゃあ、どうして私に異動の話が来たんですか? こんな時期にどう考えたって、おかしいじゃないですか」


 思わず声を荒げてしまった。

 違う。こんなこと言いたいわけじゃないのに。こんなの、ただの八つ当たりだ。立花さんの言葉なんて嘘だ。真藤課長は、ちゃんと分かってくれてる。そんなの、自分が一番良くわかってる事じゃないか。

 でも、異動の事で、立花さんの言葉で、もう心の中はぐしゃぐしゃだった。

 

 だから、嫌なんだ。

 好きになると、自分の気持ちが上手くコントロール出来ない。


 好き……。


 私、真藤課長が、好き。


 だから、こんなにも心が振り回されるんだ。

 ただの部下だったら、こんなに乱されることもなく真藤課長を信じる事ができて、今回の事も、立花さんの言葉も、冷静に受け止められたかもしれない。

 けど、好きになったら、ほんのちょっとの事で不安になって、課長にどう思われてるのか気になって、嫌われてたらどうしようって、そんなことばっかりに気を取られて、どんどん暗い染みが広がって、勝手に思い込んで、勝手に傷ついて、勝手に傷つけて。


 私バカだ……。

 こんな時に、こんな形で自分の気持ちを認める事になるなんて、だったらもっと、ずっと早くに認めてあげれば良かった。


 俯いたまま動かない私を心配したように真藤課長が声を掛けてきた。

「鈴木さん……」

 今の私は、真藤課長に優しくされるような人間じゃない。自分勝手で、自分の事ばっかりで。

「ごめんなさい……。お疲れ様です」

 そう言うのが精一杯だった。カバンをギュッと胸に抱えて、その場を逃げるように離れた。


 帰り道を走りながらも、涙があとから、あとから溢れてくる。


 好き。

 でも、駄目。


 好き。

 でも、こんな私じゃ、全然、だめ、ダメ……。


 家に帰ると、化粧も、服もそのままでベッドに倒れこみ、泣いた。


 恋なんてもうしないと思っていた。私には打ち込める仕事がある。そう言ってきたけれど、本当は、面倒な事を投げ出して、仕事に逃げていただけだったのかもしれない。


 自分の気持ちに向き合わずに、目をそらし続けた結果、好きな人に八つ当たりして……。29歳、何やってんだか。子どものころは、ものすごく大人に思えた。自分でも、少しは成長したかな、なんて自惚れてた。心のどこかで、仕事さえ出来ればそれで、良いと思っていたのかもしれない。


 あの、優しいだけの時間が好きだった。


 自分からは何もせず、ただ、課長がくれる優しさを待っていただけの私。それに甘えてばっかりの私なんて、元カレがしていた事と同じじゃないか。バナナや紅茶にたい焼き、あの時間を頑張って作ってくれたのは、真藤課長の方だった。


 今まで気づかない振りをしてきた反動なのか、いろいろな思いが私の中を駆け巡って、それからどれぐらい時間が経ったのか、泣き疲れていつのまにか私は眠ってしまった。



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