聖十字教国にて(2)
「こちらに寄せてくるのは、いつごろになるでしょう」
リーシェはマリューに尋ねる。マリューは少し考えて、答えた。
「こちらの北部辺境まで、あと三日、というところだ」
「ウィルクス軍も寄せてきているのであろう」
ソルフィーが顔をしかめる。
「どうするのじゃ」
マリューはソルフィーとリーシェに言う。
「―――私はフィルカスめの相手をしなくてはいけません。お二人に、北方をお願いしたいのですが―――」
ソルフィーは頷く。
「折角こうして穏やかな時を過ごしておるのを、邪魔されるのは本意ではないが―――」
「しかし、師兄のおっしゃる通りです」
リーシェはマリューをまっすぐに見つめる。
「私は、師兄をお助けして戦います」
「いいのか」
リーシェは頷く。
「怒りや恐怖に、飲まれずに戦えるのか」
リーシェは顔を伏せる。
「正直、自信はありません…」
「リーシェ」
ソルフィーは不安そうな顔をする。しかしリーシェはソルフィーに微笑んで見せた。
「でも、これまでとは違います。今は、自分の怒りや悲しみ、恐怖のために戦うのではないから―――」
「では、何のために―――」
ソルフィーにそう問われ、リーシェは静かに言う。
「―――守りたいもののために」
マリューはリーシェのその言葉に頷く。
「ヨハネス枢機卿猊下に、お前の言葉をお伝えしよう。必ずやお喜びいただけよう」
マリューは、即日枢機卿に面会を願い出た。ソルフィーとリーシェが北方への出陣を了承したことを伝えるためである。
フェリアは急に慌ただしくなった屋敷の様子で、鋭敏にそのことを感じ取った。
「お兄様」
「何だフェリア」
「戦になりますの」
マリューは頷く。常なら、彼女はここで兄にご武運を、ご無事のお帰りをお祈りいたします。と言って兄を送り出す筈であったが、彼女の発した言葉は常とは異なっていた。
「―――リーシェ様は…リーシェ様は?」
マリューは、自分が南東のウィルクス戦線へ、そして師とリーシェは北方へ出陣することを告げた。フェリアの顔からさっと血の気が引いた。
「ダメ、リーシェ様を出陣させては…」
そこへソルフィーとリーシェが聖十字教国の宮殿騎士団、「テンプルナイツ」の制服を纏って現れた。
フェリアの瞳が大粒の涙で潤む。彼女は涙ながらにリーシェに訴える。
「リーシェ様、行かないで」
リーシェは静かにフェリアを見つめる。彼の気には、微塵の乱れも揺らぎもなかった。その決意に、フェリアは絶望の表情を浮かべながら言う。
「行けば貴方は死ぬかもしれません。どうして―――」
リーシェは穏やかに、しかし確固たる決意を込めて言い切る。
「守りたいものが、見つかったのです。僕にとって、命を懸ける価値があるのです。」
リーシェの瞳を見たフェリアは、リーシェの名を呼び、彼に抱き付いて嗚咽する。
リーシェは黙って彼女の肩を抱いた。
マリューとソルフィーにとっては永遠とも思え、フェリアにとっては残酷なまでに短い数分の時間、二人の気は一つに絡み合う。
リーシェが彼女を胸に抱いて聴かせた彼自身の心臓の音が、いつしかフェリアの肩の震えを微かなものにさせていた。
その時部屋に聖ヴルム大寺院からの急使が通される。口を開こうとした使者に、マリューは鋭い視線を浴びせる。使者は一瞬で状況を悟り、その場に跪いて畏まる。
「フェリア様、猊下からのお使者です」
フェリアはリーシェの言葉に、やっと彼の身体を離す。メイド長のダリアが、そっとフェリアに寄り添うと、その肩を抱く。
「剣聖ソルフィー殿、リーシェ・フランシス殿お二方には、これより騎士団長と共に聖ヴルム大寺院の武器庫においで下さい。前線にてご使用いただく武器を、教皇様より下賜されます」
「そちらで指定していただいた武器を使う、と考えてよろしいのかな」
ソルフィーは使者に尋ねる。使者は首を横に振る。
「お二人には『お好きな物をご自由にお選びいただくように』とのお言葉であります」
聖ヴルム大聖堂の武器庫。それは古くは魔法大戦期からの名高い武具を数多くそろえた、武器庫というよりはむしろ宝物庫という方が適切であった。収められた御物は、聖十字教のみならず、ヴィシリエン全土の宝と言っても過言ではないものばかりである。
「参りましょう、先生、リーシェ。時間がない」
マリューの言葉に、ソルフィーとリーシェは頷き、外套を翻す。リーシェはフェリアを振り返り、フェリアに告げる。
「行ってまいります。フェリア様、留守中どうぞお気を付けて」
「ご武運を。どうか、どうかご無事でお帰り下さい」
三人を乗せた馬車は、程なく聖ヴルム大聖堂の車寄せに付けられた。彼らはヨハネス枢機卿を含む三名の枢機卿と、九名の司教たちの出迎えを受ける。リーシェはその場に跪く。
「猊下、参戦をお許し下さり、ありがとうございます」
「なんの、リーシェ殿。礼を言うのはこちらの方じゃ」
ヨハネス枢機卿は跪いたリーシェの首を、手にした白銀の大司教杖で軽く打つ。
「リーシェ・ロワール・フランシス、そなたを騎士に任じ、聖十字教国宮殿騎士団の武術指南役に任ずる」
リーシェはそれを受け、枢機卿の言葉に従って立ち上がる。彼の身体に、穏やかで落ち着いた、高い空のような美しい蒼色の気が充ちているのを、ヨハネス枢機卿は感じていた。
「恐らく大戦になろう」
「御意」
リーシェは枢機卿の言葉に頷く。ヨハネス枢機卿は目を細めて言う。
「その落ち着き、見事じゃ。そなたが必ずや我らに勝利をもたらしてくれることであろう」
ついて参れ、と枢機卿は言う。九名の司教たちが先導し、彼らは地下の武器庫への階段を降りていく。
大聖堂の地下、最下層に近い所。聖墳墓の一つ上の階層に、広大な倉庫が存在する。そのうちの一つが、武器庫であった。
分厚い石の扉の前で、ヨハネス枢機卿は聖なる呪を唱える。ゴロゴロ…と重々しい音を立て、扉は横にスライドした。扉の前で、一人の枢機卿が三名の司教と共に番をする。ヨハネス枢機卿は、内側から扉を呪で閉じ、魔法の灯をつけさせる。
「凄い」
ソルフィーが感嘆の声を上げる。最初の部屋には、片手用の剣が整然と壁にかけられていた。その全てが、魔法大戦期に名工たちによって打たれた名剣。ずらりと並んだ名工の作品に、リーシェも声を失う。ある壁の一面すべてが、リーシェの腰に二振ある「両刃のローラン」。その次の壁が、「ブラグステアード」。次の壁には、マリューの愛刀「エストラ」を作った名工「ロタール」の作品がずらりと並ぶ。だが、ヨハネス枢機卿はそれらに見向きもしない。一人の司教がヨハネスに言う。
「ヨハネス師父、なぜ剣をお見せしないのです」
その問いに、ヨハネス枢機卿は笑って言う。
「アンヴィル、そなたは優しいから武器には疎いのであろうが、お二人の剣はここの壁の剣など及ばぬ業物じゃ。こんな剣をお勧めしては失礼というものじゃぞ」
アンヴィル、と呼ばれた司教はその言葉に、申し訳ございません、と頭を下げる。ヨハネス枢機卿は続けて言う。
「ソルフィー殿の剣は『黄金の精霊王』と呼ばれる名剣。リーシェ殿の剣は『両刃のローラン』じゃが、その壁の剣とは出来が違う。恐らくは…百八番」
リーシェはヨハネスの言葉に驚く。
「猊下にはご存じでしたか」
ヨハネス枢機卿はリーシェに底の知れない微笑みを見せる。
「私も、若い頃魔力付与を学んだものでな」
ヨハネス枢機卿はさらに武器庫の奥へ進んでいく。魔力の付与された鎧や盾、長槍の部屋を通り過ぎ、更に奥の部屋に入っていく。
「ヨハネス殿、この先は禁踏区域ですぞ」
もう一人の枢機卿、バーランダーがヨハネスに言う。ヨハネス枢機卿は笑って言う。
「お許しは頂いておる」
そう言うと、ヨハネス枢機卿は三度呪を唱える。が、今度の呪はかなり長いものであった。枢機卿が呪を唱えると、禁踏区域の床が白く輝き、壁に魔法の灯がいくつも灯る。
「そなたたちはここで待っておれ」
ヨハネス枢機卿は二名の司教に、その場で待つように言う。
「アンヴィル、そなたは入ってよい。そなたなら、この中の魔力に耐えられよう」
ヨハネス枢機卿はソルフィーとリーシェ、マリューとバーランダー枢機卿を伴って中に入っていく。
ヨハネス枢機卿の足が止まる。
「剣聖殿、このあたりでいかがであろうか」
そこは鎧の部屋であった。ソルフィーは注意深く鎧を見て回り、一つの鎧の前で足を止める。
「こちらを」
彼女は短くそれだけ言う。ヨハネス枢機卿は頷くと、神に祈りをささげ、飾り台から白銀の鎖帷子を外す。
「さすがにお目が高いの」
ソルフィーは頷くと、上衣を脱ぎ、下にそれを着こむ。
「軽いですね」
「この鎧は、聖なる力を持ち、悪霊の力や呪を受け付けぬ」
「やはり」
ソルフィーは言う。
「後は普通の弓があれば、私はこれで」
「さもありなん。ではこちらを差し上げましょう」
ヨハネス枢機卿は満足気に言う。
「次はリーシェ殿ですな」
リーシェは注意深く辺りに気を張り巡らせている。彼は目を閉じ、じっと何かに集中しているようであった。アンヴィル司教が口を開こうとするが、バーランダー枢機卿がそれを遮る。
目を閉じたままのリーシェが、不意に歩き出す。皆、彼の五歩後ろをそっとついて行く。
何かに導かれるように、リーシェは奥へ奥へと歩いていく。
ヨハネス枢機卿の顔に、緊張の色が浮かぶ。
マリューとソルフィーの顔にも、緊張の色が浮かんだ。
その筈、リーシェが踏み込んだエリアは、極めて高度な魔力付与によって高い力を付与された最高級の魔法の武具の部屋の奥。
聖十字教国の国宝級の武具の部屋よりも、更に奥。
所謂、外に出すことが憚られるほどの魔法の武具―――呪いを伴う可能性の高い武具が安置されている部屋であった。
一対のどす黒い血のような赤い大剣と長剣が、大きな金床に突き刺さっている。
よく見ればその金床は、全て魔法銀でできていた。
リーシェは目を開く。
『―――僕を呼んだのは、お前か』
リーシェは剣に呼びかける。彼の口から紡がれた言葉は、上位古代語であった。
剣がリーシェの言葉に反応する。ヨハネス枢機卿は、リーシェ以外の四名に言う。
「みなこの部屋から出よ。ここは危険じゃ」
ソルフィーがリーシェに駆け寄ろうとするが、ヨハネス枢機卿がそれを止める。
「リーシェ殿を、お信じなされ、剣聖殿」
リーシェが呼びかけた剣から、異様な殺気がズルリ…と這い出して来る。天井まで四メートル程あるその部屋の中に、その天井まで頭が届きそうな異形の化物が現れた。
『何用だ、小さき者。言葉が通じるようだな』
ソルフィーとマリューは剣の柄に手をかける。それを、ヨハネス枢機卿とバーランダー枢機卿が制する。
大悪魔。魔力が高く、様々な魔法を使い、その皮膚は固く並の武器を受け付けない。熟練の騎士達であっても、一匹の大悪魔の前に簡単に全滅することもある。竜の類と並び、最も危険な魔物の一種として知られていた。魔法大戦時に、多くの大悪魔が人々を襲い、人類の側に極めて大きな犠牲がでたことは、その場にいた皆が知るところであった。
『僕が用があるのは、お前ではない』
リーシェは静かに言い放った。小癪な!と一声放ち、大悪魔は呪文の詠唱に入る。
「いかん、『核撃』じゃ」
ヨハネス枢機卿はリーシェを除く全員を自分の側に集め、素早く対魔法結界を引く。
『小さき者、消え失せよ』
大悪魔の魔法が完成する…と見えたその瞬間。魔物の手に乗っていた高エネルギーの光球が、まるで火が消えるように輝きを失う。リーシェの身体を、空のように蒼い剣気が包んでいた。さらに、リーシェの周囲をいくつもの風の精霊が飛び回っていた。
『そんな魔法を、お前に自由に使わせると思ったか』
大悪魔は構えを取る。
『行くぞ』
巨体からは想像もつかないような凄まじい速さで、魔物はリーシェに襲い掛かった。
魔物の爪がリーシェに迫る。大悪魔の爪には致死性の猛毒があり、一撃で人の首を掻き飛ばす切れ味を持っていた。
しかし、魔物の一撃は空を切る。
幻影斬。
リーシェが手にした一対の魔法の剣が、大悪魔の右腕を斬り落としていた。
『やるな』
リーシェは答えない。彼は剣に気を込めていく。彼の「両刃のローラン」は、光り輝く純白の炎のような剣気を吹きあげていた。
大悪魔とリーシェが馳せ違う。瞬間、リーシェの剣の放つ純白の炎が、空のような鮮やかな蒼い光に変わる。
大悪魔は、脳天から両断され、細かい塵になって掻き消えた。
凄い…。
ヨハネス枢機卿は、リーシェの技を目の当たりにして、改めて戦慄した。彼が今見せた力は、紛れもなくグランドマスターである兄弟子マリューに匹敵する。いや、もしかすると既にマリューを凌駕しているかもしれない。その師である剣聖ソルフィーであっても、一太刀で滅し切れるかどうか―――
リーシェは悲しげに自らの剣を見る。鞘に収めたが鯉口が閉じ切らない。
「剣の腰が、伸びました…」
そう言うと、彼は金床に刺さった一対の剣に歩み寄る。
「猊下」
リーシェはヨハネス枢機卿に言う。
「もう結界は不要でございます。―――僕はこの一対の剣を」
先程までおどろおどろしい光を放っていた剣は、静かな鈍い色の光を放っている。
「先程の大悪魔が、この剣に巣食っていたのじゃな」
「というより、この剣が世に出るのを、妨げようとしていたように見えました」
リーシェは古代語を唱え、剣に語りかける。
『僕を呼んだのは、君だね』
そう言うと、リーシェはそっと大刀の柄を右手で、長刀の柄を左手で撫でる。途端に、二本の剣がまばゆい鮮やかな蒼い光を放つ。まるで空のような明るい光であった。
二本の剣から、透き通った空色の美しい娘の姿をした精霊が一人現れた。娘はリーシェを抱きしめる―――が、悲しい顔をして彼女はリーシェに言う。
『あなたの心の中に、別の女性がいる―――いや!私を一番に愛して欲しいの!』
『否定はしないよ、剣の精』
リーシェはそう言って、彼女の前に無防備な姿をさらす。
『その女性が、君が守るに値しないと思ったら、ここで僕の命を奪って欲しい』
剣の精はリーシェの言葉に悶え苦しむ。
『私は嫉妬で狂ってしまいそう―――』
『だから、僕を殺してもいいよ、そう言っているんだ』
リーシェは剣の精に言う。
『僕の剣になるんだ。僕の命がある限り、僕の側に置いてあげる』
『いけずな人!』
リーシェはその言葉に、二振りの剣にあらん限りの剣気を注ぎ込む。
『僕の剣になってくれ。然らずんば僕の命を取るがいい。僕の命を、君にやる』
リーシェの気を注ぎ込まれ、剣が脈を打つように光り輝く。
剣の精は、剣が脈を打つように大きな輝きを放つ度に歓喜の絶叫を上げて気をやる。
六回それを繰り返した後、剣の精はリーシェの前で跪く。
『貴方は私の主人…貴方の護りたいものは、私が護る…貴方の敵は、私の敵…。』
リーシェは荒い息をしながら、にっこり頷く。
二振の剣は、スルリ…と金床から抜けた。
リーシェはがくり…とその場に膝をつく。皆がリーシェに駆け寄る。
ヨハネス枢機卿は剣を改める。呪いは全く感じない。空色の見たこともない金属でできた剣であった。
「恐らく、ブルー・メタル」
「ブルーメタル?」
ソルフィーがヨハネス枢機卿に尋ねる。
「そうです、剣聖殿。剣聖殿の剣は『アロンダイト』、マリューの『エストラ』は『オリハルコニウム』で出来ており、共に硬度においては最高級。しかし私は、魔法大戦期の古文書の中で、それらと並び称される素材として、『ブルーメタル』なる金属について読んだことがある。」
「それが、この剣―――」
リーシェはマリューに言う。
「師兄、この剣にはよい鞘が必要です」
「そうだな」
更にリーシェは、魔法銀でできた軽い鎖帷子を選ぶと、ヨハネス枢機卿に言う。
「鞘が完成し次第、北方に向かいます」
「そなたの鞘は、教皇庁御用達の職人たちに全力で作らせよう。そうじゃな、二日もあれば―――」
ソルフィーはリーシェに言う。
「そなたはその間、マリューの館で休むのじゃ。このまま出立しては、足手纏いになろうぞ。よいな、急いてはならぬ」
リーシェは素直にはい、と返事をするのであった。
大寺院から戻ったリーシェの姿に、フェリアは兄に何があったのかを尋ねた。マリューはリーシェが剣に巣食っていた大悪魔を一人で倒した話をして聞かせた。
「リーシェに外傷は、全くない。無傷じゃ。ただ、剣の精を屈伏させるのに、大量の気を消費しただけじゃ」
ソルフィーは言う。ベッドに寝かされて、リーシェは笑う。
「―――少し疲れました。でも、よい剣を手に入れることができたと思います」
「あんなに危ないことを」
マリューはリーシェを窘めるが、ソルフィーはよい、とマリューに言う。
「マリュー、そなたの言うた通りじゃ。この戦から戻った暁には、リーシェにグランドマスターを許そうと思う。見届人はそちじゃ」
「ありがとうございます」
リーシェはベッドの上からソルフィーに礼を言う。
「ただし、」
とソルフィーは付け加えた。
「この大戦を通して、怒りと恐怖に飲まれずに戦いきることが一つ。そして、もう一つの条件は―――」
ソルフィーは、マリューの方を見る。マリューは頷く。
「―――すぐにとは言わん。フェリアをお前の許嫁にさせてもらうぞ」
その言葉を聞いたフェリアの顔は、あっという間にサクランボのように真っ赤に染まった。
「そ、それは」
同じく赤面したリーシェが口を開くが―――
「なんじゃ、何か不満でもあるのか」
ソルフィーはリーシェに言う。
「い、いえ、そういう訳では———」
「ならばよい」
俯いて赤面し、言葉も出せないフェリアに、マリューが小声で言う。よかったな、フェリア…と。
その言葉に、フェリアはほんの少しだけ、小さく首を縦に振った。マリューは満足気に頷く。
そのことに、ソルフィーに何とかして抗議しようとしていたリーシェだけが気付いていなかった。
リーシェの気が回復したのは、鞘が出来上がった日。丁度二日後のことであった。
宮殿騎士団の騎士が二人、リーシェに鞘を届けに来た。その足で、彼らはソルフィーとリーシェを伴い、北方への援軍に合流することになっていたのである。
「必ず、お戻りになるとお約束下さい、リーシェ様」
リーシェはフェリアに頷く。その様子を、マリューは目を細めて眺めていた。
リーシェは白地に赤い十字の入った外套と上衣、そして背にはあの大刀、腰に長刀を帯びていた。鞘は聖十字教国の宮廷職人たちが技術の粋を集めて作り上げた見事な魔法銀の鞘。表面には、ヨハネス枢機卿が選んだ文面の古代語が細かくびっしりと彫り込まれていた。これが僅か二日、四十八時間程で作り上げられたとは、誰も思わないだろう。リーシェの馬は見事な青毛(普通の黒毛馬よりも、更に黒い)。鞍には二十四本の矢が入った矢壺と、馬上でも使える長弓がつけられていた。ソルフィーは見事な葦毛の馬に跨り、リーシェと同様弓を携えていた。
「ではお二方、北方行の援軍の本陣へご案内いたします」
彼らと同じ制服を着た、宮殿騎士団の若い騎士が二人、リーシェとソルフィーの先に立って出発する。
出発していくリーシェとソルフィーを、フェリアはいつまでも見送っていた。その瞳からは、とめどなく涙があふれていた。
魔法学院でも、リーシェが学業を中断し、風雲急を告げる北方へ向かったことは皆の知るところとなっていた。
「―――そう」
アレクサンドラはその話を聞いて、そう答えた。
「何でも、北方に行くために、大寺院の武器庫の一番奥まで潜って、とんでもない魔剣を手に入れたって噂よ」
「魔剣どころか」
とサイモンが小声で言う。
「剣聖様の剣や、マリュー様の剣に匹敵する名刀らしいよ。教皇様は、剣聖殿とリーシェに、好きな武具をなんでも持っていっていい、とおっしゃったらしい」
「凄いよな」
アレクサンドラは、さめざめと涙を流しながらぽつりぽつり話をするフェリアから、あらかたの話を聞いていたので、サイモンの話は半分聞き流していた。
「なんだ、アレクサンドラ…相変わらず、ドライなんだな」
サイモンはふくれっ面でアレクサンドラに抗議する。
アレクサンドラはしれっとサイモンに言う。
「私はその話、フェリアからもう聞いたもの」
ええっ!と友人たちの間から声が上がる。たちまちアレクサンドラは級友たちから囲まれる。
仕方なく、アレクサンドラはリーシェが大悪魔を一刀両断にした話を聞かせる。
「出所はマリュー様らしいから、間違いなく事実よ」
「精霊魔法で、『核撃』を握りつぶす、って…」
「恐らく例の、『精霊の静寂』を詠唱無しで使ったんでしょ。リーシェならそれぐらいやるはずよ」
アレクサンドラは、今更ながらリーシェの力に戦慄を覚えていた。彼女はリーシェの殺気と怒りの剣気を忘れていなかった。これまでの一生で、最も恐ろしい体験であった。完全に殺されると思った。その生の感情の激しさを、リーシェは理性の力でコントロールし、のみならず他者を思いやる気持ち———愛、と呼べるだろう―――によって昇華させているのである。その対象が、紛れもなく自分の側で涙にくれている少女であることを、アレクサンドラは疑っていなかった。
「主戦場はどのあたりかしらね」
サイモンはここぞと地図を取り出す。
「ノルドバの街が攻められているらしい。もつかどうか―――」
聖十字教国、北部辺境…
自治都市ノルドバ―――
北方諸軍の統括を任された、宮殿騎士団のナンバー2、シャルル・ド・ヴァルス候爵は、ソルフィーからソード・マスターを許された弟子の一人で、五十を過ぎた歴戦の騎士であった。指揮ぶりは冷静沈着そのもの。非常に堅実で、一つ一つ拠点を回復しつつ北方諸部族の襲撃を食い止めていた。
「リーシェ殿のお働き、見事の一言だ」
「侯爵閣下のご指示のおかげです」
リーシェはヴァルス候に頭を下げる。宮殿騎士団の皆が、リーシェとソルフィーの武勇を手放しで褒める。ヴァルス候も目を細めてそれをひとしきり聞いていたが、当のリーシェに今後どうすべきと考えるかを下問した。
「―――今日はこの地を確保し、敵を押し返すことができましたが―――現状のままでは、ここは守り切れません」
「理由も、皆に伝えてもらってよいかな」
ヴァルス候はリーシェを地図の側に呼ぶ。リーシェは地図上の駒を操作して説明する。
「今回寄せてきたロヴァ族は、寄せ手の中でも力の弱い部族。恐らく、軽く攻撃してみて、こちらの強い場所、弱い場所を見極めるための攻撃であったかと」
「成程、後ろにズアーヴ族の部隊か」
一人の若い宮殿騎士がリーシェの言葉に頷く。
「候、次の援軍はいつこちらに」
ヴァルス候は腕組みを解かずに言う。
「―――早くて、一週間。それも、さほどの数は来んだろう」
「厳しいの」
ソルフィーも言う。
「剣聖殿のお言葉の通りです。状況は極めて厳しい」
「我等のみで、ズアーヴ族の本隊と激突する、ということか」
リーシェの表情が強張る。少なく見積もって、十倍の敵とぶつかることになる。さらにまずいことには、聖十字教国軍は彼らを全滅させる必要があるが、彼らは聖十字教国と戦う必要が必ずしもない、ということがあった。仮に半数を聖十字教国軍にぶつけ、半数が女子供を伴いこの町を迂回する、というような手をとられると、いかに宮殿騎士団といえども、打つ手に窮する状況であった。
「どうするのじゃ、シャルルよ」
ソルフィーの言葉に、ヴァルス候は答えない。
「根切りに、しますか」
リーシェが言う。その場の一同が、リーシェを振り返る。
リーシェは表情を変えずに続ける。
「彼らを民として受け入れる、という選択肢があれば別ですが、そうでない以上は他に策はありません」
「済まぬ、リーシェ殿」
ヴァルス候はリーシェに頭を下げる。余りに残酷なその策は、本来なら主将たる彼が皆に諮らねばならないものであった。しかし、聖十字教国本国の物成もあまり良くない以上、何万人もの蛮族を受け入れることは到底不可能であった。ソルフィーは不安そうにリーシェの顔を伺う。しかし、憂いを帯びてはいるものの、リーシェの気は驚く程静かな状態を保っていた。
「どうせ悪名を背負うなら―――」
リーシェはひと息ついて、
「彼らに二度とこちら(聖十字教国)を侵す気を起こさせないような…恐怖を与えなければいけません」
「何とも、辛い任務ですな」
宮殿騎士団のひとりが、遣る瀬無い顔で言う。リーシェは頷いた。
「しかし現実は現実。やるしかない」
ヴァルス候は断を下した。
「この件で後の世の非難を受けるのは、この私一人でよい。決して剣聖殿やリーシェ殿に責を負わせはせぬ。皆の者、出陣じゃ!」
二日後―――
ノルドバ郊外、北部辺境中央街道…
街道に面した平原の至る所に、ズアーヴ族の死骸が転がっていた。
「ひどいものじゃ…」
ソルフィーは剣の血を振り落とすと、周囲を見渡した。生きて動くズアーヴ族は一人もいない。
戦士も女子供もない。「根切り」である。
この一角だけでも、千五百は下らない。
「リーシェ…」
ソルフィーは呟いた。
リーシェは聖十字教国軍の先頭に立ち、ズアーヴ族の本隊を攻撃した。リーシェひとりで、千名近くのズアーヴ族の戦士を斬殺し、その勢いそのままに、非戦闘員も含めてズアーヴ族の一行を攻撃したのである。逃げることができたものは、ほんの僅かしかいなかった。
リーシェはいつでも南下を考える北方の諸部族の中に己の名を広めることで、抑止力となることを考えたのである。
そのために敢えて悪名を被ったのである。
明らかに、彼は心を殺して戦っている。そう、ソルフィーは分かっていた。彼女自身も、ともすれば発狂しそうな過酷な戦いであった。しかしリーシェの戦いは、剣聖と謳われる彼女のそれをも超えるほど苛烈であった。それでいながら、リーシェは正気を失うことなく、ひたすらに剣を振るい続けていた。
「こちらでしたか、先生」
リーシェはソルフィーに駆け寄る。
「―――凄いな」
ソルフィーの言葉に、リーシェは首を横に振る。
「まだまだです―――甘いです」
「いや、十分じゃ」
彼女はリーシェを気遣うように言う。
「私でも、正気を保って戦うのがやっとじゃ。―――よく、狂気に飲まれずに戦っていると思う」
「正気かどうかは、よく分かりません」
リーシェは言う。
「明らかに、正義にはもとります。―――しかし、やらねば同じだけの聖十字教国の民が死にます」
彼自身も、正気を保つのがやっとであることにはかわりがなかった。
「でも、僕は一人で戦っているのではありません。僕の手など、いくら血で汚れてもいいのです―――」
リーシェがその後に、何を続けたいのかは、ソルフィーには痛いくらい分かっていた。
彼の無事をひたすらに祈り、彼のために涙し、彼を案じ続ける一人の混血の少女のため。
彼女のためにならどんな悪名を被ることをも厭わない。
「この方面の敵は、粗方潰しましたが…本陣でヴァルス候がお呼びです。お急ぎください」
「何かあったのか」
ソルフィーの言葉に、リーシェはただ、
「お早く…」
とだけ答えた。
ノルドバの街の北門側に、聖十字教国軍、北部方面の援軍の本陣が置かれていた。宮殿騎士団の副長であるヴァルス候は、マリューを除けば聖十字教国軍内での最上位の指揮権を持っていた。彼あるところ、全ての情報は彼に集まり、彼の命令は北部を領有する聖俗の諸侯の命令に優先する。その彼をして驚愕させるとんでもない情報が、三十分ほど前にもたらされたのである。
北部の諸部族のなかでも最精鋭を集めて作られた、約六千の別動隊が、ヴァルス候率いる援軍を迂回して、北東方面から聖十字教国に侵入した、という知らせであった。迂回した分距離はまだあるが、彼らを遮る部隊は首都ロードポリスまでほとんど皆無に近い状況である。せいぜい、途中の小領主たちの自警団レベルの軍隊が残っているのみ。到底その六千名を止めることは出来そうになかった。ヴァルス候の援軍も、各地に分けており、現在手元にはやっと三千しかない。敵の最精鋭の半分しかいないのである。
「全軍を南へ返す」
ヴァルス候は即決した。
「このままロードポリスを蹂躙させるわけには参らぬ。各地方の領主に、残党を片付け次第首都防衛に援軍をよこすように連絡せよ」
リーシェはヴァルス候の前に跪く。
「候、私に先陣をお任せ下さい。途中の駅の代馬を使えば、ロードポリスまで必ず先回りできます」
「しかし、そなた一人では」
「私ひとりで、彼らの三分の一は承ります」
リーシェは静かに言い切る。つまり二千人を斬る、という宣言である。
「さすがに攻撃を躊躇するでしょう」
「時間を、それで稼ごうということか」
「はっ」
「よし、許そう。リーシェ殿、先行してそなたの思うように戦え。私が行くまで、何とか持ちこたえるのだ」
ヴァルス候は素早く軍令状をしたため、リーシェに手渡す。
「必要なものあらば、私の名で徴発し、手配することを許す」
「畏まりました」
リーシェはすぐさま馬上の人になる。
「先生、何時奇襲があるかわかりません。候をお願いいたします」
「そなたも、無事でな」
リーシェは振り返らずに馬に鞭をくれる。風のように、リーシェを乗せた馬は南を目指して走り去った。
見送るソルフィーの顔には、リーシェを気遣う気持ちがありありと見て取れた。一人の宮殿騎士が言う。
「まさに、一騎当千。守り切れれば、北方戦線の武勲第一位は、リーシェ殿で間違いございますまい」
ヴァルス候は苦い表情で頷く。
「―――まだ十二、三歳の彼の手を、これだけの血で汚させたのだ。他の誰が彼を責めても、我々は彼を英雄と崇め、永久に感謝を忘れてはならぬ。我らも出るぞ」
ロードポリス、魔法学院―――
既に学院の生徒たちにも、使用可能な魔法の戦時利用が全て許されていた。平時は禁忌の魔法である、様々な破壊と攻撃の魔法を、自衛のために使用することの許可が出たのである。
「聞くところによると、蛮族は各部族の最精鋭を選りすぐった六千名規模の別動隊で、ヴァルス侯爵閣下の援軍を躱して北東方向から攻めて来るらしい」
「リーシェ達が二万程を倒したらしいが―――」
「本体の方を、囮に使ったらしい。まさか少ない方が主力だとは、思わなかったのだろう」
フェリアはリーシェの身を案じていた。アレクサンドラはそんなフェリアに言う。
「彼がそんなに簡単に死ぬはずがないわ。それより、私たちは私たち自身と、ロードポリスを守ることを考えましょう」
「そうね、アレクサンドラ」
フェリアはそう答えたが、さすがに不安げな表情は隠せなかった。
既に北東方面の村や都市からの連絡は途絶えていた。
幾つかの都市が略奪にあい、焼かれたという情報もあった。