(9)
幸いなことに、マリエーテを取り巻く環境は改善された。
彼女が新たに冒険者育成学校に入学してきた神子、ミユリと姉弟同然の関係であることが判明したことと、二回目の“レベルアップの儀”において氷属性の攻撃魔法ギフトを取得し、魔導士の職種を名乗る資格を得たことが大きかった。
やっかみと嫌悪から、尊敬と畏怖へと、他の生徒たちの彼女に対する見方が変わったのである。
腫れ物を触るような扱いは相変わらずだったが、マリエーテに立ち向かおうとする者は現れなかった。
ただひとり、私を除いて。
四年生の学年末の席次争いに負けた私は、実家の力――つまりお金とコネを使って、対策を講じることにした。
優秀な教師と才能溢れる生徒が本気を出せば、再び学年首席の座を取り戻せると考えたのである。
「いいですこと、マリエーテさん? これまでは座学だけでしたが、四年生からは無限迷宮への実地研修や、クラス対抗パーティ模擬戦が始ります。そのすべてにおいて、わたくしは貴方を上回ってみせますわ!」
しかし、結果は散々だった。
毎回のようにあと一歩のところで、マリエーテに競り負けてしまうのだ。
今思えば、それは単純に努力の差だった。
三年生までは成績上位者の中に名前すら出てこなかったわけだから、純粋な才能という面において、私は彼女よりも優位だったはず。しかし努力の量とその密度で、彼女は私を打ち負かしたのだ。
結局、四年生から最終学年である七年生まで、マリエーテは首席の座を守りきった。一年生から三年生までは私が首席だったから、回数においても三対四で負けである。
もちろん、悔しい気持ちもあった。
だがそれ以上に、全力で戦うに値する相手と本気で戦えたことに対する充足感で、私の心は満たされていた。
もし彼女と出会っていなければ、私の学生時代は、まるでぬるま湯に浸かったような、ぼやけたものになっていたことだろう。
卒業後は婿をとるか、他の商会の跡取り息子に嫁ぐか。どちらにしろ、笑顔の仮面を被りながらその下でほぞを噛むような、欺瞞と空虚に満ちた将来が待っていたに違いない。
だから私は、卒業式の日に彼女を呼び出して、感謝の言葉を伝えようと考えた。
それからもうひとつ――
「マリエーテさん」
夕暮れの屋上で、彼女は待っていた。
呼び出しに応じてくれたのは、さすがに卒業式の日にまで自主訓練をするわけにもいかず、手持ち無沙汰だったからだろう。
彼女は屋上の縁壁に肘をつき、そこから広がる街並みを眺めていた。
呼びかけを無視されるのはいつものことだったので、私は許可も取らず彼女の隣に並んだ。
「何の用?」
彼女はこちらを見ようともしない。
ずいぶん我慢強くなったものだと内心苦笑しながら、私は自分の気持ちを伝えた。
その間、マリエーテは街の風景を眺めていた。
いや、違う。
鮮やかな夕焼けに照らされた彼女の横顔は、あまりにも張り詰めていた。
まるでここではない何かを。これから訪れるであろう、あまりにも厳しい未来を見据えているかのような。
今さらながらに私は疑問に思った。
貴方は、いったい何のために――
その時、鐘の音が鳴り響いた。
卒業式の後はダンスパーティというのが恒例だ。更衣室でドレスに着替えて、講堂に集まらなくてはならない。
「……じゃあ」
「お、お待ちになって!」
立ち去ろうとするマリエーテを、慌てて私は呼び止めた。
もうひとつ、どうしても伝えたいことがあったからだ。
「卒業後、わたくしは貴方と同じ冒険者になります。育成学校の成績では遅れをとりましたが、実戦では絶対に負けませんわ。ようするに、勝負はこれからも続くのです。そ、それと。わたくしと貴方は終生のライバルであり、また同業者でもあるわけですから、今後は互いに愛称で呼び合うべきでしょう。その方が自然ですわ。わたくしのことはカリンとお呼びなさい。替わりにわたくしは、貴方のことをマリンと呼ばせていただきます。いいですこと? これは決定ですわよ!」
真っ赤になりながら一方的に宣言すると、私はマリエーテを追い抜くようにして、その場から走り去ったのである。
「ふん、ふん、ふ〜ん♪」
夕焼けが、やけに眩しい。
どこか牧歌的な鼻歌とともに揺れているおさげを見つめながら、カトレノアはとぼとぼと帰路についていた。
念入りに手入れをしたはずの髪は解れ、頬はこけ、おまけに目が死んでいる。
装備品だけは綺麗だが、それはあまりにも汚れが酷かったため、マリエーテが“逆さ時計”の魔法を使って迷宮探索前の状態に戻したからである。
可愛らしい犬頭人の大量殺戮を強制されたカトレノアは、体力も持久力も根こそぎ奪われ、精神的に完全に打ちのめされていた。
背負い袋を担ぐ余力もなく、ロウに預けている有様である。
隣を歩くマリエーテに目を向けると、彼女も似たり寄ったりの姿だったが、重い荷物を担ぎながらもしっかりとした足取りで歩いていた。
不意に、鼻歌が止まった。
「冒険者は、まともじゃない」
振り返ったシェルパは、変わらぬ笑顔を浮かべていた。
「深く深く――より強力な魔物が出現する恐ろしい階層へと、自ら望んで入り込んでいく」
迷宮を攻略して“終焉”を防ぐという大義名分はあるものの、そんなお伽噺を本気で信じている者は、ほとんどいないはず。
生活のためならば、地上で普通に働けばよい。
少なくとも命を落とすことはないだろう。
「だから、カトレノアさん。今の君の状態は、君がまともである証拠だよ」
よかったねという感じで、シェルパは言った。
「明日も明後日も、君が何も感じなくなるまで、この訓練は続く。よほどの覚悟があるなら、あえて止めはしないけれど。……ね?」
省略された言葉は――君には、そんなものはないだろう?
「今日は家に帰って、ゆっくり休むといい」
そして明日から、まともな生活に戻りなさい。
再び、鼻歌が響いてきた。
カトレノアは歯噛みしたが、心のうちでは確かにと自問している自分に気づいていた。
これだけ苦しみ、淑女としてはあるまじき醜態を晒してまで、迷宮探索を行う意義とは何だろうか。
冒険者としての矜持など、自分にはない。
あるのは、ただ子供じみた理由だけ。
隣を歩くマリエーテの様子をそっと窺う。
夕焼けに照らされた少女の横顔は、何ものかに抗うかように厳しく、そして美しかった。
カトレノアは既視感を覚えた。
それは卒業式の日、屋上での一情景。
同時に、あの時の疑問も沸き起こった。
「……マリンさん」
「なに?」
「貴方はどうして、冒険者に?」
「大切な人を、助けるため」
あっさりと答えは返ってきた。
「あの迷宮には、私の大切な人が囚われている。その人を助けるために、私は冒険者になった」
生活のためでも、“終焉”を防ぐためでも、ましてや緊迫感を味わうためでもない。
あまりにも純粋な、子供じみた――
「囚われる? 無限迷宮の、どちらに?」
「地下第八十階層」
「……っ!」
カトレノアは絶句した。
二百年以上に渡る歴史の中で、王都の冒険者たちの中でもごく限られたパーティだけが到達することができた、最も深き階層。
無理だと、カトレノアは思った。
マリエーテひとりでは、目的の階層にたどり着く前に、確実に命を落とす。
「ふん、ふん、ふ〜ん♪」
冒険者育成学校でも孤立しがちだった彼女に、信頼に足る優秀な仲間は、果たして現れるだろうか。
自分以外に。
『大切な人を助けるため』
そのために、命を賭ける。
それは自分にとって――冒険者を目指す十分過ぎるほどの理由ではないのか。
頭の中が、ぐるぐると回る。
うまく考えがまとまらない。
「ふふん、ふ〜ん♪」
――お黙りなさいっ!
翌朝。
「……待っていましたわよ。マリンさん」
目の下にクマをつけた明らかに寝不足の状態で、カトレノアは玄関先で待っていた。
昨夜は無理やり夕食を胃の中に入れた。そして今朝は朝食を抜いた。
どうせ意味がないからである。
「どうして?」
珍しく驚いたように、マリエーテが目を見開いた。
その表情を見られただけでも、ここに来た甲斐があったと、カトレノアは思った。
「貴方に迷宮探索を行う理由があるように、わたくしにも大切な理由がありますの」
それは、ひと晩考えに考え抜いて出した結論だった。
あるいは精神が異常状態に陥っており、冷静な判断ができていないだけかもしれないが、少なくとも後悔はしていない。
「その理由を失うことに比べたら、犬頭人ごとき、いくらでも虐殺してみせますわ!」
完全に強がりだった。
マリエーテとともに、馬車で案内人ギルドへと向かう。
道すがら、隣り合わせに座っていたマリエーテが、ちらりちらりと視線を向けてきた。
学生時代の意趣返しとばかりに無視していると、とうとう根負けしたように聞いてくる。
「カトレノア」
「なんですの?」
「大切な理由って、なに?」
カトレノアは条件付きで教えることにした。
「わたくしのことを愛称で呼んでいただけるのでしたら、特別に教えて差し上げてもよろしくてよ?」
一瞬、言葉に詰まったものの、
「……カリン」
それを聞いて、カトレノアは貴淑女に相応しい、謎めいた微笑を浮かべた。
「わたくしの理由は、貴方と同じですわ」
大切な人を、守る。