浅野君の嫌いなひと
浅野はこの男の事が嫌いだ。
この男とは、今まさにステージの上でギターをかき鳴らして歌っている、上原和貴のことだ。
50人は収容できるだろうというライブハウスに、観客は半分ほど入っている。皆一様に目を輝かせて、和貴の事を見つめていた。男女比率は3:7といったところだろうか。
和貴からライブに誘われることは珍しくはない。2回に1回は断りきれなくて来てしまうのだが、本当は来たくない気持ちが大きかった。自分との差をありありと見せつけられるからだ。どうすればこんなライブができるのか、どうして自分はもっと…、と悔しさでいっぱいになる。
和貴は国立K大学の4回生で、出会いはバイトだった。
浅野がバイトしている登録制の人材派遣に、和貴も登録していた。年齢は和貴の方が2つ上だが、バイトでは浅野の方が歴が長く、グループのリーダーをしていた。浅野からしてみると、和貴はバイトとしては最悪で、集合には遅刻するし、ドタキャンもよくある。本来は休みだった浅野が、その穴を埋めたことは何度もあった。年下の浅野から見ても、和貴は「ちゃらんぽらん」という言葉がぴったりの男だった。
そんなことで和貴と連絡をとり合うなか、お互い音楽をしていることが分かった。浅野はギターを少々かじっている程度だったが、ある日和貴にライブに誘われたのをきっかけに、自分で曲を作って歌うようになったのだった。
歌に関して言えば、和貴の方が数倍も先輩だった。初めて和貴の歌を聴いたときに、浅野はまず素直に感動した。こんなにすごい人がいるのだ。プロではなく、好きなだけで歌っている人でもこんなに人を喜ばせられるのだと。それはただ、上手な歌を聴いたから感動したというだけではなく、未知なる世界の扉があること、その扉を自分でも開けられることを知って、自分の中の何かが動いたきっかけでもあった。
それからというもの、自分で曲を作って歌うようになり、最近では時々(それも和貴のつてで)ライブに出させてもらえるようになったが、和貴の演奏を見ると自分の未熟さがありありと見えて、さらに和貴の人柄を知っているだけに、最初は素直に感動できていたものが、今ではただ忌々しくなるばかりだった。
歌も演奏もうまい、しゃべりもうまい、おまけに女のファンが付くほどモテてる。さらに言うと、人としてはちゃらんぽらんなのに、どこか憎めないようなところがあり、それもまた腹が立つ。
この男が嫌いだと、思うようになったのはそれらが原因だった。
「浅野くん、今日はありがとね」
ステージを終えて舞台裏から出てきた和貴が、にこにこしながら声をかけてきた。
「お疲れっす」
「お前さ、あそこでアンコールしてくれよ」
「いつもみたいに仕込んだら良かったじゃないですか」
「ばっか、お前、おれがいっつもアンコール仕込んでるみたいに言うなよ」
「いや、あんた平気でやってるでしょ」と言った浅野の後ろからきゃーきゃー騒いでいる女の子たちが、和貴を呼んでいた。
お前この、と言いながら浅野の肩をたたくと、和貴は「またな」と言って女の子に手招きされた方に行ってしまった。
帰ろうかと思い浅野が振り返ると、急に女の子が自分の胸に飛びこんできた。
胸のあたりで、どん、と音がして、浅野は思わず女の子の肩を掴む。
「あ、ごめんなさい!前見てなくて……あれ、なんだ浅野さんじゃないですか」
暗くて一瞬分からなかったが、顔を上げたのは和貴の大学の後輩の沢口律香だった。最近、和貴のライブで知り合ったのだ。
「ああ、君も来てたんだ」そう言って彼女の肩から手を離した。
「私さっき来たんです、最後の曲しか聴けなかった」
「ええ…そんなに遅れるなら、今日は止めたらよかったのに」
「もうちょっと早く着く予定だったんですけどねー、あの、先輩知りません?」
「ああ、さっき向こうの女の子グループの方に行ったよ」
律香は背伸びをして浅野の向こう側を見ると、「今日は帰ろ」と呟いた。浅野も首だけで背後を振り返ると、和貴が数人の女の子に囲まれて話していた。もう一度律香に向き直る。おそらくこの子は和貴の事が好きなのだろうという事は、その分野に疎い浅野でもうすうす察しがついていた。
その後、なんとなく二人でライブハウスから出てきた。入口のあたりで立ち止まる。
「浅野さん、最近ライブしてるんですよね?」
「……うん、まー、そうね。和貴さんみたいにうまくないけど」
自分で言っておいて、今のは自分がひがんでいるから出た言葉だろうかと、ぼんやり考えた。
「浅野さんも、先輩のこと尊敬してるんですね」
「え?」
律香の言葉に、浅野は目を丸くする。
尊敬?誰が?誰を?
じゃあ私は自転車なんで、と律香は手を振って帰っていった。
残された浅野もゆっくりと歩き出しながら、煙草に火を点ける。そういえば、喉に悪いから煙草は止めた方がいいと、和貴に言われた事があった。そういう和貴も煙草が止められない一人だ。まったく説得力がない。
さっき律香に言われた言葉が残っていた。
なんとなく、これ以上吸う気になれなくて、火を点けたばかりの煙草をかがんで地面に押しつける。
「禁煙の曲でも作ろうかな」
そう言って立ち上がって歩きだすと、自然と鼻歌が出てきた。
さっき聴いたばかりの曲だった。




