聖十字教国にて(1)
聖十字教国、首都ロードポリス―――
聖ヴルム大寺院―――
一人の少年が、大寺院礼拝堂の階段を下りていく。
白い雪が、空から音もなく降り続いていた。
少年は、古びた外套を羽織り、腰に二振の剣を帯びていた。つい先程まで、聖堂の中で一心不乱に祈っていた少年の顔は、安らぎに満ちていた。
少年が息を吐く。白い丸い息を…。
彼は、階段を下り切ると、通りを東に向かって歩き出した。
少年の名は、リーシェ。
彼の師であり、親代わりでもある、ヴィシリエン最強の剣士、アルウェン・レオンハルト・ソルフィーと共に、同門の兄弟子であるマリュー・ド・アドリア司教を尋ね、この街にやって来たのであった。道中、リーシェはソルフィーに先行し、一日早くこのロードポリスに入ることができた。
彼は年の瀬も押し迫ったロードポリスの町を、足早に歩いていた。
ロードポリスには、聖十字教国を代表する諸侯たちの上屋敷があり、
アドリア侯爵家も例外ではなかった。リーシェは門に飾られた紋章から、容易にその屋敷を見つけることができた。
彼は門の脇にある、通用口の番人に声をかける。
アドリア侯爵家、上屋敷―――
南棟二階―――
「お嬢様」
呼ばれた娘は、メイド頭を振り返る。
「雪になりました」
「そうね、降ってきたようだわ」
娘は美しい金髪の巻毛をわずかに揺らすと、立ち上がる。すらりとした、美しい娘であった。年はまだ十一歳。名を、フェリア・ヴェア・アドリアといった。彼女はこの屋敷の主、マリュー・ド・アドリア司教の、腹違いの妹であった。
「ダリア、貴方寒いでしょう。暖かくしてあげるわ」
「お嬢様、勿体ないお言葉です」
フェリアは自ら暖炉に薪を足す。パチパチ…といい音がして、暖炉の火が燃え上がる。
「お兄様は、まだお帰りにならないのかしら」
「ご心配には及びませんわ、お嬢様」
フェリアは窓際に寄って、門の方を眺める。すると、門の内側、雪の中に、人の輪ができているようであった。輪の中心にいる、小さなものを、棒を持って殴りつけている者がいるようだった。
フェリアは部屋を飛び出す。後ろから、お嬢様!?という声が響いた。
アドリア侯爵家上屋敷―――
南棟、玄関前―――
フェリアは扉を開け、雪の中に飛び出す。
「何事ですか、この騒ぎは!」
フェリアの叱咤に、男たちが畏まって跪く。男たちの輪の中に、ぼろ雑巾のように倒れた人影があった。
「貴方たちが、これを?」
見れば倒れているのは、彼女と歳もあまり違わない少年。腰に剣を帯びているものの、留革を外していない。ということは、全くの無抵抗だったということである。
そして、少年の耳は、普通の人間の耳に比べて、先端が尖っていた。
彼が、人間とエルフの混血であることを物語っていた。
フェリアは少年に駆け寄る。
「お嬢様、おやめください」
そう言った下男の方を、フェリアはきっと睨み据えた。
「なぜ彼をここまで打ち据えたのです」
「それは―――」
口ごもった下男に、フェリアの怒りがぶつけられる。
「彼が、混血だから?」
男たちは一言もなかった。目の前の少女フェリアの耳も、少年と同じくわずかに尖っていた。
「…すぐに彼を館の中へ」
息を切らせて彼女を後を追ってきたメイド頭、ダリアに、彼女はそう命じた。
同日―――
二十三時十分―――
アドリア侯爵家、南棟玄関―――
大寺院での会議を終え、館の主マリュー・ド・アドリアはようやく自分の屋敷に戻って来た。馬車を降り、雪を払って屋敷に入る。…と、常ならこの時間でも飛んで来るはずの彼の異母妹、フェリアの姿が玄関に無かった。心配そうな顔で出迎えたメイド頭に、マリューは尋ねる。
「フェリアに、何かあったのか」
「そうではございません。しかし―――」
「どこだ」
メイド頭の言葉に、何事かあったことを悟ったマリューは、妹のもとへ急いだ。
フェリアの部屋の隣、大きな扉の部屋にマリューは飛び込んだ。フェリアの客用の居間を抜け、寝室に向かう。
「お兄様…」
心配そうな顔のフェリアが、ベッドの側から立ち上がった。マリューはフェリアが看ていたベッドに歩み寄り、一瞥して愕然とする。
「お兄様の…お知り合いですか?」
フェリアの言葉には答えず、マリューは暫く呆然としていた。
「―――誰が…これを?」
震える兄の声に、フェリアは言葉を失う。尋常な声ではなかった。
「―――正直に言え、フェリア。お前は知っているのだろう?」
フェリアは目に涙を浮かべて頷く。
「でも、言えばお兄様はその者たちを―――」
「当たり前だ!」
マリューの目にも、大粒の涙が浮かぶ。
「これが誰だか、お前は知るまい」
「どなたなのです」
マリューの顔は蒼白であった。
「―――我が師、アルウェン・レオンハルト・ソルフィーが、我が子同然に育てた最後の直弟子…我が弟弟子でもある、リーシェ・フランシスという男だ」
「!」
マリューはフェリアに言う。
「リーシェなら、その気になれば五百や千の男に囲まれても、その全てを斬り伏せることが出来る。俺の家の下人共など、物の数ではなかった筈だ―――。それを、何の抵抗もせずに―――」
後は言葉にならなかった。フェリアは、その時初めて、兄の涙を見た。
「―――師兄―――マリュー師兄―――」
少年の声に、マリューは枕元に顔を寄せる。青痣と傷だらけの顔で、リーシェは僅かに微笑む。
「―――お久しぶりです―――やっとお会いできた———」
「リーシェ」
マリューはリーシェを抱いて号泣した。
「許せリーシェ…俺が、俺がお前をこんなに―――」
リーシェは穏やかな声で言う。
「師兄が―――お悪いのではない―――のです―――。僕が―――混血だから―――」
リーシェは苦しそうに息をつく。
「―――みんなが―――怖がる———」
そう言って、リーシェは意識を手放した。
翌日―――
リーシェのベッドの側で、マリュー・ド・アドリアは跪いていた。
彼の眼前に、鬼のような形相をした彼の師、アルウェン・レオンハルト・ソルフィーがいた。
「―――先生―――どうか、どうか師兄をそんなに責めないで下さい―――」
「そなたは黙っておれ」
ソルフィーはベッドからか細い声で哀願するリーシェにそう言うと、マリューを烈火のごとく叱責した。
その様子を、リーシェは悲しげに見ていたが、無理に身を起こしてソルフィーに再び哀願する。
「先生…師兄を、マリュー師兄を―――そんなに、叱らないで…っ」
リーシェが咳込み、血を吐く。ソルフィーは怒りを忘れ、リーシェをかき抱いて再び寝かせる。リーシェはソルフィーに哀願を続ける。
「許してあげて下さい―――お願いします―――先生―――師兄が―――お悪いのでは―――」
「分かった、分かったから、もう喋るなリーシェ」
「私の―――目の前で―――許すと———ひとこと―――」
「ああ…!分かった、分かったから!マリュー、今回の件、リーシェのこの言葉に免じ、不問とする!――これでよいであろう、リーシェ?もう目を閉じよ、心配するな」
「ありがとう―――ございます―――」
リーシェは再び意識を失った。
マリューは教皇付きの癒し手を三名、館に呼んだ。若干二十一歳にして既に聖十字教国の宮殿騎士団、「テンプル・ナイツ」の長であり、一の使い手でもある彼が、早馬で教皇に要請を出すことは極めて稀なことであり、ことを重く見た教皇は即応した。それでも、身体中を痛めつけられたリーシェのダメージは大きく、結局丸一日の治療を必要としたのであった。
「お気がつかれまして?」
リーシェが目を開けると、目の前に美しい金髪の巻髪の少女がいた。
「―――貴女は―――?」
フェリアはにっこり笑うと、
「初めまして。―――私の名は、フェリア・ヴェア・アドリア。マリューの妹です」
「師兄の―――妹君」
リーシェがびっくりして身を起こそうとするのを、フェリアはそっと制した。
「リーシェ様、知らぬこととはいえ、当家の者が貴方様に危害を加えましたこと、誠に申し訳ございません。その罪、万死に値します」
リーシェは首を横に振る。
「僕の方こそ―――紹介状も、身分を示すものも持たず、師兄の名だけを出してお取次ぎを願ったのが無礼でありました。こうして命をお救い下さいましたこと、お礼を申し上げます」
リーシェはフェリアを見て、言う。
「―――どうか、僕を打ったご家来の方々を、罰することのないようにお願いいたします。皆、兄上様の忠実な、よいご家来衆です」
フェリアは頷くと、
「兄を呼んでまいります。―――それから、ソルフィー様も」
彼女は優雅に一礼すると、部屋から出ていった。二分もせずに、ソルフィーとマリューが部屋に入って来る。リーシェはまず二人に言う。
「ご心配をおかけしました。申し訳ございません、先生、師兄」
「何を言う、詫びるのは俺の方だリーシェ」
リーシェは首を横に振る。
「お優しい妹君が、ご看病くださったのですね。そのことにも、お礼を申し上げないと」
ソルフィーは頷く。
「フェリア殿が、そなたを救ったのだとうかがったぞ。あと少し遅ければ、そなたは死んでおったそうな」
「お恥ずかしい限りです」
マリューはリーシェに言う。
「とにかく、暫くはここにいてもらう。ここは俺の家だ、何の気兼ねも要らん。お前は、俺には弟も同じなのだから」
フェリアはリーシェが、自分を打った下男たちを罰しないように、と願ったことをマウに告げる。ソルフィーはその言葉に涙する。
「―――私が五年かけてやって来たことを、もう少しでそなたらは全て無にするところだったのじゃぞ。」
彼女はリーシェの頭を撫でながら言う。
「この子は、優しい子なのじゃ。何時になったら、何処に行ったら―――」
そう言ってソルフィーは溜息をつき、
「―――何処に行ったら、この子の安息の地が見つかるのだろうか」
フェリアはソルフィーに言う。
「剣聖様、暫くはこちらにいらしてください。」
ソルフィーはフェリアの言葉に、力なく笑う。
「そなたも、優しい子じゃな」
「私も、混血ですから」
言われて初めて、ソルフィーは彼女が混血であることに気付いた。ソルフィーは改めてフェリアの横顔を見つめる。美しい金の巻髪と、鮮やかな青い瞳をした美しい娘である。優しい表情をしており、見つめていると吸い込まれていきそうである。彼女は、ベッドの側の椅子に腰掛けて、リーシェの寝顔を穏やかな表情でじっと見守っていた。
「お兄様」
「何だ、フェリア」
「こちらにいらっしゃる間は、リーシェ様のお世話は私が致しますわ」
マリューは妹を見る。ややあって、マリューは微笑むと、
「分かった。好きなようにしていいぞ」
といった。
それから一週間。
リーシェの傷は日を追うごとに回復し、普通に体を動かすことができる程度に回復した。フェリアはそんなリーシェと二人で、アドリア侯爵邸の庭園を散歩するのを日課にしていた。
リーシェはフェリアに腕を与え、雪の庭園を眺めていた。
「何度見ても、素晴らしいお庭ですね」
「ありがとうございます」
リーシェの腕につかまりながら、フェリアはそう答える。そんな二人の様子を、メイド頭や屋敷に仕えるメイドたちは嬉しそうに眺めていた。フェリアはそれまで、何時も一人で寂しそうにしていることが多かったが、リーシェが来てから非常に表情が明るくなった。
「お嬢様は、リーシェ様がおいでになられてから、とても明るくなられましたね」
若いメイドの言葉に、メイド頭のダリアは頷く。執事のトゥッサンも、黙ってうなずいた。
カラカラ…と馬車の音がして、マリューが屋敷に戻ってくる。馬車からはマリューと共に、ソルフィーも降りてきた。そしてもう一人、赤い帽子をかぶった僧形の貴族が、馬車を降りてきた。
「猊下、彼でございます」
マリューは赤い帽子の僧に言う。
「妹御と、共におられる方か」
「然様でございます」
僧はフェリアと談笑するリーシェを、遠くからじっと眺めていた。そして、小さく呟く。
「恐怖と…哀しみ、か」
ソルフィーは僧の言葉に頷く。
「剣聖殿も、そう思われるか」
「ヨハネス枢機卿のお見立ての通りかと」
聖十字教国の教皇直属の枢機卿は十二名いる。その中でも、教皇の信頼が最も厚く、次期教皇に最も近い、聖十字教国の柱石とも呼ばれるヨハネス枢機卿は、再びリーシェとフェリアに慈愛に満ちた目を向ける。
「彼の本性は、優しさに満ちているようにお見受けする…しかし彼は幼少のころから、我々の想像を絶するような苦しみを味わってきた様ですな」
「お分かりになりますか」
ヨハネス枢機卿は頷く。
「然りじゃ、マリュー。彼と同じような寂しさと悲しみを抱えた妹御と、それゆえ引き合うものがあるのであろうよ」
枢機卿はソルフィーに言う。
「腕は、マリューとどちらが上であろうか、剣聖殿」
ソルフィーは即答する。
「今はマリューの方が上です」
「今は、か」
ソルフィーはマリューを見る。頷くと、マリューは答える。
「十年―――いや、七、八年後には、彼は私を凌ぐであろうとも思います」
「弱気なことだ、常のそなたにも似ず」
ヨハネス枢機卿は、苦笑しつつも穏やかに言う。マリューは、リーシェは天才です、という。
ソルフィーはヨハネス枢機卿に言う。
「お出ましを願ったのは、他でもありません。あの者を、聖十字教国の魔法学院で学ばせて頂きたいと思っておるのです」
ソルフィーは、リーシェと初めて出会った時のことをヨハネス枢機卿に話した。ヨハネス枢機卿の顔が一瞬強張る。剣の腕もさることながら、それだけの精霊魔法の力を秘めているとなると―――
「成程、感情や理性によって、魔力を制御する術を学ばせないと危険、とのご判断か」
「然様です」
あの子にそんな危険があろうとは、こうして見ていると思えないのだが―――。
そんな思いでヨハネス枢機卿は再びリーシェとフェリアを眺めた。…と、リーシェが庭から車寄せの方に振り向く。ヨハネス枢機卿は、そのリーシェの気の鋭敏な変わりように舌を巻く。
「お二方の見立て、危惧はどうも正しいように思われる」
ヨハネス枢機卿は気を和らげる。それに反応するように、リーシェはフェリアの手を取り、ゆっくりと車寄せの方に近づいてくる。ヨハネス枢機卿が見せた一瞬の警戒心に反応して、リーシェの気の「色」が一気に変わったのを、ヨハネス枢機卿は見逃さなかった。
「枢機卿猊下には初めて御意を得ます」
「ヨハネスじゃ。リーシェ殿と申されたかな、若き剣士殿」
「御意」
ヨハネス枢機卿は、リーシェに言う。
「そなたと一度話をしてみたくてな。剣聖殿から、そなたを魔法学院に入学させて欲しいとのお願いがあったのでな」
リーシェの顔が輝く。
「言ってみれば、入学の面接試験をしに来たようなものじゃ。時間を頂けようか」
「喜んで、猊下」
リーシェの顔が明るく輝く。フェリアはそんなリーシェを、眩しそうに見ている。
「猊下、外は寒うございます。中で熱い茶でも」
「おお、そうであった。馳走になるぞマリュー」
五分ほど後、庭園の雪景色を眺められる居間―――。
暖炉の傍、小さなテーブルを囲んで、ヨハネス枢機卿、マリュー、ソルフィー、リーシェそしてフェリアの五名が、お茶とお菓子を楽しんでいた。
「焼菓子は、フェリアが作りましたものでございます」
マリューの言葉に、枢機卿は目を細める。
「お上手ですな、フェリア殿」
「ありがとうございます、猊下」
枢機卿はリーシェとソルフィーに言う。
「魔法学院の件だが」
「はい」
紅茶をひと啜りして、枢機卿は満足そうに目を細める。
「君の素質は非常に素晴らしい。剣聖殿のお話をうかがったが、是非とも君を入学させたく思う。だが、私の一存だけで許可を出すことは出来ないのだ。」
リーシェの心配そうな顔を見て、フェリアは悲しそうな顔をする。二人を見ながら、ヨハネス枢機卿は笑って言う。
「何、心配は要らぬ。私から法皇様にお願いしよう。剣聖殿、お手数だが彼の紹介状を書いては下さらぬか」
「お安い御用です、猊下」
マリューも枢機卿に言う。
「猊下、私が身元引受人となりましょう。彼の人物を、私も保証いたします。
ヨハネス枢機卿は満足気に言う。
「それで許可が出ぬはずがないわ。安心されよ、リーシェ殿」
リーシェはその場に跪く。
「猊下、ありがとうございます。私が生きてある限り、私の剣は聖十字教国に向けられることはございません。ここにお誓い申し上げます」
枢機卿は苦笑して言う。
「それは非常に光栄なこと。だが、ちと早い。私が君の入学を勝ち取って来てから、改めてその誓いを受けることにさせていただこう、リーシェ殿」
リーシェはこうして聖十字教国の誇る魔法学院の生徒になった。元々極めて高い精霊魔法の素質を持っていたことに加え、古代語魔法についても素養があり、非常に熱心なリーシェは、すぐに学院中の教官の注目を浴びることになった。それでなくても、最年少の生徒の一人である。物珍しさもあり、リーシェの周囲には常に人が集まっていた。
魔法学院で学び始めてからひと月。その日も、リーシェは何冊もの古代語魔法の魔導書を机の上に積み、熱心にノートを取っていた。細く柔らかな彼の筆跡が、サラサラ…と紙の上に美しい文字を刻んでいく。
「リーシェ様」
聞き慣れた優しい声に、リーシェは顔を上げる。白地に赤い十字架を染め抜いた、彼と同じ制服を着たフェリアの姿が、彼の目の前にあった。
「フェリア様」
フェリアはにっこり笑ってリーシェの側に座る。
「ここの学生でいらっしゃったのですか」
フェリアは頷く。リーシェが読んでいた魔導書を見て、彼女は目を丸くする。
「まあ、こんな難しい魔力付与の本を―――」
リーシェは頷く。
「いずれ私も、優れた剣を手に入れたいと思っているのです」
「でもリーシェ様が今お使いの剣は、名高い『両刃のローラン』ではないのですか」
リーシェは頷く。
「マリュー師兄の『エストラ』のような名剣を、手に入れたいのです」
フェリアとリーシェはそうして暫くの間談笑していた。
リーシェが虚空に指でサラサラ…と古代語の文字を書く。目の前に置かれた鋼の剣の上に、銀色のルーン文字が刻み付けられる。クラスの生徒たちは息を飲む。教官達は感嘆の溜息を漏らす。リーシェは剣を手に取ると、助教が二人がかりで運んで来た鋼鉄の鎧を、居合抜きで一閃する。
鎧は見事に真っ二つになる。
剣を調べるリーシェ。
剣には、刃こぼれ一つない。
「見事じゃ、リーシェ・フランシス」
主任教授が賞賛の言葉を投げかける。
「魔力付与に関しては、本当にめざましい進歩じゃな」
「ありがとうございます」
リーシェは弱冠十二歳だったが、あっというまに魔法学院でも指折りの生徒になった。そのリーシェの頑張りに刺激を受けたのか、フェリアは治癒・結界等の魔法に関して極めて高い理解度を示し、彼女もリーシェとともに上位を争うまでになっていた。
二人はその日もともに馬車に乗り、アドリア侯爵邸に帰って行った。
馬車の中でフェリアは、右に座ったリーシェの横顔を眺めながら言う。
「強化の魔法もそうでしたけれど…リーシェ様の居合抜きは、凄いです」
リーシェは少しはにかんで答える。
「ヴィシリエン最強のグランドマスター、赤騎士マリュー師兄の妹君にお褒めを頂くなんて」
「私は」
フェリアは続ける。
「兄の剣より、リーシェ様の剣の方が好き」
「何故です」
「兄の剣は、力任せなのですもの。リーシェ様の剣は、ずっと繊細ですし、美しいですわ」
リーシェは西に傾いた淡い冬の光を浴びながら、フェリアに言う。
「美しくても、弱い剣では、実戦では役に立ちません。見た目が美しくなくても強ければ、その強さこそが美しさになるのです」
彼は、前を向きなおして言う。
「力が無ければ、正義を口にしてもなんの意味もありません。ーーー愛するものはおろか、己の身を守ることすらできない」
フェリアはリーシェの横顔をじっと眺めていた。
「お母様を殺された…そううかがいましたわ」
フェリアの言葉に、リーシェは頷く。
「鮮明に覚えています。母は、僕を庇って石飛礫の雨に打たれ、命を落としました。」
リーシェの身体から、一瞬血のような赤い色の気が立ち昇る。フェリアはリーシェを見つめ続ける。その気はそれまでと全く変わらなかった。春の淡雪のような、純白の柔らかな気が彼女を包んでいた。
「…怖くないのですか」
フェリアは首を横に振る。その瞳には、大粒の涙が浮かんでいた。その涙に触れたリーシェの気が、一瞬で高い空のような透明な澄んだ青い色に変わる。
リーシェは手布を取り出すと、彼女の涙をそっと拭いてやる。リーシェの透明な澄んだ青色の気が、彼女の純白の気にそっと触れ、それを包み込む。包まれた純白の気が、徐々に春の桜の花のような美しく柔らかいピンク色に変わっていく。
いつしか二人は夕焼けの光が差し込む馬車の中で、固く抱き合っていた。静かに閉じられた二人の目からは、涙が流れていた。
アドリア侯爵邸、道場ーーー
ソルフィーとリーシェが、真剣を手に向かい合っていた。
裂帛の気合いととともに、ソルフィーがリーシェに攻撃を仕掛ける。
どこからどう見ても、一切の手加減は無い。妥協も見られない。完全に「本気」の一撃であった。
マリューにはそれが瞬時に理解できた。
控えてそれを見ているマリューは、ソルフィーがリーシェを本当に殺すのではないか、と疑った。
グランドマスターを許された己であっても、この一撃を受けられる自信は無い。
無理だ、リーシェは斬られる。
そう思った一瞬彼は己の長刀に手をかけ、驚きでそのまま硬直する。
リーシェに襲いかかったソルフィーの金色の剣気を、リーシェの深い、静かな青の気が全て受け止め、あろうことか全て吸い尽くした。リーシェは全くの無傷で師の必殺の一撃を受けきった。
手ごたえがないことに一瞬ソルフィーが驚きの表情を見せたその瞬間。
満ちたリーシェの気が、津波のようにソルフィーに襲いかかる。
広い道場を、竜巻のようなリーシェの気が荒れ狂う…といっても、それはただ荒れ狂うだけでなく、静かな落ち着きと理性によってコントロールされ尽くした理性的な一撃であった。
真後以外の全ての方角を塞がれ、ソルフィーは防御を固めただ後退することを余儀なくされた。
全方位からのリーシェの攻撃を同時に受けるよりはましであったが、彼女は一つに合流したリーシェの剣気による攻撃をまともに受ける他なかったのであった。
ソルフィーは2メートルほど後ろに吹き飛ばされ、背に壁を背負った。
防御を固めた剣が、彼女の愛刀「黄金の精霊王」でなかったら、彼女は間違いなくその一撃で両断されていたであろう。彼女の頬を、脂汗が一筋流れ下る。それは見ていたマリューも同じことであった。
自分がリーシェと対峙したならば、必殺技、「クリムゾン・ストライク」で、リーシェを倒せていただろうか。
否。必ず倒せる保証は、全く無い。
技を放った後の自分が、もしあそこで彼の一撃を受けていたら―――
マリューは戦慄する。左の肩口から、心臓まで致命の一撃を受ける己の姿が、彼の脳裏に浮かんだ。
マリューはぞっとする。リーシェは、と見ると全く隙なくソルフィーに正面から相対している。
「マリュー」
ソルフィーは声をかける。
「はっ」
「次の学院の休みに、リーシェを宮殿騎士団の道場に連れて行け」
リーシェはソルフィーの言葉に、一礼して剣を立てる。ソルフィーも同様に剣を立てて礼をすると言う。
「フェリア様が先程からお待ちじゃ。行って汗の始末をせよ」
「ありがとうございました」
リーシェは、澄んだ、落ち着いた、そして優しい深い気を満々と湛えていた。扉の所で彼を待つフェリアの気は、柔らかな春の桜の花を思わせる様な、薄い薄いピンク色の優しい気に満ちていた。
「先生」
マリューがソルフィーに駆け寄る。ソルフィーは深々と息を吐く。
「…一瞬、一瞬じゃが―――死んだと思ったぞ」
マリューは頷いた。
「先生が、リーシェをお斬りになるかと思いました」
ソルフィーは頷く。
「完全に、そのつもりで行ったのじゃ」
「…魔法学院にいる間、剣を握っていないはず…」
マリューは訝る。
「今日のリーシェは、これまでとは全く別人です。すでにグランドマスターのレベルにあると思います」
ソルフィーは少し寂しそうな顔をして言う。
「そうじゃな」
マリューは師の言葉に驚きを隠せない。
「理由がお分かりになるのですか?」
ソルフィーは笑って言う。
「なんじゃ、鈍いのう」
「勿体ぶらずに教えてください」
ソルフィーは言う。
「フェリア殿のおかげじゃ。」
「フェリアの?」
ソルフィーは頷く。ソルフィーはマリューを手招きする。ソルフィーの側にやって来たマリューに、ソルフィーは庭を指差し、言う。
「…説明するより、見た方がはやかろう」
いつもの様に、リーシェはフェリアに手を与え、庭の雪景色を眺めながら歩いている。
「感じてみよ。一目瞭然じゃ」
マリューは瞳を閉じる。
ややあって、そうか…と疑問が氷解した、という顔になるマリュー。
「ことこの分野に関しては、そなたにマスターをやるわけにはいかん様じゃの」
「ほっといて下さい」
マリューも笑う。
「しかし、まさかフェリアが―――」
共鳴したのじゃ、そうソルフィーは言う。そう言ったソルフィーの顔には、一抹の寂しさがあった。彼女が何年もかけてできなかったことを、あの少女はやってのけたのである。一方でソルフィーは、フェリアの中にあった悲しみもまた、癒されていることを感じていた。それは明らかにリーシェの気が行ったことである。事実、二人は見た。桜色の柔らかいフェリアの気を、美しい空色のリーシェの気がそっと包み込んでいるのを。時折二人の気は少しずつ近づき、くるくる…とお互いを慈しむ様に絡み合う。一方で、絡みあっては解ける。お互いを傷つけることを、恐れるかの様に…。
「先生」
「何じゃマリュー」
「…リーシェを、フェリアの婿にいただくわけには、行かないでしょうか」
「珍しく意見が合うではないか」
ソルフィーは頷いた。
「だが、ここも含めて北方は、混血には暮らし辛かろう」
マリューは頷く。
「できれば、もっと混血に寛容な土地―――国に仕えさせ、嫁として迎えさせる方がよかろうと思うのじゃが」
「聖十字教国に仕えさせることに、拘りはございません」
マリューは答える。
「あれが幸せにさえなってくれれば」
「ま、いずれにせよまだ二人とも若い。学ぶべきことも多い。実際は暫く先のことになろうが」
「私としては、異存はございません。むしろこちらからお願いしたいくらいです」
「これでリーシェは、名実ともにそちの義弟ということになるな」
マリューは嬉しそうに頷く。
「間違いなく、ヴィシリエンで最強の兄弟ということになりましょう」
ソルフィーも満足げに頷く。
「お寂しくは、ありませんか」
ソルフィーはそう言ったマリューに、言い返す。
「何じゃ、そんなところばかり妙に鋭いではないか」
「妹にとっては、姑の様なものですからな」
ソルフィーは苦笑し、
「そなたの妹では、虐めるわけにもいかぬ。…それに仮にでもそんなことをしたら、リーシェに殺されかねんわ」
そう言ってからソルフィーは溜息をつき、
「私の婿に、という訳にも…行かぬだろうしな」
と言った。
魔法学院…
308号教室、生徒控室―――
フェリアは年長の女子生徒四名に囲まれていた。
最近成績を上げてきているフェリアとリーシェは、一部の同級生たちから目の敵にされ、陰湿な嫌がらせを受けていた。
フェリアの目には涙が浮かんでいる。しかし、彼女は声を上げて泣くことはしなかった。
「生意気な娘」
そう言うと、同級生のうち年長の女子生徒の一人が杖を一振りする。そこに小さな蛇が現れた。
「ちょっと、アレクサンドラ、いくら何でも―――」
一人の生徒がアレクサンドラと呼ばれたその娘に言うが、娘は冷酷な視線を声の主に向ける。
「そう。黙ってればいいのよ。私はこの生意気な混血の娘を許しはしないわ」
蛇は鎌首をもたげ、今にもフェリアに飛び掛かろうとしている。頭が三角のその蛇が、噛まれれば最悪命にかかわる毒蛇であることは、学院の生徒ならだれでも知っていた。
「一番は、この私以外あり得ないのよ」
静寂の魔法で声を封じられ、何の抵抗もできないフェリアには、ただ恐怖に震えることしかできなかった。
「痛い目にあわせてあげるわ」
嗜虐的な微笑みを浮かべ、アレクサンドラが小さな魔法の杖を振り下ろす。
蛇がフェリアに飛び掛かり、彼女は恐怖に目を閉じる。
カツッ!
と音がした。フェリアは恐る恐る目を開ける。
彼女に飛び掛かろうとしていた毒蛇は、極細の短剣によって貫かれ、壁にピン止めされてもがいていた。
リーシェ様。
フェリアは声の出ない口でそう叫んだ。リーシェは一瞥してすべての事情を理解した。
「薄汚い混血、またお前か」
リーシェに向け、アレクサンドラは静寂の魔法を放つ。…が、その魔法は完成しなかった。
「ば、馬鹿ななぜ」
「音は何によって伝わるか、知っているかい」
リーシェはアレクサンドラ達四人に言う。リーシェが部屋に一歩踏み込むと、彼女たちは三歩後退する。
「そう、空気の振動だ。」
リーシェは説明しながら部屋に進み入る。そして、フェリアを背にして彼の身体で庇った。
「では、なぜ僕に静寂が効かないのか、分かるかな?」
一人の娘が後退し、ドアから出ようとする…が、ドアにかけようとした左手の指先から、鮮血がしぶく。悲鳴を上げ、娘はドアから離れ部屋の中に逃げ戻る。
「―――無理に押し通ろうとすると、真っ二つになるよ」
アレクサンドラは事態を悟った。
「『精霊魔法』」
「ご明察」
リーシェはにっこり笑う。
「君達四人は、暫くこの部屋にいてもらうよ。教頭先生辺りを連れて来ることにしようか」
「混血風情に、何ができる」
アレクサンドラは空中にルーン文字を描き、『致死の雲』の呪文を唱えようとする。しかし、書き終わったルーンは発動しない。アレクサンドラの詠唱は、音の形で現れることはなかった。
「馬鹿な、一体何を」
「自分たちが彼女にしたことだろう?」
リーシェはフェリアを連れて、鎌鼬が荒れ狂う部屋の入口まで連れてきた。不思議なことに、リーシェがフェリアを抱きかかえるように部屋から出すとき、彼女は傷一筋も負わなかった。
「ではさようなら、アレクサンドラ」
リーシェは部屋を出る。待て!とアレクサンドラは叫び、部屋の入口に魔法の杖を伸ばす。その杖は、鎌鼬によって真っ二つにされた。
「ああ、いい忘れた」
リーシェは部屋の中に残った四人に言う。
「窓は全てロックされているようだね」
「それがどうした」
「じゃ、『精霊の静寂』を解くよ」
リーシェは笑って言う。
「どうなると思う?」
四人は空中に浮かぶルーンを見る。アレクサンドラの背を、冷たいものが走った。
「ま…まさか」
「私の詠唱が、音としてよみがえるってこと?」
リーシェは笑う。
「さすがは優等生、聡いね。察しが早くて助かる」
四人の顔に、恐怖が張り付く。
リーシェはフェリアに言う。
「教頭先生を呼んできてくれませんか、フェリア様。もっとも…」
彼はそこで一度言葉を切る。
「…あなたが呼ばなくていい、というのなら、このまま解きますが」
フェリアは首を横に振る。リーシェは優しい顔で頷く。そのままフェリアは風のように走り去った。
「優しい方だ」
リーシェはそう言って、部屋の中の四人を振り返る。
「まるで春の淡雪のような…純白の、穢れのない優しい心―――。」
二分もせずに、五名の教官がやって来た。リーシェは自分の杖を教頭に手渡す。教頭は部屋の中のアレクサンドラに言う。
「どういうことだ!なぜそんな魔法を使ったのだ!」
リーシェは答える。
「『薄汚い混血が、自分より成績が良いのが生意気だ…』と、そうおっしゃいました」
リーシェは奥の壁の毒蛇を指さす。
「詳しくは『精霊の静寂』を解けば分かります。時系列順に、彼らの話が聞けるでしょう」
教頭は苦笑してリーシェに言う。
「いつものことだが、君は恐ろしい男だな」
「様々な修羅場を潜っております。―――師兄の妹君を、死なせるわけにはいきませんので―――」
リーシェは教頭に言う。
「彼らは、古代語魔法を弄び、気に入らない者をこうして魔法で葬ろうとする」
リーシェはアレクサンドラが『致死の雲』のルーンを描き終わったところで、再び精霊の静寂を有効にする。
「いかがいたしましょうか。このまま、ルーンを発動させますか」
「それはいかん。彼女の家は大諸侯だ、問題になりかねん」
「しかし、彼女は明らかに魔法を学ぶ資質に欠けます」
リーシェはそう言い切った。
「私は殺さぬように、傷つけぬように彼らを捕えましたが、さすがにこうも繰り返されるとうんざりです。」
「『致死の雲』は、さすがにまずかろうな」
「とりあえず、自由にさせると何の魔法を使うか分かりません。私達憎さに、この学院に悪疫でもふりまかれたら、それこそ大問題でしょう」
そこに、学院の院長が現れた。院長は手にした水晶玉をひと撫でし、その中を覗きこむ。暫く眺めた後、フェリアに言う。
「リーシェに、礼は要ったのかね」
「いいえ、『静寂』で声を封じられていましたので」
次にリーシェに言う。
「怒りに任せて彼らを惨殺せなんだこと、成長されたな」
「蚊に刺されそうだ、と言って怒り狂うのも、愚かなことですので―――」
「成程、蚊か」
院長は頷くと、魔法の杖を一振りする。空中に黒いルーンが浮かぶ。院長は魔法の杖を振り下ろす。アレクサンドラの絶叫が部屋に響き渡る。院長が非常に強力な強制の魔法を使ったことを、リーシェは悟った。
「残念じゃ、アレクサンドラ」
院長はそう言うと、アレクサンドラの前に立つ。
「そなたの資質はこの学年でも最上位じゃ。しかし、惜しむらくは心が未熟…わしがそれを解くまで、そなたには魔法そのものの使用を禁じねばならぬ」
アレクサンドラは歯をくいしばり、院長を見上げる。院長は悲しげな表情で、こう続けた。
「魔法を学ぶ目的は何じゃ。…他人より強い力を持つためか。他人を自らの足元にひれ伏させるためか。そうした目的のためにだけは、魔法を使わせるわけにはいかんのじゃ」
リーシェも悲しげな表情をする。院長はリーシェを見ると、アレクサンドラに言い聞かせる。
「何故だか、わかるか?」
アレクサンドラは呻く様に言う。
「魔王の、思想…」
「そうじゃ。それがわかっておって、何故この様なことをした」
アレクサンドラは言葉もない。
「一度魔法大戦の如き大戦が起これば、魔族たちを退けるには人間、エルフ、ドワーフ、その他各種族の協力が不可欠じゃ。そなたのやったことは、それにも反する」
「リーシェ」
院長はリーシェに頭を下げる。
「アレクサンドラを殺さずに、場を収めてくれたこと、礼を言うぞ」
「彼女はこの国の宝たる人材です」
リーシェは笑って院長に言う。
「大いに、怒りや恐怖に飲まれない練習に練習になりました」
「それは重畳」
「ただ」
リーシェはアレクサンドラに言う。
「僕にならいいが、フェリア様に次に何かしたら、殺すよ」
彼は剣気を解放する。アレクサンドラを含め四名の女生徒は、皆蒼白になり、その場に崩れ落ちる。息をするのも困難な四人に、リーシェは言い放つ。
「実のところ、君たちの様な手合いは、斬り捨てる方がはるかに楽なんでね。『君達がどんな家の人か』は、僕の足止めにはならない。嘘だと思うなら、一軍隊僕に差し向けるがいい」
「その位にせよ、リーシェ」
院長はリーシェを制止する。
「彼女らも、流石に五百や千の兵で、そなたを撃てるとは思わんじゃろう。」
リーシェは剣気を収める。そして、フェリアに言う。
「お怪我は、ありませんか」
「ええ…。貴方は、リーシェ」
リーシェは頷く。彼は全くの無傷であった。これに類する嫌がらせは何度かあったが、その度にリーシェはフェリアを守り、傷を負わせないようにしていた。
リーシェがロードポリスに入ってから五ケ月。
厳しい冬が終わり、美しい五月が近づいてきていた。
魔法学院では、一時期あった混血への嫌がらせも落ち着き、リーシェとフェリアは平穏な毎日を送っていた。
毎年恒例の「五月祭」が近づき、学院では様々な催事が行われることになっていた。その中に、「春の精霊祭」というものがあった。
学院の女子生徒の中から、春の精霊が何名か選ばれ、「五月祭」のいわば主役として様々な役割を果たすことになっていた。
いつものようにリーシェは、書庫から借りてきた魔力付与の分厚い魔導書から、一心にノートを取っていた。ただし、場所は柔らかな春の日が差し込む中庭をのぞむテラスであった。
「リーシェ」
何名かの上級生の娘たちが、リーシェの所に宣伝のチラシを持ってくる。「春の精霊祭」で、自クラスの代表の娘への投票をすすめる宣伝チラシであった。
「宜しくお願いね」
「がんばって下さい」
リーシェは愛想を振りまくと、再びページを繰り、ペンを走らせる。そこへ、アレクサンドラがフェリアと他の女子生徒たちを伴い、やって来た。
「リーシェ、またここにいたの」
「やあ、アレクサンドラ…みんなそろって、どうしたの」
「選挙運動よ」
娘たちは、輪の中心で花の冠を被せられ、はにかんでいるフェリアをリーシェに見せる。
「ウチの組の代表は、彼女にお願いしたわ」
「君じゃないのかい」
リーシェはアレクサンドラに言う。
「柄じゃないわ」
アレクサンドラはさらりと言う。
「それに、こうした催しは勝たなければ面白くないもの。私が負けず嫌いなことは、貴方が一番よくご存じのはずよ」
「で、彼女を代表に?」
学級書記のレオノーラが頷く。
「一番勝てる可能性が高い女の子を、代表に選んだつもりよ。リーシェはどう思うの?」
レオノーラはリーシェの側に新しく置かれたチラシを見て、憤慨する。
「…また三年生のオバサン達が、リーシェを誑かしに来たのね。腹が立つわ」
リーシェは苦笑して言う。
「フェリアが出るなら、勿論投票するよ」
アレクサンドラは満足気に頷く。
「安心ね。貴方は嘘をつかないもの。これでまた一票上乗せできたわね、みんな」
娘たちはわいわいと楽しそうにおしゃべりしながら、別の男子の方に歩いていく。リーシェはフェリアがクラスの友人たちの中に溶け込んだことに安心していた。
不意に、リーシェのテーブルに人影が近づく。
「ご一緒していいかい、リーシェ・フランシス」
リーシェのテーブルにやって来たのは、サイモン・フィッツジェラルドであった。同学年の男子生徒の中でも思慮深く、多くの科目で優秀な成績を取っていた。
「どうしたんだい、サイモン」
「アレクサンドラに追い回されて———」
「なら話は早い。ウチのクラスの代表に、一票お願いできないか」
リーシェはサイモンに頼む。
「君からそんなことを言われるとは思わなかったよ」
サイモンはそう言って笑う。リーシェも苦笑する。ひとしきり笑うと、サイモンは表情を改める。
「―――どうも北方が凶作らしい。恐らく今年は、蛮族が侵入してくるだろう」
リーシェの顔色も変わる。
「どの筋からの情報だ」
「大きな声では言えないが」
とサイモンは言う。
「地誌学の教官が、聖ヴルム大聖堂からの情報だと言っていたんだ」
大聖堂からの情報ならば、信憑性は高いだろう。食料が乏しくなると、北方の蛮族たちは直ぐに北方諸都市やこの聖十字教国を襲う。南東に大国ウィルクスを迎え、北方からは蛮族の侵入を受け、聖十字教国はやや苦しい立場に置かれることが多かった。宮殿騎士団の長たるマリューは、ウィルクスの主力軍を迎え撃つため、北方からの蛮族に対してどうしても手薄になってしまう。
「―――せめて、五月祭の間だけでも、平穏であってほしいのだけれど」
「僕もそう願いたいよ」
サイモンはそう言って、メイドに手を上げる。やって来たメイドに、紅茶を頼むサイモンに、リーシェは言う。
「もし蛮族が来たら、どうするつもりだい」
「―――国を守って戦いたいが、…迷っているんだ」
リーシェは暫く考えていたが、ノートを閉じると、ブックバンドで魔導書とひとまとめにする。
「仮に蛮族がこの国を襲うなら、僕は師兄を助けて戦うつもりだよ」
「君はマリュー様の弟弟子なんだろう?」
リーシェは頷く。
「一宿一飯の義理もある。大恩ある、ヨハネス枢機卿猊下の為にも、この国を蛮族に蹂躙させるわけにはいかない」
「君は強いな」
サイモンはそう言ってため息をつく。
「僕は恐ろしい…。戦うのは、怖いよ」
リーシェは頷く。
「その通りさ。戦うのは、僕だって怖い」
「君でも、怖いのかい」
「ああ怖いさ。強力な力を振り回せば、それに魅せられたり、飲まれたりするものだ。そうすれば待っているのは、破滅だ」
サイモンはリーシェの言葉をじっと聞いている。
「―――サイモン、君なら恐らく、学んだ魔法の知識を生かして、大いに国の役に立つことだろう。絶対に生き残ってくれ、僕たちが必ず守る。君は無理に戦うことはない」
「リーシェ」
サイモンは口を開く。
「今でこそ、ああだけれど―――君はあのアレクサンドラを守るために戦えるのかい?」
「?」
「あんなに君やフェリアに酷い嫌がらせをした奴を、守って戦うというのかい?」
リーシェは苦笑して言う。
「今は違う。彼女もまた、この国の宝だ。この国の頭脳になりうる女性だ」
「本当かなあ」
リーシェはサイモンの言葉に頷く。
「だいぶ時間はかかったが、僕たちのこともある程度は理解してくれたようだし―――何より、僕やフェリアの力は、認めてくれている。」
「そうだね。その辺は、なんだか以前とだいぶ変わった様だ」
サイモンはリーシェにも紅茶のカップを渡し、自分がまず一口。満足げに頷くと、
「父から『宮殿騎士団』にどうか、との話があったのだが、君の話を聞いて、ここを卒業してからにすることにしたよ」
「魔法に精通した聖騎士になれるさ、君なら」
「その時は僕に剣を教えてくれないか。君がその時もこの国にいれば、の話で結構だが」
「僕が先生と共にこの国を去るときは、マリュー師兄にお願いしておくよ。」
サイモンは礼を言って去っていった。
学院からの帰りの馬車で、フェリアはリーシェに愚痴を言っていた。
「私が『春の精霊』なんて、あるわけないのに」
「そんなことはありません。お似合いになるでしょう」
「もう、リーシェ様ったら」
フェリアは膨れて見せ、リーシェの頬を指でちょん、とつつく。リーシェはクスリ、と笑う。
「僕はフェリア様に投票するつもりです」
「まあ、本当に?」
フェリアの顔が薔薇色に染まる。
「ええ」
リーシェはにっこり笑って頷く。
「フェリア様が一番です」
「嬉しい」
フェリアはリーシェの首に腕を回すと、キスをする。
「アレクサンドラは、大分変ったわ」
「そうですね」
「嫌がらせをしなくなったのは暫く前からだけれど―――今回は、積極的に私の味方になってくれている。そんな気がするの」
「フェリア様も、そう思いますか」
「リーシェ様も?」
リーシェは頷く。程無く馬車はアドリア侯爵邸に到着し、二人は馬車を降りて西館に戻る。お帰りなさいませ、と使用人たちが二人を出迎える。
その後ろから、マリューが現れた。
「リーシェ、待っていたぞ。フェリアは学院でいい子にしていたか。お前を困らせたりしなかったか。」
「酷い、お兄様!私をいつも子供扱いして!」
リーシェはフェリアが魔法学院の五月祭で「春の精霊」の候補になっていることをマリューに告げた。それはすごい、とマリューは目を細める。
「本当に選ばれたら、名誉なことだ。お祝いをしないとな」
「あのアレクサンドラが、フェリアの後ろ盾になって選挙運動をしているのです」
「それは驚きだ。―――彼女も、大分物が見えてきたようだな」
「はい」
リーシェはマリューに、着替えて参ります、と言うと、自分の部屋に戻っていった。リーシェが部屋に戻ると、マリューは妹に言う。
「フェリア」
「はい」
「学校で何か、噂を聞かなかったか」
「蛮族の件ですか」
マリューの顔が険しくなる。
「どこで聞いた」
「学校で情報通、という娘たちから。上級生たちの中でも、なんだか今日はその話ばかりでしたわ」
「分かった。―――お前も着替えて来なさい。」
「はい」
マリューは居間のソファに身を沈め、林檎酒のグラスを傾ける。まさに彼が頭を痛めているのは、その蛮族の動きについてであった。
「どうなさいました、師兄」
「おお、リーシェ」
マリューはリーシェにもグラスを与え、自分の隣に座らせる。頂きます、と言ってリーシェは一口林檎酒を含む。アルコールに交じって、微かに林檎の甘い香りがリーシェの口を満たした。リーシェの表情に、マリューはにっこり頷き、グラスに半分くらい酒を満たす。
「こら、マリュー」
マリューは戸口から聞こえた声に肩を竦める。
「私のいない隙に、リーシェにそんなものを飲ませおって…!」
「もうお戻りだったのですか、先生」
「なんじゃ、私がいては邪魔だとでも言いたいのか」
「いえいえ、先生もどうぞ」
ソルフィーは一人掛けのソファに身を沈め、マリューが持ってきた三つ目のグラスに口をつける。
「リーシェ、どうであった」
「いいお酒です。この香りが、なんだか懐かしい」
いとおしむようにグラスを掌で温めるリーシェに、ソルフィーは苦笑して言う。
「そなた達にも、困ったものじゃ」
「リーシェはれっきとした戦士です。もう立派に成人とみてよいでしょう」
「そうではないわ」
ソルフィーは表情を改める。
「北方の蛮族に、動きがあったのであろう」
マリューも表情を改めると、頷く。彼は傍らの地図を引き寄せると、テーブルに広げて見せる。リーシェとソルフィーはソファから身を乗り出して、地図に見入った。
北方の蛮族の中でも最も性格が荒く、多くの戦士を抱える、ズアーヴ族を中心として、多数の蛮族が南下を始めた、との報告が、昨夜ロードポリスにもたらされた。その件でマリューは難しい判断を要求されていたのである。南東に国境を挟んで、聖十字教国はウィルクス軍と対峙している。ウィルクス王国の宮殿騎士団である「アルファナイツ」と並び恐れられている、彼の使い手、魔戦将軍フィルカス・ドワイトフォーゼ率いる「黒の軍団」が、対聖十字教国の最前線に出てきていた。フィルカスに対しては、マリューが出張らないとなかなか五分には戦えない。しかしマリューがウィルクス戦線に出陣すれば、北から南下する蛮族は他の将に任せねばならない。蛮族だけならさほど恐れることはないが、それにさらに北方からの魔族が加われば、とんでもないことになりかねなかった。
「下手をすれば、魔導大戦…とまでいかなくとも、それに近い惨状も予想されます。」
ソルフィーは頷く。リーシェはマリューの横顔をじっと眺めていた。