プロローグ
微熱のときの、なんかちょっと頭がボーッとしている時が好きだ。確かに気だるさとか頭痛とかもあって、正直辛い面もある。それでも、特に何も考えずこうしてソファーにだらっと倒れているのは、むしろ気持ちいい。
この部屋には東向きの窓があり、そこから差し込む陽光が優しく僕の体を包み込む。こんな時間がいつまでも続けば、どれだけ幸福だろうか。
「はぁ。今日もいい日だーーー?」独り言をポツリと呟くや否や、突然世界がひっくり返り、僕の言葉の尾も裏返る。
「ちょっと!いま何時だと思ってるんですかっ!」すぐ近くに雷が落ちた。発生源の方向に目を向けると、腕を胸の前で組んでこちらを凝視している女がいた。
「いってぇ。なにすんだよ、こう見えても病人!」そう言いながら床に寝転んだままの僕は、前髪を少し上げ、自分の額をさらした。いま私の額には熱を下げるための「ヒヤヒヤシート」なるものが貼ってある。
「いつものことでしょうが。もう。出勤したからには働いてください!」ハァ、とため息をつきながら、落ちた僕を横目に、僕がさっきまでいたソファーに座る。
彼女の名は蜜原楓。この部屋の主で、部屋の入っているビルのオーナーの娘でもある。僕の大学時代の後輩で、弁護士をしている。つまりここは弁護士事務所。弁護士事務所の床で朝から倒れてる男は、日本中探しても僕くらいなものだろう。
ということは私も弁護士だと思うだろう?それが違うんだなぁ。
僕の名前は大和田夏樹。趣味は寝ること。職業は、「探偵」である。
一口に探偵といっても分野は幅広い。浮気調査やストーカー被害の相談、行方不明のペットの捜索など、主に警察では取り扱ってくれない分野を専門とする人もいれば、町の何でも屋として活躍する人もいる。私は後者をメインに扱っている。
しかし最近は、そういった何でも屋はあまり重宝されず、僕の仕事も月に一度あればいい方である。
元警官の祖父のもとでほぼ独学で身につけた探偵の技術も、この時代ではほとんど役に立たず、路頭に迷いかけていた僕を救ってくれたのが、このビルのオーナー、所長の母の風香さんだった。彼女は僕の両親の古い親友で、ほとんど一文無しに近い状態に陥った僕を見かねた父が、なんとかならないかと、相談してくれたことから、今に至っている。そして偶然にも、その親友の娘が、僕の大学時代の後輩だったのだ。
楓はというと、まだまだ半人前ではあるものの、新人の敏腕弁護士として、頭角を現してきていた、いわゆる「期待の新人」弁護士であった。
法学部卒ながら、法律の知識が乏しい私は、彼女の秘書として弁護士の仕事を手伝う傍ら、本来の職業である探偵業もこなすようになった。
初めのうちは、物珍しさからか、多い時では1日数件という多忙なスケジュールだった。しかし、ほとぼりが冷めてくると依頼件数は大きく減少し、現在の状態になっていた。最近はほとんど弁護士の補助業務しか行っておらず、そろそろ潮時かもしれないと考えるまでになってしまったのだった。
ところで、僕には一つ、他の人とは違った特異体質がある。それは、「体温が平常時よりやや高い時に。つまり微熱の時に、推理力や行動力、観察力が大幅に上昇する」といったものである。この能力に気づいたのは、僕がまだ小学生の頃、軽い風邪を患ったときだった。微熱になり自宅で1人療養していたとき、偶然にも数軒隣の家で火事があり、まだ煙が見えてすらないにも関わらず、なぜか僕はその異変に気付いていた。幼い頃からあまり活発ではなかった私ではあったが、この時だけは自分でも驚くほどのスピードでこの事態に対処し、その結果その火事は、火元となった一室がスス臭くなる程度の被害で収まったのだった。
その一件以来、僕は微熱で体調を崩すたびに、自分でも理解不能な状態になっていた。
そしてもうひとつ。最近になって、僕はよく風邪をひくようになった。医者に診てもらっても原因は不明。特に薬を服用しなくても2、3日で快復するのだが、しばらくするとまた風邪をひく。さらに症状は微熱と軽い頭痛だけというなんとも妙な風邪である。まぁおかげで、僕の仕事の効率が上がったのは言うまでもないわけだが。
僕について特筆すべき点はこれくらいだろう。
つまり今日の私は冴えている。といえど、探偵の仕事がないようでは意味がない。
「なにぼーっとしてるんですか?仕事しないなら出ていってもらいますよ。母の不在中は、私の一声で先輩をクビにしてホームレス状態に追い込むこともできるんですよ?」楓の声は柔らかかったが、表情と物腰がどう見ても穏やかではなかったので、私はすぐに起き上がり頭を掻きむしりながら机に向かった。
「そんな脅迫なんかしなくても、私はやるときはやる男だよ。」
「脅迫に聴こえました?やっぱり自覚してるじゃないですか。あとその話し方キモいのでやめてください。」
「す、すみません、気をつけます・・・。」彼女を怒らせると怖い。というかとにかくめんどくさい。彼女の説教は精神的に疲弊するものだ。
それにこちらも雇っていただいてる身なので、そろそろ真面目に働こう。自分のデスクに座りなおし、僕はいつもの書類整理を始めた。
探偵の仕事は特にないので、今日もひたすら楓の手伝いだ。
「おはようございます!」事務所の扉が勢いよく開いたかと思うと、大きく元気な挨拶とともに少し小柄な女性が部屋へ入ってきた。
「おはよう、まいちゃん。」入ってきた女性に呼応するかのように、楓もさっきまでとは打って変わって、明るい口調で応じた。
彼女の名は津川舞以奈。この事務所唯一のアルバイトで、主に雑用を担当している華の現役女子大生である。
どういう経緯でこの事務所にいるのかは知らないが、少なくとも私よりはこの事務所ではキャリアが長い。
「まいちゃん、早速だけど、この辺りの書類整理、お願いできる?」
「了解です!あ、大和田さん。今日は探偵のお仕事ないんですか?」津川さんは自分のデスクに向かいながら、首だけこちらに回して笑みを浮かべながら聞いてきた。
「んっとねー、今日は特にないねー。」
「『今日も』の間違いでは?」すかさず楓のツッコミが入る。真剣に仕事をしながらこちらの会話にも入ってくるとは。
「じゃあ今日のランチ、ご一緒してもいいですか?」
「え、別にいいけど、そっちから誘ってくるってなんか珍しいね。なんかあった?」
僕は普段、ランチは外で食べるようにしていて、基本的には一人で食べているが、津川さんがお弁当じゃない日は僕が誘って外に食べに行くこともたまにある。しかし、彼女の方からこうやって声をかけてきたのは、記憶する中では初めてのことだ。
「ちょっとしたことなんですけど、ご相談したいことがありまして。いいですか?」
「ちょっとまいちゃん。なによ相談って。何かあるなら私が聞くよ。こう見えても私、弁護士ですから。」楓はまたしても、書類の方に目をやりながら会話に入ってきた。最後の一言は、明らかに私に向けられたものだということは言うまでもない。
「いえ、大和田さんじゃないとだめというか、その、何と言いますか・・・」最後のほうはよく聞き取れなかったが、つまりはそういうことらしい。
「楓。津川さんもこう言ってるんだからいいんじゃないか?」楓に対して、僕は満面の笑みを浮かべながら、さながら何かに勝利したかのように話した。
すると、楓は手をとめ、こちらに顔を上げ、非常に険しい表情で一言だけ放った。
「やましいことしたら、クビ、ですからね!」