SS5(下)現役復帰
ベリィはロウを玄関まで送った。
「……何も、言わないのね」
この家に来てから、ロウはベリィに対して、どこか距離を置くような接し方をしていた。マジカンと交渉している間も、ベリィの方を見向きもしなかった。
心が揺らぐ。
それは怒りに近い感情だった。
なぜ、自分には――
「いい家ですね」
「は?」
ロウはまともに受け止めなかった。
「外見は地味ですが、木材もレンガも、いい材料が使われています。そう思わせないようにしているのは、マジカンさんの趣味かな?」
家のことなど、どうでもいい。
「先ほど、稽古している声が聞こえました。息子さんですか?」
「……そうよ」
後ろめたい気持ちなどないはずなのに、ベリィの返事はひと呼吸遅れた。
「お名前は?」
「カイ」
「ユイカから、ふた文字ですね」
図星である。
もし女の子だったら、彼女の名前をそのままもらっていたかもしれない。
未練を笑われるかと思ったが、そうではなかった。
「マジカンさんは、お孫さんをたいへん可愛がられていると聞きました」
「みたいね」
「それでも。大切なものすべてを投げ捨てる覚悟で、迷宮に戻ってくれるようです」
いや、違うかと、ロウは自問自答した。
「覚悟ではなく、好奇心の問題でしょうか。マジカンさんは根っからの冒険者なんですね」
その通りだ。
子煩悩であろうと、孫可愛がりであろうと、あのジジイの本質が変わることは決してない。
いずれ興味を引く冒険者が現れたら、ふらりと迷宮に舞い戻り、そこで果てるだろう。
他でもない、自分自身のために。
ベリィは唇を噛み締めた。
「治安のよい場所の素敵な家で、子育てができる。将来の不安もない。まさに成功者の生活ですね」
そんなことは分かっている。
少女時代に入り浸っていた貧民街の子供たちの生活と比べれば、ここは天国のような場所だ。
「でも……」
何かが、足りない。
たとえ、この男が無限迷宮の最深部からユイカを助け出したとしても、自分はもう、心の底から喜ぶことはできないだろう。
足りないものは――一度失い、欠けたままでいるのは、自分の中の何かだ。
大切な、何かだ。
すべてを忘れて、一歩踏み出すことができたら。
ひと言でいい。
その後押しを、してくれたなら。
縋るような目で見つめるベリィを見て、ロウは顔を近づけてきた。目と目を真っ直ぐに合わせる。
「ベリィ?」
「な、何よ」
「子供には、親が必要です」
「――っ」
一気に現実に引き戻され、ベリィは硬直した。
「カイ君の将来に影響を及ぼしかねない選択を、俺があなたに提示することはありません。そんなことは、ユイカも望まないはずです。分かりますね?」
子供の生活を犠牲にしてまで命を賭ける選択。その決断を――責任を、他人に預けるなということだ。
「そんな心づもりで迷宮に来られても困ります。土壇場で、命惜しさに逃げ出さないとも限りませんから」
羞恥心のあまり真っ赤になって、ベリィは震えた。
そうだった。
初めて会った時から、この男はひょうひょうと。
歳も変わらないくせに。
いや、今では自分の方が年上だというのに――
「それに、あなたが引退してから四年以上も経っているのでしょう?」
そう言ってロウは、ベリィの身体の曲線を観察した。
「特に前線で戦う軽戦士は、瞬発力と、何よりも持久力が要ですからね。いくら元勇者とはいえ、年齢的にも限界でしょう」
言いたいことを、ずけずけと。
「せっかく勇者として名を残したんです。あとは俺に任せて、ゆっくり成果を――」
「冗談じゃないわ!」
反射的に、ベリィは叫んでいた。
「何を偉そうに。そんなに言うなら、あんたの実力と覚悟のほど、見極めてあげる。庭に出なさい!」
ベリィは激しい怒りを感じていた。だが彼女は、その感情が何に起因するものなのか、理解していなかった。
いや、理解しようとしなかった。
「確かに私は引退した身だけど、あんただって元冒険者のシェルパでしょ。いくらブランクがあるからって、簡単に勝てるとは思わないで」
「別に、思ってないですけどね」
一番長い木刀を片手に、ロウがため息をつく。
「なんですか、この状況は」
「うるさいっ」
一方のベリィはやや短めの木刀を両手に構えた。
「ルールは簡単。先に倒れた方が負け。アクティブギフトの行使は不可にしてあげるわ」
「では、パッシブギフトもなしでいいですよ」
ロウには“持久力回復”という一見地味だがおそるべきパッシブギフトがある。
単純にスタミナがもつだけではない。必要筋力以上の重さの武器を、全力で振り回し続けることができるのだ。
基礎能力と、技だけで勝負するという。
久しぶりに、ベリィは舌打ちをした。
子供の前では決してやらない行為だった。
「この家にはヒールポーションもあるし、ジジイだって回復魔法が使えるわ」
遠慮はいらないし、するつもりもない。
「いくわよ!」
一瞬でケリをつける。
足技でバランスを崩し、上体へ一撃。受け止めようが避けようが関係ない。そのまま押し切る。
神気を高め、体勢を低くし。
「――」
すぐ目の前に、ロウがいた。
とても戦闘状態とは思えないのんびりとした佇まいから、突然動き出したのである。
それは、単純な体当たりだった。
反射的に木刀をクロスさせて防いだものの、予想外のスピードと重さに、ベリィは吹き飛ばされた。
「――ぐっ」
空中で立て直し、バランスを崩しながらも着地する。
再びロウが迫ってきた。
大振り。
木刀による横なぎの攻撃を、ベリィは上体を逸らせるようにして避けた。
重い風切り音に、ぞっとする。
連撃。
まるで遠慮のない、力任せの大振り。
かろうじて、バックステップで避ける。
ロウが上級冒険者並みの力を持っていることを、ベリィは知っていた。アクティブギフトをキャンセルしたとはいえ、シェルパなのだから持久力もあるだろう。だが、瞬発力はそれほどでもないはず。
そこに勝機を見出していたベリィだったが、当てが外れた。
ロウの攻撃は止まらない。躱すのがやっと。防御すればおそらく、吹きとばされる。
まるで深階層の――そう、魔牛闘士とでも戦っているかのような迫力。
正直、剣士としての腕前は並み程度だろう。
だが、武器に合った間合いを取り、基本的な動作を延々と、息をつく間もなく繰り返してくる。
小細工が好きな戦略家だと思っていたが、戦い方はまるで真逆だった。
「――なめ、るなっ」
悲鳴を上げる身体を無視して、ベリィは反撃を開始した。
引退した時のべリィのレベルは、十三。
その華麗な戦い方から“黄金四肢”のふたつ名が与えられていた。
攻撃手段は、両手の武器と両足。
経験と技、そして瞬発力は負けていない。
体勢を崩しながらも、カウンター気味に攻撃する。
蹴りが当たる。木刀が掠める。
感触は悪い。まるで革鎧に吸収されるような感じ。
ロウの首や袖口から覗く筋肉は、相当鍛えられたもの。
しかもこちらの攻撃は、体重が乗っていない。
目が慣れてきたのか、勘を取り戻したのか、ベリィの動きはよくなり、攻撃も当たるようになった。
ロウの攻撃はすべて躱している。
はたから見れば、技量の差でベリィが押しているように見えるかもしれない。
だが、早くも息が上がっていた。
一方のロウは、憎らしいほど平然としている。
“持久力回復”使ってるんじゃないのと、ベリィは心の中で悪態をついた。それともギフトなど関係なく、この男は化け物じみた持久力を兼ね備えているのか。
――勝てない。
直感が、そう告げていた。
たかがシェルパに、戦士としても負ける?
「なんで!」
連続攻撃を繰り出しながら、ベリィは叫んでいた。
「なんで、あんたなのよっ!」
ユイカを失ったあの日。
ベリィは現実を認められなかった。
ユイカは魔物に連れ去られたのだから、取り戻さなくてはならない。
一刻も早く。
その後、“宵闇の剣”のリーダー代理となったベリィは、新たなる仲間を集い、無限迷宮の深階層へと潜行し続けた。
しかし、有力な冒険者たちは次々と“収集家と呼ばれる上級魔族に連れ去られていった。
王都の冒険者の力量は下がり、ベリィがいくら奮闘しても、地下八十階層には届かなかった。
ユイカの救出というお題目を、ベリィは自然と敵討ちへ置き換えていた。それは裏方として“宵闇の剣”を支えてくれたシズも同じだったと思う。
本気で信じていたのは、幼いマリエーテだけ。
まるでユイカと出会う前の少女時代に戻ったかのように、ベリィの性格は荒み、刺々しくなり、パーティの雰囲気は悪くなっていく。頑張れば頑張るほど、迷宮探索は上手くいかなくなる。
ベリィは傷つき、そして挫けた。
子供の父親の名前は、知らない。
聞いたかもしれないが、忘れた。
王都の酒場にふらりと立ち寄っただけの、たぶん、旅人だったのだろう。
理由が、できた。
ユイカを諦めることができる、理由が。
『子供が、できたの』
涙を浮かべながら、シズは慰めてくれた。
『もう、いいのです。ベリィ。これ以上頑張らないで。お腹の子を、大切にしてあげてください』
ただひとり硬直し、瞬きすら忘れたかのようなマリエーテの視線から、ベリィは逃げ出した。
それからの生活は、静かで、気の抜けたように穏やかで……。
負け犬の、安息。
「なんで! 今になって!」
息継ぎすら忘れたかのように、ベリィは連続攻撃を繰り出した。
ぎりぎりの均衡の中、時おりロウが目を逸らす。
よそ見をするほど、余裕があるって?
かっとなったベリィは、回し蹴りを打ち込む。腹筋を固めて、ロウは攻撃を受け止めた。
今さら、ユイカが生きている可能性が?
成長したマリエーテとともに、助けに行く?
なんの汚れもない、純粋な精神のまま。
ただ、大切なものだけを求めて。
私の苦しみはっ。
私の絶望は、いったい――
「がんばれ! 母ちゃん!」
甲高い子供の声が、戦いの空気を引き裂いた。
「いいぞ! やっちゃえ!」
その瞬間、ロウが間合いをとった。
息子のカイの声援に動揺しながらも、ベリィはロウから目を離さなかった。
一瞬でも気を抜けば、やられる。
我に返った瞬間、一気に汗が吹き出した。
呼吸が、もたない。
目が、眩む。
「稽古は、終わりにしましょうか」
そう言ってロウは、木刀を下げた。
ところどころ肌が傷つき赤く腫れているが、たいした怪我ではない。ヒールポーションでもかけておけば、すぐに治るだろう。あれだけ木刀を振り回していたというのに、息ひとつ乱さず、汗すらかいていなかった。
ベリィは戦いの姿勢を崩さなかった。肩で息を吐きながら、憎まれ口を叩く。
「はっ、こんな、ぬるい戦い方で、はっ、姫を助けられると、本気で思ってるの?」
せめてもの強がりで、ロウを睨みつける。
「私ひとり、はっ、圧倒、できないで――」
ふいに、目の前に何かが放り投げられた。それが木刀ということを認識する前に、両腕が反応した。
しまったと思った時には遅かった。
ロウの体当たりをまともに受けて、ベリィは後方に吹き飛ばされた。現役時代であれば、すぐさま受け身をとり、立ち上がることができただろう。しかしすでに手足が限界にきていた。ベリィは地面の上を無様に転がり、植木鉢にぶつかって止まった。
「だいじょうぶですか?」
歩み寄ろうとするロウの前に、小さな男の子が立ち塞がった。
「だめっ!」
気の強そうな目鼻立ちが、ベリィに似ている。
まだ三、四歳ほどと思われる少年――カイは、果敢にもロウに向かって駆け寄ると、その太もものあたりを、ぽこすかと殴りだした。
「やっ、やっ!」
母親を助けるよりも敵に立ち向かうことを優先するとは、この子は前衛向きかなとロウは思った。中々さまになっているいのは、ベリィの教育の成果だろうか。この年齢の子供に戦い方を教えるのは、どうかと思うが。
「や、やめなさい、カイ」
母親の言うことも聞かず攻撃を続ける子供を、ロウはひょいと抱き上げた。
「――わっ」
「カイ君。お母さんはね」
いきなり視界が変わり、見知らぬ大人に微笑みかけられて、カイは面食らったようだ。
「本当は、もっともっと、強いんだよ」
そのままベリィのところまで連れていき、そっと降ろしてやる。それからロウは少年の頭を撫でると、廊下のあたりで見物していたマジカンに一礼した。
「ではベリィ。お邪魔しました」
子供とともに取り残されたベリィは、立ち上がることができなかった。
完全な八つ当たりだ。
おまけに、これ以上ないくらい無様だ。
「母ちゃん……」
自分は王都の冒険者の中で二番目に強かったと、ベリィは子供に教えていた。
一番強かったのは、一番大切な友達。
「ごめんね。カイ」
奥歯を噛み締めながら、ベリィは子供に対して告白していた。
「お母さん、お友達を、助けられなかったの」
なかば無意識の行動だった。これ以上、自分自身に嘘をつくことが、もはや耐えられなかったのだ。
「迷宮の奥深くで、待っているのに」
あの時からずっと。
「待っていてくれたのに」
――いけない。
子供に、余計なことを。
はっとして顔を上げると、カイは眉根を寄せ、頬を膨らませながら、真っ赤になって怒っていた。
これ以上ないくらい、思いきり。
「母ちゃん、きらい!」
「……っ」
語彙がないから。
あまりにも真っ直ぐだから、胸の奥に突き刺さる。
「母ちゃん、いつもいってた」
大きな瞳に涙を溜めながら、カイは怒りをぶつけた。
「おともだちを、たいせつにしなさいって!」
その通りだ。
「おともだちがこまってたら、たすけてあげなさいって!」
なのに。
「つよくなって、ぜったいに、たすけてあげなさいって!」
強く、なって?
「母ちゃんがやらないなら、ぼくがやる! つよくなって、母ちゃんのともだちを、たすけにいく!」
怒りなのか悲しみなのか、強い感情がごちゃ混ぜになった顔で、カイは抱きついてきた。
そのまま、肩に噛みついてくる。
正直かなり痛かったが、それ以上の衝撃をベリィは受けていた。
「カイ……」
自分に許可を出せるのは、自分ではない。
「前に言ったでしょ? 迷宮は、とても危険なところなの」
お母さんが冒険者に戻ったら、しばらく帰れなくなるかもしれない。じいじもいない。その間、カイはひとりきりで留守番をしなくてはならない。
「それでも、いいの?」
無言のまま、カイは震えた。
「ひとりになっても、いいの?」
小さな心と体の中に、どのような葛藤があったのか、カイは顔を上げると、これ以上ないくらい酷い顔で、叫んだ。
「いいっ!」
その瞬間、ベリィの表情が消え失せた。
完全に冷え固まってなど、いない。
あの日に――大切なものを失ったあの時に生まれた炎は、燻り続け、心の奥底を、どうしようもなく焼き焦がしている。
あと半年待ってくださいと、あの男は言った。
必ず“勇者”になってみせますと。
あの男は、必ずやる。
使い物にならなければ、平気で切り捨てる。
間に合うか。
今の自分に、自分を死ぬほど追い込むことができるのか。
――できる。
風を起こし、炎を煽れ。
全身を、焼き尽くせ!
「……あ〜あ」
過去の自分を笑い飛ばしたくなるような、奇妙な感覚。
「カイ?」
ベリィは愛する息子の頬を摘むと、左右に引っ張った。
「どうなっても、知らないわよ?」
SSの順番は入れ替えます。