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無口な上司と紅茶 1



 パソコンのデータを保存して、ひと伸びする。今日も順調に進んだし、そろそろ帰ろうかと思った。定時を少し過ぎたくらいだったが、残っているのは私と真藤課長だけだった。残業の多い部署だから、みんな早く帰れる時は、素直に帰るのだ。

 ふと真藤課長のデスクをみると、書類に囲まれながら、もくもくと仕事をしていた。そういえば最近、会議や打ち合わせが多かったようだったから、デスクワークの時間がなかなか取れなかったのかもしれない。


「真藤課長、お手伝いします」


 考えるより先に、真藤課長にそう声を掛けていた。


「いえ、結構です。早く帰れる時は帰ってゆっくり休んで、体調管理を怠らないように」


 予想通りの返事だった。前にも手伝いを申し出たことがあったが、同じように断られて、その時は大人しく帰ったけれど、あの時は一言だけだったのに対して、今日は体調の事が含まれていた。その変化にほんの少し、背中を押されたような気がして、勇気をだした私はもう一度、食い下がってみる。


「では、真藤課長の体調を考えて、2人で早く終わらせて、早く帰りましょう」


 おお、よどみなく言えた。

 その言葉に、やや間が空いたけれど、やがて真藤課長から、いくつかの原稿を渡された。


「こちらの入力をお願いします」

「分かりました」


 やった! と思ったのも束の間、渡された原稿の多さを見て、ちょっと気が引けてしまった。仕事に関して容赦がないのはさすがだ。


「やはり……」

「いえ、大丈夫です。超特急でやりますね」


 心のどこかで淡い期待みたいなものはあったけれど、これでは今日は本当に会話の余裕もないかもしれない。しかし、自分で言った事には責任を持ちたいし、絶対、早く終わらせて真藤課長に少しでも良いところを見せたいと意気込んでいた。


 どれくらい時間が経ったのか、集中していたので休憩に行くのも忘れていたが。

 すると、どこからともなくふわりと独特な香りが漂ってきたかと思えば、カチャリと音がして、ふと顔を上げ横を見ると、紅茶が置かれていた。

 もしかしてと思って、すぐに振り返ったけど誰もいなかった。

 パッと真藤課長のデスクを見ると、先ほどと変わらぬ姿で仕事をしている。


(心霊現象……?)


 冗談を言っている場合ではない。

 淹れてくれたのは、やっぱり真藤課長しかいないよね。

 紅茶を目の前に、そんな事を考えていると、こちらを見ることもなく真藤課長が口を開いた。


「温かいうちに、どうぞ」


 やっぱり。

 どんなふうに持ってきてくれたかは、この際、深く考えるのはやめておこう。というか、そんなことは今の私には、正直どうだっていいのだ。


 嬉しい。なんだかすごく嬉しい。


 なのに、その香り高い紅茶に私は手を出すのをためらっていた。

 どうしよう。


「……どうか、しましたか?」

「いえ、私こういうの、全然詳しくないのですが、とても素敵なティーカップだなと思いまして……」

「ウェッジウッドのゴールドローズです」

「あ、名前は聞いたことあります。有名なブランドの食器ですよね」

「……」クイッ。


 真藤課長が眼鏡を押し上げた。そんな会話をしながらも、なかなか手を付けない私を不思議に思ったのか、じーとこちらを見ている。


 こ、これは、どうしよう!

 どうする? 飲むしかないよね。

 でも、実は私……。


 ティーカップを持ち上げる手がほんの少し震えたのは、高価な食器のせいだけではない。けれど、真藤課長が淹れてくれたのだ。せっかくの機会を台無しにしたくなかった。


 そっと口をつけた。


「……もしかして、紅茶は嫌いでしたか?」

「っ! ングッ、ケホッ、ケホッ」


 口に含んだ瞬間に掛けられた言葉に、びっくりして盛大にむせてしまった。その拍子に、持っていた手や腕に紅茶を零してしまう。ほんの少し熱かったが、カップを落すわけにはいかない。

 そんな様子の私を見て、慌てた真藤課長が駆け寄って背中をさすってくれた。


「大丈夫ですか?」

「ご、ごめんな、ケホッ……ケホッ、あの、カップを」

「手に紅茶がかかって、すぐ冷やさないと」

「そのまえ、に、カップを……」

「カップなんて、どうでもいいから! あなたが火傷していないかのほうが今は大事です」


 その言葉に、不覚にもときめいてしまった。

 そんな場合ではないのはないけれど、どきどきが止まらない。そんな私をよそに課長が私の手からカップを受け取り無造作に置くと、背中と膝の裏に手をまわして、おもむろに私を抱き上げた。


 呼吸が一瞬止った。

 が、ふわっと持ち上がった瞬間、ストンと元の椅子に降ろされた。


「……」

「……」


 いや、私のちっぽけな名誉のために言っておくがいたって普通だ、標準体型だ。そ、そうだ真藤課長は、背は高いほうだけれど細身だ。そうだ、そうだ……。


 申し訳ないけれどそういうことにしてもらないでしょうか。


「……」

「……」


 一瞬の沈黙が、とてつもなく長く感じる。

 恥ずかしくて顔もあげられない私。

 真藤課長もほんの少し固まっていたが、足早にフロアを出て行った。


 せっかく真藤課長が、淹れてくれたのに。



 嬉しかったのに、何でこんなことになっちゃうんだろう。



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