無口な上司とバナナ 1
「これから、会議室で営業課との打ち合わせに入ります。急用の場合は、携帯に連絡して下さい」
大きくはないがよく通る声で、真藤課長がそう言い制作2課のフロアを出ると、その場の空気が少し軽くなったような気がして、私は自然と大きく息をついていた。
我が制作2課の真藤光博課長は、冷静沈着が服を着て歩いているような、非常に仕事の出来る男。顔立ちは、よくよく見れば普通に格好良い方に入ると私は思っている。けれど、そのよくよく見る前に、眼鏡の奥の鋭い眼差しと、眉間のシワが邪魔をして、普段から制作2課で一緒に働く社員はともかくそれ以外には、とにかく怖いという印象しか残らないみたい。
極端なほど無口で、普段は近寄りがたい雰囲気なのだが、しかし仕事においての指示は的確で、簡潔ながらとても解りやすく、本当に頼りがいのある上司であり、私を含め部下からの信頼は厚かった。あくまでも、仕事上だけでの話なのだけれど。
しかし、その無口さゆえ、いくら慣れているとは言え、真藤課長がずっと黙ったまま仕事をしていると、その場の空気がだんだん張り詰めて行くような感じがして、今回のような打ち合わせなどで席を外すと、みんな思わずホッとしてしまうのである。
私が勤めている会社は、チラシやパンフレットの制作を中心に、名刺やDM、本の出版まで多岐に渡り、印刷も自社で行っている。地域密着型の中小企業で、その柔軟さとフットワークの軽さを活かした細やかな対応が、クライアントからの好評を得ている。
そのぶん、2つに分かれている制作課は、フル稼働でも通常勤務時間内では追いつかず、残業の多い部署となっている。
私、鈴木夕子。29歳。
入社して7年目。そして、そんな多忙な制作2課に配属され早3年。2課で一人退職してしまいその代わりに一時的に異動したのだが、そのまま正式に配属となった。ただその前も、制作1課にいたので多忙なのは、変わりなかったのだけれど。
おかげさまで仕事だけは順調。その多忙さゆえに失恋を経験し、主に恋愛面で焦りを感じた時期もあったが、三十路一歩手前までくると、悲しいかな、このままバリバリとキャリアを積んで行くのも悪くないという気持ちにもなっていた。正直、もう恋愛のあれこれが面倒くさくなってしまっていた。
「あ、あの、夕子さん!」
さっきから時計をチラチラと見ながら、絶賛焦っている最中の後輩、青山詩織から声を掛けられた。
「ん? どうしたの、詩織ちゃん?」
「えーと、その……いえ、やっぱり何でもありません」
何か言いたげの彼女だったけれど、すぐにシュンとした感じで喉まで出掛かった言葉を飲み込んだ。定時を過ぎてもなお、慌ただしい制作2課の雰囲気に、彼女はなかなか本題を切り出せないでいる。事情は何となく察していた。
入社2年目の24歳。大人しい性格ながら、後輩のなかでもよく頑張ってくれている、素直で可愛い彼女のしょんぼりした顔を見ると、ここはひとつ先輩として、ひと肌脱いであげようという気にもなる。
「詩織ちゃん、今日はもう帰っていいよ」
「で、でも、この仕事の提出期限が明日の午前中で……、あともうちょっとなので」
「後は私がまとめておくから、約束あるんでしょ?」
そう聞くと、少し驚いたあと彼女は遠慮がちに頷いた。
実は、今日のお昼休みに、立ち聞きしていた訳ではないが、非常階段の隅っこで彼女が、約束がどうたらと電話越しで、何やら揉めていたのを見かけたのだ。ちなみに、先週も同じような光景を目撃している。相手は多分彼氏なのだろう。
「あの、先週も直前で駄目になっちゃって、さっきから約束の時間、何度も延長して貰ったんです。でも、結局それも過ぎちゃって、私は日を改めて欲しいってお願いしたんですけど、相手はどうしても、今日じゃないと……」
「うんうん、分かったから。今ちょうど真藤課長も席外してるし、ほら早くしないと」
「あ、ありがとうございます!」
余程思い詰めていたのか、今にも泣き出しそうな顔をしている。手早く残りの内容の打ち合わせをし、送り出した。そんな彼女も申し訳なさそうにしながらも、駆け出して行った。
とにかく月の後半は締め切りが重なり通常よりも忙しく、予定も目まぐるしく変更したりするので、急な残業も多い。したがって、プライベートの約束のドタキャン率も高くなる。私にも身に覚えがありすぎる。
プライベートより仕事優先なんて何時の時代だ。と言うのは簡単だけど、実際みんながまだ働いている中、約束があったとしても「帰りたい」という言葉はなかなか口には出せないものだ。
それでも、今日ほんの少し勇気を出した彼女を、マイナスに思うワケもなく、逆にちょっぴり羨ましいとさえ思っている。
私は言えなかったから。
忘れていたはずだった今朝の夢を思い出す。当時、彼が言った言葉は事実に変わりはなかった。仕事を優先していた、余裕もなかった、少し彼の事を面倒に思っていたのも全部本当の事。あの時の私が、今日の彼女のようにほんの少しでも素直に行動できていたら、もう少し思いやりを持てていたら、何かが違っていたのだろうか。
結局、彼より仕事を優先していたことを棚に上げて、飛び蹴りしてやればよかったなんて、ちょっとひどかったかな。仕事中、不覚にも過去の失恋を振り返って、うっかり感傷的になってしまった。
どっちが大事かと聞かれたら、どっちも大事だと今なら言える。でも、それを両立するのはなかなか難しい。
(ちゃんと、仲直り出来るといいな)
後輩の恋の行方も気にかかるが、いつまでも他人の心配ばかりしている場合でもない。うかうかしていると終電を逃してしまう。とりあえず、引き継いだ仕事に取り掛かる。
(うん。良く出来てるじゃない)
約束のためによっぽど頑張ったのだろう、彼女の仕事ぶりに改めて感心しながら、少し詰めの甘い部分を手直ししただけで予想よりも短い時間で済んだ。この程度の変更なら、明日朝一に本人が最終確認をして提出すれば大丈夫だろうと、手直しした要点と一緒に、気になった箇所のアドバイスをメモして彼女のデスクに置いた。
ふと、視線を感じて振り返ると、その人物の眼鏡がキラリと光った、ような気がした。いつの間に戻って来ていたのか、真藤課長だ。
仕事上の会話はあるけれど、雑談は皆無に等しかった。プライベート問題における、真藤課長の許容範囲がどのくらいかは分らない。確かに、厳しい面もあるが、普段の仕事振りを見ていると、話の解る人だとも思っている。ただ、恋愛においてはどうなんだろう。それに他人の恋愛事情を勝手に喋るわけにもいかない。
かといって、万が一にも後輩が先輩に仕事を押し付けて帰宅したと、勘違いされては困る。それに私が手伝ったのはほんの少しで、彼女が完成目前まで制作したのは間違いないのだから。
「仕事自体は終わっていたので、急用の出来た青山さんに、帰っても良いと私が言いました」
「……」
真藤課長の視線が、ファイルに貼られたメモに注がれる。
「こ、これはその、青山さんが悩んでいた部分の、ちょっとしたアドバイスをメモしておいたので……、とにかく明日朝一に最終確認後、提出するとの事です。期限には充分間に合うと思います」
「……」
ほんの少し誤魔化した部分がある私の言葉に、きっと頭の良い真藤課長のことだから、察してくれたのだろう。何も言わず返事代わりに、中指で眼鏡のブリッジをクイッと押し上げると自分のパソコンに視線を戻した。
念のため後で、今の状況を詩織ちゃんにメールをしておこう。