(8)
取り巻きたちが、マリエーテを虐めている。
その事実に、私は薄々感づいていたが、積極的に止めようとはしなかった。
生まれて初めてプライドを傷つけられたことで、幼く愚かだった私は、貴淑女たる矜持すら忘れ、あのような粗暴な娘は育成学校に相応しくないとの判断を下したのだ。
しばらくして、事件が起きた。
マリエーテが私の取り巻きたちに暴力行為を働き、怪我をさせたというのである。
マリエーテには、十日間の停学という処分が下された。
私のせいだと思った。
ぎらぎらとした目を持つあの娘が、やられっぱなしで済ますはずがない。必ず反撃に出るだろう。
そのことを、私は知っていたはずなのに。
場合によっては退学になることも考えられたが、そうはならなかった。
女子生徒たちの怪我がかすり傷程度だったことと、関係者たちのヒアリングにより、怪我をした女子生徒たちにも瑕疵があったことが判明したからである。
停学が解けると、マリエーテは再び育成学校に登校してきた。
しかし、彼女の周囲はとてもいたたまれない環境だったはず。
謝まろうと、私は考えた。
「そ、そこの、貴方」
休み時間に、人気のない校舎裏に出向いた私だったが、まさかの問いかけが返ってきた。
「だれ?」
この期に及んで、マリエーテは私のことを記憶すらしていなかったのである。
申し訳ないと思う反面、私の心の中には、ある種の渇望にも似た気持ちが沸き起こっていた。
「そ、そういえば、まだ名乗っていませんでしたわね」
私は丁寧に自己紹介をすると、これまでの経緯を語った。
「今回の事態を招いた原因は、このわたくしにもありますの。ですから、こうして――」
「もういい」
「え?」
「私の、邪魔をしないで。こうして話を聞いている時間も、無駄だから」
そう言うと、マリエーテは訓練を再開した。
同じ空間にいながら取り残されてしまった私は、呆然と考えた。
もし次に私が声をかけたとしても、この娘は私の名前すら覚えていないのではないか。
我に返ると、ふつふつと怒りにも似た感情が込み上げてきた。
負けられない。
この娘だけには、絶対に!
「マリエーテさん、いいですこと? 今年の学年末の成績で、勝負ですわ!」
勝手に宣言して、私はその場から走り去った。
ロウはマリエーテの兄であり、神子たるミユリの父親だという。
しかし外見は、二十代の前半くらいにしか見えない。
マリエーテの兄はともかくとして、今年で冒険者育成学校の四年生、つまり十歳になるミユリの父親というのには無理があるのではないか。
そんなカトレノアの疑問を読み取ったかのように、ロウが説明した。
「実は、迷宮内で魔物に石にされてしまってね。十年くらいそのままだったんだ」
「そ、そうですの」
冒険者たちを石化する魔物は存在する。代表的な魔物は蛇鳥王だろう。
「だから俺の迷宮探索のやり方は、君たちが勉強してきたものよりも、あるいは古くなっているかもしれない。何か気づいたことがあったら、遠慮なく言ってくれるかな?」
「了解しましたわ」
最初はマリエーテを“茸痩豚”として酷使している残虐非道な男だと思っていたのが、年上のわりに腰は低いし、シェルパにしては清潔で臭わないし、愛想のよい笑顔も浮かべている。
また、“暁の鞘”のメンバーたちの接し方からも、マリエーテが大切にされていることが分かる。
これは誤解だったのかもしれないと、カトレノアは考えを改めることにした。
「さあ、迷宮門が開くよ」
迷宮砦の大広間に、姦しい銅鑼の音が響き渡った。
「いやー、終わった終わった」
「麦酒飲みてぇ」
「お疲れさまです」
「おう、お前さんも頑張れよ」
地下第一階層から上がってきた冒険者たちから、迷宮内の情報を仕入れる。
こういったやり取りは、カトレノアが初めて経験するもの。自分が冒険者になったのだと改めて実感した。
出入り口に近い領域には、魔物たちの姿はないので、心の準備を整えることができる。
「最初は魔素に身体を慣らすため、深く呼吸をしながら進もう」
「真新しい光苔には気をつけること。気づかない段差が隠れているかもしれないからね。足を挫いたりしたらしたら、迷宮探索は終わりだよ」
「通路で、魔物たちの接近を聞き取ることは難しい。常に足の裏で、振動を感じながら歩くこと」
時おり語られるロウの助言は、実に的確だった。
そして、記念すべき初戦闘となる。
満月毛玉だ。数は二体。
「ただの毛玉ですわ」
地下一桁台の階層で、攻撃魔法を使う機会はほとんどない。愛用の薄曲刀を構えて、カトレノアは突進した。
すぐ後ろから、ぼそりと忠告が飛ぶ。
「飛び跳ねて着地したところを狙う。毛の動きを観察すること」
「わ、分かりましたわ」
こちらに気づいた二体の満月毛玉が、わずかに沈み込む。
その身体が震えた瞬間、
「いまっ」
マリエーテの合図で、二人は交差するように跳んだ。
狙いを見誤った満月毛玉が虚しく着地したところを、薄曲刀と針突剣が貫く。
「動きもいいし、剣の軌道もぶれていない。カトレノアさんは、かなり訓練しているね」
「当然ですわ」
ロウに褒められ、カトレノアは鼻高々である。
その後、二回の戦闘を経て、新人冒険者二人とシェルパのチームは、地下第三階層へ入った。
「少し物足りないですわね。これでは、ろくに経験値も稼げませんわ」
「主要路順の魔物は、それほど多くはないからね。でも、これから向かう領域は期待できるよ」
ロウが案内したのは、地下第三階層の北部一帯。
“犬頭人の巣窟”と呼ばれている領域だった。
淡々とした口調で、ロウが説明した。
「犬頭人たちは、それほど強くない。でも、広間の壁を掘って篭るという珍しい習性を持つ。だから少しずつ数が増えて、時には群魔祭が起きる可能性があるから注意が必要だ。まあ、広間で壁の穴の数を数えれば、おおよその数は分かるけれどね」
「犬頭人など、もの足りませんわ」
「……」
隣のマリエーテがふいと顔を背け、ため息をつく。
「さあ、ここからが本番だよ。集中して、より良い“実りの時間”を過ごそう」
犬頭人は弱く、魔核も小さい。成果品もそれほど高価なものではなかったはず。
“犬頭人の巣窟”という場所があることを、知識としてカトレノアは知ってたが、“美味しい”稼ぎ場になるという話は聞いたことがなかった。
小さな広間に入る。
「穴の数はみっつ。ちょうどいいね」
ロウは荷物の中から、折りたたまれた袋を取り出した。それは背負い袋で、マリエーテは一度肩当てを外してから背負い袋を担いだ。再び肩当てをつけたものの、どうにも奇妙な姿である。
「犬頭人を誘き出すには、こうやって――」
ロウは荷物に吊り下げていた鉈のような道具で、広間の壁を何度も打ちつけた。
しばらくすると、壁に開いた穴の中から、白いふさふさとした毛を持つ魔物が飛び出してきた。
犬頭人だ。
ひとつの穴から一体ずつ。計三体の犬頭人たちは、眠そうに目をこすりつつ、きょろきょろと周囲を見渡した。
『キュイ?』
そしてこちらを見つけると、よたよたと頼りない足取りで近寄ってきた。
背丈はカトレノアの半分もない。
二本足で歩き、二本の手を開いて威嚇してくる――が、まるで迫力がない。
それは四頭身の体格と、可愛らしい顔のせいだった。
ふさふさの耳にくりっとした黒目。鼻の頭はピンク色で、口の中からも小さな舌が覗いている。
バランスをとるためか、しきりに尻尾を揺らしているが、それはまるで大好きな主人を迎える犬のようだった。
「これが、犬頭人?」
カトレノアは愕然とした。
魔物図鑑の冊子では見たことがあるが、もっと凶悪な目つきをしていたはずだ。
「見かけに騙されちゃいけないよ。彼らは動物ではなく、魔物だ」
笑顔のまま、ロウが言った。
「レベル三以上の冒険者ならば、武器がなくても撃退することができる。マリン」
「うん」
マリエーテは呼吸を整えると、瞬間的に気合を入れた。
思わずカトレノアは目を見開いた。マリエーテの身体から、目も眩むような――実際には見えないので、あくまでも比喩的な表現だが――強烈な光が迸ったからである。
『キュウ!』
犬頭人たちは、糸の切れた操り人形のように、突然ばたんと倒れた。そして、大胆に腹部を見せながら、マリエーテの方をじっと見つめた。
ロウが解説する。
「こうやって強めの神気を浴びると、犬頭人は降参の仕草をとる」
マリエーテが針突剣を引き抜いた。
「そこで、とどめを刺す」
――ザクリ。
『ギュエアアア!』
耳を塞ぎたくなるような絶叫が広間内に響き渡った。
ザクリ、ザクリ。
マリエーテは三体の犬頭人を、無慈悲に葬り去った。
「これで、おしまい。あとは魔核を回収するだけ」
マリエーテは短刀を取りだすと、しゅうしゅうと黒い霧のようなものを噴き出している犬頭人の死体に突き刺した。
魔核は魔物の頭部にある。
マリエーテは何度も短刀を突き刺して、その部分を柔らかくすると、手を突っ込んで、淡い紫色をした魔核を取り出した。
その直後、犬頭人の死体が黒い霧とともに霧散した。
後に残ったのは、魔核と小さな銀色の塊のみ。
「腐銀だね。染料の素材になる」
無言のまま、マリエーテは魔核と金属の塊を背負い袋の中に入れた。
一部始終を見守っていたカトレノアに、ロウが説明した。
「浅階層で、新人の冒険者が不覚をとる要因は、おもに二つ。ひとつが、覚悟不足だ」
特に人型の魔物と初めて対峙した時が、その冒険者の分かれ道だという。
どんな姿形をしていても、魔物は魔物。躊躇うことなく、相手を倒さなくてはならない。
「腹を据える――いや、感覚を鈍らせるというのが正しいかな? そのための場所として、“犬頭人の巣窟”はうってつけなんだよ」
話は、理解できる。
「そして二つ目が、持久力不足」
どれだけ疲れていたとしても、魔物たちはお構いなしである。
高い技術を習得し将来を嘱望された冒険者たちが、連戦に次ぐ連戦で、ちっぽけな魔物たちに命を奪われたという事例は、枚挙に暇がない。
「だから君たちには、持久力の値を上げるために、魔核と成果品を背負いながら戦ってもらう。戦えば戦うほど疲れが溜まり、逆に荷物は重くなっていくわけだ」
話は、理解できる。
だが――
「さあ、次の広間に行こうか」
“犬頭人の巣窟”と呼ばれている領域は、短い通路と小さな広間が連続している。
カトレノアが心の準備を整える間もなく、次の広間へとたどり着いた。
「穴の数は、二つだね。はい、カトレノアさん」
ロウから背負い袋と短刀を渡された。
広間の壁が何度も打ち鳴らされる。
すると、穴の中からごろんと、可愛らしい二体の犬頭人が現れた。
ふさふさの耳に、くりっとした目。そしてせわしなく動いているしっぽ。
「はっ、はっ……はっ」
我知らず、カトレノアは呼吸を乱していた。
手順は完璧に理解した。まずは強めの神気を放って、犬頭人たちを降参させる。
『キュウ』
腹を見せた犬頭人に、とどめを。
『キュキュウ』
とどめを――
顔を青ざめさせ、小刻みに震え出したカトレノアの肩に、そっと手が置かれた。
「無理しなくていい」
マリエーテだった。
彼女は微笑を浮かべていた。優しげにというよりも、それはどこか諦め切ったような表情だった。
期待はしていなかったが、やはりだめだった。
カトレノアは何故か、その心情を正確に把握することができた。
「私が、やるから」
針突剣を引き抜き、マリエーテが魔物たちに歩み寄っていく。
その後ろ姿を見送っていると、カトレノアの心の中に、ふつふつと得体の知れない感情が沸き起こってきた。
まるで他人事のように進んでいた現実が、かつて経験したことのない類の恐怖が、怒りで塗り潰されていく。
「ふ――」
カトレノアはマリエーテを突き飛ばした。そして短刀を手に犬頭人に覆いかぶさると、その切っ先を思い切り叩きつけた。
「ふざけないで! このわたくしが、この程度でっ」
『ギュエアアア!』
断末魔の叫び声とともに、黒い霧がまるで血のように吹き出す。
手に残る生々しい感触。
堪えきれず、カトレノアは嘔吐した。




