SS7 シェルパの休息
機会はおそらく一度きりだろうと、ロウは考えていた。
無限迷宮の地下八十階層にたどり着き、階層主に囚われているユイカを助け出すためには、単独パーティの力では不可能である。
資金力と組織力、そして何よりも――気運が必要だ。
冒険者ギルドと案内人ギルド、大地母神教団、さらには王都全体を巻き込み、火をつける。
そのためには、子供でも分かりやすく、誰もが応援したくなるであろう明確な理由づけが必要だった。
そのためにロウは、マリエーテを“妹巫女”としてデビューさせ、世間の関心を煽った。さらには“迷宮カード”を流布し、“暁の鞘”を初めとする番付上位の冒険者パーティの名を広く認知させた。
四人娘は単なる資金集めのための見世物と思っているようだが、それだけではない。すべてが金で解決するのであれば、王国中の迷宮は踏破され尽くされていることだろう。
いずれ、王都の民は知ることになる。
“妹巫女”が迷宮に潜行する目的は、敵討ちのためなどではない。無限迷宮の奥深くに囚われている義姉や、歴戦の冒険者たちを魔の手から救い出すために、命を懸けて臨んでいるのだということを。
人々は熱狂し、声を上げて応援するだろう。
その気運の高まりは、“黒姫奪還作戦”に関わるすべての者たちに、尋常ではない力をもたらすはず。
ただ一度限りの挑戦において。
現時点におけるすべての力を懸け、それでも目的を果たせなかった場合、ユイカ救出の気運は一気に霧散する――どころか反転し、諦めと絶望が蔓延することになるだろう。
自信を喪失した冒険者たちは、危険を避け、分相応の迷宮探索に終始し、支援者たちも及び腰になる。
何よりも、王都の人々が認識してしまう。
自分たちの世代には、無理なのだと。
同じ手は、二度と使えない。
だからこそ、決して――失敗は許されなかった。
迷宮門が開く鐘が鳴ってから、しばらく経ったころ。朝一番の客が捌けて少しまばらになった時間帯に、ロウは冒険者ギルドにやってきた。
カウンターで窓口職員に声をかける。
「やあ、クミ君」
「あ、ロウさん!」
「ギルド長、いるかな?」
やや遠慮がちに、新人職員のクミは答えた。
「そのぅ、ガルツ課長から言伝がありまして。ロウさんが来たら、絶対に捕まえておけって」
「ああ、そういえば、最近コンサル課に顔を出してなかったなぁ」
「そろそろ行ってあげないと。課長はともかく、コンサル課の人たちが可哀想です」
ロウは分厚い紙束をクミに渡すと、ギルド長のヌークに渡すよう依頼した。
「じゃあ、先にガルツさんのところに行ってくるよ」
「お願いします!」
コンサル課は一年ほど前に新設された部署だ。
おもな仕事の内容は、冒険者たちが抱える様々な問題を解決すること。言葉にするのは簡単だが、実際の仕事は答えがあるかどうかも分からない難問の最適解を求めるようなものばかり。
課長のガルツは元冒険者であり、新人冒険者の指導教官として冒険者ギルドに雇われていたが、パーティコンサルの仕事に強い関心を持ち、すぐさま転属希望を出した。三十代半ばの働き盛りの男である。
ロウがコンサル課に入ると、室内には重く煮詰まったような空気が立ち込めていた。倉庫を改造したような出来合いの小部屋で、職員は五人だけ。全員が難しい顔で書類と格闘している。課長席などは、完全に書類の山で埋もれていた。
「こんにちは」
「あぁん?」
書類の隙間から、無精髭を生やしたガルツが血走った目を向けた。その顔が一瞬硬直し、呆けたようになり、最後は涙目になる。
「ロウゥ!」
ガルツは書類を撒き散らしながらロウに飛びかかると、その胸ぐらをぐっと掴んだ。
罠にかかった獲物を、決して逃さないかのように。
「来て――来てくれたんだな。待っていたぞ。お前のことをっ!」
二人の様子を見て、コンサル課の職員たちが仕事の手を止め、ひそひそと囁き合った。中には顔を赤らめている女性職員もいた。
ロウは課長席の様子を見渡した。
「ずいぶん仕事が溜まっているみたいですね」
「ああ、“有識者会議”の結果がな。通り一辺倒の回答ばかりで。これじゃあ、現場の冒険者は納得しねぇ」
“有識者会議”とは、冒険者から依頼を受け新たなパーティを提案する際に、判断を下す専門会議のことである。
構成員は、元冒険者や元シェルパたち。彼らは冒険者たちの年齢や位階、基本能力、恩恵、迷宮探索にかける意気込みなどを鑑みて、最適と思われる組み合わせを行うのだ。
ただし、これらはあくまでも一次判定である。最終的にはコンサル課の職員が調整や修正を行い、ギルド長の承認を得て、依頼者に結果を報告することになっている。
「下級冒険者だったら、ある程度は遊びがあってもいいんだがな。中堅以上の冒険者たちは、何より実利を求める。前例踏襲の組み合わせじゃあ、納得しねぇよ」
人数が多ければよい案が出るわけでもない。求められるのは、発想力や想像力、判断力、思慮――といった数値化の難しい能力だ。
「それでは、ちょっと見てみましょうか」
ロウは課長席の脇に座ると、懸案中のパーティに関する資料をぱらぱらと確認した。
パーティコンサルの発起人であるロウは、外部助言役という立場である。冒険者ギルドから報酬を得ているわけではないので、気楽なもの。
「……うん? このパーティは、以前見たような気がするけれど。うまくいかなかったのかな?」
「いや、潜行する階層が変われば、求められる冒険者の資質も変わってくる。中には一時的なパーティと割り切って、レベルが上がるたびに“組み替え”を申し込んでくる冒険者もいるんだ」
「それでは仕事が減りませんね」
「まったくだ」
ガルツは苦しそうに呻いた。
「職員の増員を願い出ているのに、上の腰が重くてな。お前がシェルパを辞めてうちに来てくれれば、解決するんだが」
「個人の力に頼った仕事は長続きしませんよ。結果考証を繰り返して、力をつけていかないと」
その時、コンサル課の扉が乱暴に開かれた。
「おい、ロウ。いったいどういうことだっ!」
大股で歩み寄ってきたのは、禿頭かつ強面の中年男、冒険者ギルド長のヌークだった。
「こんなところで油を売ってないで、私の部屋に来い」
ガルツが間に割って入った。
「お言葉ですが、ギルド長。こちらの案件が先ですよ。切りのよいところまで片付いたら、そっちに行かせますから」
「いいや、私が先だ」
「いえ、オレが先です」
かすかに神気すら漂う緊迫した雰囲気に、コンサル課の職員たちがざわめく。中には、顔を赤らめながら心に湧き起こった文章を書き留めている女性職員もいた。
二人はしばし睨み合ったが、結局のところは上司であるヌークが勝ったようだ。
問答無用でロウは連行された。
ギルド長の執務室は、最上階の奥まった位置にある。客人として支援者を招く場所でもあるため、絨毯やカーテンは分厚く、ソファーはどっしりとしていて座り心地がよい。
「これは、いったいなんだ」
ソファーに座ってひと息つく間もなく、ヌークは書類の束をロウに向かって突きつけた。
「何って、ユイカを救出するための計画書ですが」
「そんな重要なものを、受付の、新人職員に手渡すな!」
それは、ひと月ほどかけてロウが作成した計画書だった。
表題は“黒姫奪還作戦”。
冒険者番付表の最上位である“勇者”と四役――計五パーティによる、史上最大規模の遠征チームの結成。支援役として、十名の上級シェルパ、さらには露払い役として、“探索者”一枚目から十五枚目までの冒険者パーティと、さらには彼らを支援するシェルパたち。
その総数は、優に百名を超える。
目標は、無限迷宮地下八十階層への到達と、階層主である上級悪魔の撃破。さらには、彼の魔物に捕らわれていると思われる冒険者たちの救助だった。
冒険者ギルドが各パーティを指名する強制案件であり、拒否することはできない。
「どれだけの金がかかると思っている!」
「最後のページに積算資料がありますよ」
ヌークはページをめくり、浅黒い顔を青くした。
金の問題だけではない。冒険者ギルドの権限は強大だが、強権発動には責任が伴う。よほどの事情がなければ冒険者たちが納得しないし、最悪、彼らの反感を買って信用を失うことになるだろう。
無理だという言葉を、かろうじてヌークは飲み込んだ。
これまで何度も何度も――ヌークが口に出した否定の言葉を、ロウは行動と実績によって覆してきた。
攻略組族“暁の鞘”の結成に始まり、膨大な資金の調達と遺失品物の獲得。“ギルド改革”を断行し、冒険者パーティの実力底上げを達成した。
また、尋常ならざる手段を用いて強制レベリングを行ったパーティ“暁の鞘”は、連日の“階層主狩り”により実績値を稼ぎまくり、来月の番付表で“勇者”に到達することが内定している。
意を決して葛藤を飲み込むと、ヌークは大きな息をついた。
この男が復活し、ユイカのことを聞きにきた時、
数年はかかると言っていたが、わずか一年半でここまでこぎつけてきた。
とても常識では測れない。
凡庸な自分ができることは、この男を信じ、全力をもって、支援することだろう。
「そうか」
それだけを口にすると、ヌークは背を向けた。
戸棚からとっておきの酒を取り出して、ふたつのグラスに注ぐ。
この部屋で何度となく行った行為。そのほとんどは、ヌークの愚痴を消化するためのものであったが、今回ばかりは違う。
初めてふたりは、グラスを合わせた。
だが、執務室で飲み明かすほど浮かれてもいない。ヌークはロウから作戦の説明を受けた。
「私の仕事は、ようするに――準備作業だな」
「そうです」
「達成難易度を考えると、丁寧に説明をせねばならんな」
「はい。できれば、組隊長だけでなく、希望する冒険者全員と打ち合わせ会議を行いたいのですが」
「身内を助けるための恣意的な計画だと指摘されては、困るだろう? お前がいてはややこしくなる。こちらに任せておけ」
せいぜい自信ありげに、ヌークは笑ってみせた。
強制案件は冒険者ギルドの仕事。今回はその拡張版だと思えばよい。
守銭奴として有名なヨハネス枢機卿と掛け合って無茶な予算要求を通したり、超がつくほど高額な遺失品物を競り落とすことに比べれば、まだ見通しがつく。
これならば、自分の職権を大きく超えるようなことは――
「……うん?」
ヌークの目は、計画書のとある項目で止まった。
「決起式?」
「ええ。なにしろこれだけ大掛かりな、しかも命懸けの作戦ですからね。王都の皆さんに応援してもらったほうが、みなさんの士気も上がることでしょう」
「いや、そうではない。この、特別賓客というのは?」
さりげなく、この国の王太子の名前が載っていた。
「確か、オレオ殿下は、迷宮や冒険者に興味がおありだと聞きました」
「誰からだ」
「ヌークさんからです」
この国は、比較的規律の緩やかな宗教国家である。大地母神教が国教であり、その最高責任者――“教皇”には、国王が就任する。
大地母神教の最終的な目的は、王国各地に点在している全ての地下迷宮を攻略すること。
ゆえに年に一度、冒険者ギルドは教皇に対して、迷宮攻略の進捗状況や冒険者たちの動向について報告することになっている。
誰が報告するかといえば、冒険者ギルド長のヌークだ。
報告とはいえ、形式的なもの。これまでは奏上用の原稿を作成して、ただ読み上げるだけでよかった。
だが、冒険者好きとして知られるオレオ王太子殿下が、現場の人間の話を聞きたいと、別日程で直接の面談を望まれたのである。
事前の予想質問もなく、面談が長時間に及ぶこともある。しかもここ数年ほどは迷宮攻略の実績も振るわず、ヌークとしては精神力が削られる思いだった。
そのことを、以前ヌークはロウに愚痴ってしまった。
ちなみに、オレオ王太子殿下は二十六歳。明るく闊達で、国民からの人気が高い。なぜ冒険者が好きなのかというと、今から十三年前、とある晩餐会で出会った“勇者”――黒髪黒目の女冒険者の話に、いたく感動したからだという。
「確か、今年の報告会はもうすぐですよね?」
「おい待て。王室のスケジュールなど、我々が勝手に決められるものではないぞ」
決められはしないが、あの王太子が“黒姫奪還作戦”のことを知ったならば、あるいは――
「しかし、なぜ王太子殿下を?」
「箔付けのためですよ。王室の支持を得たということになれば、冒険者ギルドが強制案件を発動する、強力な後押しになるはずです」
「……」
「それに、せっかくの“お祭り”なんですから」
二の句が告げられずにいるヌークの前で、ロウは乾いたような笑顔を浮かべた。
「みんなで、盛り上がりましょうよ」
冒険者ギルドを後にしたロウは、辻馬車を呼び止めようとしたところで、不意によろめいた。
「――お?」
街灯の支柱に手をつき、込み上げてくる吐き気を堪える。
「……まいったな。酔っ払ったか」
たった一杯の酒くらいで、情けない。
ロウは辻馬車を拾うと、クラン本部に帰る前に、診療所へ向かうことにした。
ロウの顔を見るなり、サフラン女医は嫌な顔をした。クラン“暁の鞘”専属の医師で、トワの母親でもある。
「ちょっとお酒を飲んでしまって。いつものように“浄化”の魔法をかけてもらいたいのですが」
「あのね、ロウ君?」
サフラン女医は腰に手を当てて、ため息をついた。
「私は魔法屋じゃなくて、医師なの。患者に何を処方すべきか。それは私が決めることよ。悪いけれど、職権を犯さないでくれる?」
まいったなと、ロウは思った。今日のサフラン女医は何やら機嫌が悪いようだ。
「では、主治医として診察を」
「必要ないわ」
「え?」
サフラン女医はロウをじっと見据えた。
「“鑑定”のギフトがなくたって、あなたの症状は分かる。あなたに必要なものは、薬でも、ポーションでも、ましてや魔法でもないわ」
「じゃあ、何が必要なんです?」
きょとんとしているロウを見て、サフラン女医は再びため息をついた。
「ロウ君」
「はい」
「あなたは遠くの物事はよく見えているけれど、一番近くにあるものは、意外と見えていないようね」
状況はよく分からないが、何やら説教をされているらしいことは分かった。
「今日のところは、おとなしく家に帰りなさい。それから……。あんまり心配させちゃダメよ?」
久しぶりに自分で薬を調合して飲もうか、などと考えながら、クラン“暁の鞘”の本部に着いた時は、お昼前だった。
正門の影に、挙動不審な小さな影がある。
お手伝い要員のメルモだ。
きょろきょろと周囲を窺い、ロウと目が合うと、慌てふためいたように建物内に駆け込んでいく。
門の中に入ると、馬小屋の方でハリスマンが手を振っていた。馬車の御者席に乗っている。
「これはロウ殿、お帰りなさい」
「ハリスさん、お出かけですか?」
にこにこと上機嫌そうに微笑みながら、銀髪の老紳士は不吉なことを口にした。
「どうにも馬車の調子が悪く。車輪が外れそうです」
「え?」
「というわけで、しばらくメンテナンスに出すことになりました。残念ながら、二、三日は使えません」
「そ、そうですか」
「では」
車輪の音に耳を澄ませてみたが、特に違和感はない。いやいや、そもそも脱輪しそうな馬車に乗って大丈夫なのだろうか。
疑問に思いながら玄関に入ると、こちらも出かける様子のシズと鉢合わせした。
「あ、シズさん。例の積算の件――」
シズは足を止めると、眼鏡の奥の目を鋭くして、ロウの顔を下から覗き込んできた。
「……なるほど。私としたことが、見落としていました。クランの代表失格ですね」
「いきなりなんです?」
「かといって、無理やり命令したとしても、あなたは従わないでしょう。多少は――強引な手法を取ったとしても、やむを得ないというところですか」
混乱するロウの肩に手を置くと、シズはいつぞやの意趣返しという感じで、ぼそりと呟いた。
「ロウ。そんなことでは、大切な目標を達成することなど、とうてい叶いませんよ?」
自分は何か問題を起こしただろうかと、ロウは考えた。
いや、仕事のミスとは限らない。自分はマリエーテの保護者であり、ミユリの父親である。
そういえば、最近仕事に追われて、家族との会話や触れ合いが少なくなっていた。
今日は冒険者育成学校は休みだし、パーティ“暁の鞘”も休息日だ。
書類仕事は夜にでもできるし、一度話を――
「あらあら、大変だわぁ」
ロビーに入ると、談話室の方からプリエが駆け出してきた。のんびりした口調で、ロウに訴えかけてくる。
「ロウさんのお部屋に、“煉瓦喰虫”が出ちゃいました」
「ええ?」
「そんな時は、これっ」
プリエは手にしていた、白く細長い棒状の塊を持ち上げて、微笑んだ。
「煙骨を炊けば、イチコロです!」
浅階層に棲む魔物、骨蜥蜴の成果品、その尻尾の骨である。この品物は水に入れると大量の煙を発生し、煉瓦喰虫などの害虫を一気に退治することができる。
ただし、人に対しても有毒であることから、
「夜までは、どこか静かで、ゆっくりくつろげるところに、避難してくださいね」
同じく談話室から、マリエーテ、カトレノア、ティアナ、トワの四人娘と、ミユリとメルモがやってくる。
皆を代表するかように、カトレノアが告げた。
「と、いうわけで。わたくしたち、今日はお休みをいただいて、みんなで街へ繰り出そうと思いますの。ロウさん。よろしくて?」
「もちろん」
よいもなにも、今日は休息日である。
一も二もなく、ロウは同意した。
「君たちは、休息日も地下室で自主練してるし、たまにはゆっくりと羽を伸ばすといい。冒険者にとって体調管理は大切だよ。正直なところ、少し心配していたんだ」
「……」
何故か全員がジト目になり、微妙な空気になった。
「なんか、こう、心がムズムズするぜ」
「初めて、あなたに同意いたしますわ」
「そ、そろそろ行きましょう。僕、皆さんといっしょに出かけるの、初めてで。その、楽しみです」
「そうですよ。早く行かないと。その、作戦が……」
「しょうがねぇ、いっか」
「ぐむむ。なんでボクまで。放っといてくれれば」
「だめですわ。サフラン先生に頼まれてますのよ。いっしょに遊んであげてほしいって」
「お母さん、関係ない!」
わいわいがやがやと、少年少女たちが玄関を出ていく。はっと思い出したように「バルシー、バルシー」と呟きながらプリエが走り去ると、ロウとマリエーテのふたりだけになった。
「あれ、マリンは行かないのかい?」
「うん。私は、別のお仕事があるの」
マリエーテは蓋つきの網籠を持っていた。いつもであれば、二人きりになるとすぐに飛びついてくるのだが、今は俯き加減でロウの隣に立っている。
「お仕事?」
「うん、大切な」
「ふ〜ん」
「だからお願い」
マリエーテはロウを見上げると、有無を言わせない笑顔でこう言った。
「お兄ちゃん、手伝って!」
本部が使えず誰もいないのでは、することもない。何やら出来の悪い詐欺に引っかかったような感じではあったが、ロウはマリエーテに付き合うことにした。
徒歩で向かった先は、意外にも近場だった。
本部から少し歩いたところにある、小さな公園である。
全面に芝生が植えられており、木陰も多い。しっかり手入れがされているものの、人かげはまばらだった。
ここは上流階級に属する者たちが住む区域である。近所の公園などで遊んでいては、何を噂されるか知れたものではない。
「ちょうどいいところがあった」
すたすたとマリエーテが向かった先は、広く葉を茂らせている木立の影にあるベンチだった。ベンチの上には毛布が敷かれており、お茶の入ったポットとカップがふたつ置かれていた。
いったい誰が――と思いきや、マリエーテが軽く手を振った先を見ると、恰幅のよい初老の老婆がにこやかに手を振り返し、歩み去っていくのが見えた。
タエである。
「座って」
贅沢な場所だと、ロウは思った。
土も草も木も、土地のものではない。そのすべてに人の手がかかっていて、維持するためにも人手をかけている。
だが、利用する者は少ない。自分など、この公園の存在すら知らなかった。
並んで座ったマリエーテは、いそいそとお茶を入れて、網籠から軽食を取り出した。
パンに野菜や卵を挟んだサンドイッチだ。
タエやプリエから習ったのだろうが、具材が少し不恰好だった。断面を美しく見せるところにちょっとした面白さがあるのだが、指摘するのは野暮というものだろう。
「お昼ご飯。食べて」
「マリンの手料理は久しぶりだな」
「久しぶり?」
「四歳の時だから、今から十二年前か」
だが、ロウ自身にとってはわずか一年と少し前のこと。見栄えや味などに関係なく、誰が何と言おうと、美味しい料理はある。
あの時の小さな手が作った料理がそうだし、このサンドイッチもそうだ。
最近は食欲も湧かなかったのたが、妹お手製のサンドイッチは、普通に食べることができた。
「そういえば、マリンは昔から料理が好きだったな」
「違うよ」
「うん?」
「いっしょに作るのが、好きだっただけ」
「掃除や洗濯も?」
「そう」
しばし景色をぼんやり眺めながら、昼食を食べる。
暑くも寒くもない陽気。そよかぜが頬を撫でると、一瞬気が抜けそうになり、くらりと目まいがした。
――いけない。
首を振って意識を取り戻す。
「ごちそうさま。それで、マリン。俺は何をすればいいんだい?」
「ここに、頭を置いて」
マリエーテがぽんぽんと叩いたのは、自分の膝だった。
「お兄ちゃんを無理やり寝かせる。それが、今日の私のお仕事」
「……」
あまりにも意外な展開に、しばし硬直してしまう。
「お兄ちゃん、察しが悪い。普段のお兄ちゃんだったら、すぐに気づいたはず。もう限界だよ」
いったい、何を――
「石化が解けてから、お兄ちゃん、一日も休んでいない。私たちといっしょに迷宮に潜行して、冒険者ギルドで打ち合わせして、部屋で資料を作って、深夜に訓練までして。ここひと月ほどは本当にひどい。いつ眠ってるの?」
眠ろうとはしているのだ。だが、すぐに悪夢が襲ってきて目覚めてしまう。
すべてをかけたこの計画に見落としがあった。危機に陥った時の対処法に不備があった。補給物資の比率に問題があった。パーティ間の連携に――露払いパーティとの意思疎通に――
ベッドから飛び起きるたびに計画書を見直し、無理やり修正する。直せば直すほどバランスを崩し、別のところに無理が出てくる。結果、元に戻して再度検討する。
そのうち、何が正しくて何が間違っているのかさえ分からなくなってくる。
そんな日が、ずっと続いていた。
「だから、サフラン先生に相談したの。それからみんなにお願いして、無理やり時間を作ってもらった。だって、そうしないと、話を聞いてもらえないと思ったから」
「……そういう、ことか」
思い返せば、今日の自分は変だった。
文字通り心血を注いで作り上げた計画書を冒険者ギルドの新人受付嬢に手渡してしまったし、ヌークに説明している時も、どこか投げやりな気分になっていた。グラス一杯飲んだだけで吐き気を催すほど悪酔いしたし、みんなのおかしな態度や下手な演技にも気づかなかった。
「お兄ちゃん、ひどい顔。ぜんぜん笑えてないよ」
守るべき相手に、表情すら取り繕えず――
まいった。
ロウは負けを認めた。
「私も子供のころ、寝られなかった。ひとりが怖かったから。変なことを考えちゃうから。でも、家族が――お兄ちゃんやユイカお姉ちゃんがそばにいてくれたら、眠ることができた。だからお兄ちゃんも、きっとだいじょうぶ」
自分はひとりではなく、マリエーテはもう子供ではない。
何かに導かれるように。あるいは糸の切れた操り人形のように、ロウの身体が傾く。
「そうか。悪い、な……」
頬に温かく柔らかなももを感じた瞬間、ロウは自分でも驚くほどあっさりと意識を失っていた。
今から十年以上前のこと。タイロスという名の町で、兄と二人で暮らしていたころ。
兄が仕事に出かけている間、マリエーテは叔母の家に預けられていた。とても怖い叔母だった。その家には年上の男の子が二人いて、マリエーテはいつもいじめられていた。
だが、そんなことは苦にもならなかった。
一番怖かったのは、兄が戻ってこないかもしれないということ。
迷宮道先案内人は危険な仕事だ。死傷率は高く、仮に冒険者が全滅してしまえば、シェルパだけで生還することは難しい。
自分が戻れない可能性があることを、兄はことあるごとに自分に聞かせていた。
その時には、叔母さんの家で暮らすこと。
おとなしく、逆らわず、我慢して。
少なくとも、十二歳になるまでは――
なぜその年齢だったのか。
石化する前の兄は倹約家で、稼ぎのほとんどを貯蓄していた。その遺産の半分は叔母の手に渡り、残りの半分は、マリエーテが十二歳になった時に、管理が委ねられることになっていたのだ。
あの頃のマリエーテは、いつも叔母の家の玄関前で待っていた。
兄の姿が見えると、真っ先に駆け寄って――
おんぶをねだって、家まで連れ帰ってもらうのだ。
あまりにも懐かしいその感触と、幼い頃の繊細な気持ちを、マリエーテは思い起こしていた。
「足が痺れたなら、起こしてくれたらよかったのに」
「……」
夕暮れ時。兄が目を覚ました時、マリエーテの膝の感覚はすでになくなっていた。
今日は兄を休ませる日だったのに、最後は、おんぶしてもらって帰宅することになった。
恥ずかしさのあまり何も言えないでいると、
「ありがとう、マリン。久しぶりにゆっくり眠れたよ」
「だめ。まだ足りない」
一年以上も溜まっていた疲れが、半日くらい寝ただけで解消されるはずがない。
察しがよい兄は、やれやれと苦笑すると、明日一日は何もしないよと、約束した。
「みんなにも、お礼を言わないとな。サフラン先生には怒られそうだ。手土産に、お菓子でも持っていくか」
「うん」
それからしばらくの間、兄は無言のまま歩いていたが、
「マリン」
「なに?」
やがて、ぽつりと言った。
「ユイカを、助けにいくぞ」
ここひと月ほど。
思慮深く冷静沈着な兄が、体調の変化に気づかないほど自分を追い込んで、とても重要な資料を作成していることに、マリエーテは気づいていた。
我知らず、マリエーテの身体は震えた。
たった一年と少しで、ここまで。
手が、届くところまで。
「――っ」
「マリン?」
震えが、止まらない。
怖さではない。
喜びとも、少し違う。
胸の奥底から沸き上がっってきた感情は、圧倒的な――感謝の気持ちだった。
「……お兄ちゃん。ありが、とぉ……」
ユイカが無限迷宮で行方不明になってから、マリエーテは暗闇の中に閉じ込められていた。
やがてベリィが冒険者を引退し、シズとも心がすれ違うようになった。
冒険者学校に入学して、自分を鍛えれば鍛えるほど、マリエーテは自分が目指すものの困難さを自覚し、絶望しそうになった。
先が、見えない。
手がかりさえ、掴めない。
だが、あの日。
石化した兄が復活した、あの時。
暗闇の雲が晴れ、ひと筋の光が差し込んだ。
光の筋は一気に広がって――
「私……ぜったい――頑張る。……頑張る、から」
可能性が、ある。
それはマリエーテにとって、奇跡に等しい事実。
「うん。いっしょに、頑張ろうな」
もう何も言うことはできず、まるで幼かったあの頃に戻ってしまったかのように、マリエーテは兄の背中にしがみつき、いつまでも泣き続けた。
ちょっと整理は必要ですが
ようやくひと区切りです。
【お知らせ①】
ダンジョン・シェルパ(漫画)③巻
5月7日(金)発売しました。
書影はこちら
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【お知らせ②】
『サダムとシロの宇宙戦争』を再掲しています。
よかったら見てください。
https://ncode.syosetu.com/n3569gy/




