(7)
――迷宮泉。
それは、冒険者たちの憩いの場所。
水を嫌う魔物たちは近寄らず、貴重な飲み水を確保できる。
場所によってはポーションの原料となる薬草が群生していることもあり、地上に持ち帰れば、莫大な利益を上げることも可能だ。
まったくもってよいこと尽くしであり、欠点といえば、出発のときに気が重くなることくらいか。
冒険者たちだけでなく、もちろんシェルパにとっても心安まる場所……だったはず。
地下二十四階層の迷宮泉のそばで、ロウは何ともいえない緊張感に包まれながら胡坐をかいていた。
隣には、静かに鎮座している中型の魔物。
獅子の頭と山羊の胴体、蝙蝠の羽、そして蛇の尻尾。
蛇獅子である。
これほど接近して、まじまじとこの魔物を観察したことは今までなかった。
じと目になりながら、そっと手を出してみる。
獅子の鬣。ごわごわしている。
鼻先は猫と同じだ。大きさが五十倍くらいありそうだが。
閉ざされた口を無理やりこじ開けてみると、人差し指よりも長い牙がにゅっと顔を出した。
そして魔物の目には――光がない。
虚空を見つめる節穴の目だった。
ついでに、団扇のような耳に触ろうとすると、びくんと魔物の身体が痙攣した。
「――うわっ」
驚き後ずさるロウを見て、ユイカが笑った。
「いい忘れていたが、無意識の動作だけは防げないぞ」
この蛇獅子は、「動くな」というユイカの命令に従っている。
新しい仲間、というよりも、彼女の忠実なる下僕だ。
「さあ、今日はまだ進めるぞ」
短い休息のあと、迷宮泉を出発する。
蛇獅子が先頭。もともとは地下三十五階層前後に住み着く魔物である。広間で出くわした多くの魔物は逃げ出し、あるいは蛇獅子の牙によって噛み砕かれた。
『――ヴルガァ!』
蛇の尾が逆立ち、空中に複雑な魔方陣を描く。周囲に一瞬だけ青白い網の目のような光が浮かび、弾けた。
目の眩むような閃光と爆音。
雷属性の攻撃魔法――“雷網”である。
次の瞬間、十体近くの黒曜狼が、どうと地面の上に倒れ込んだ。
さすがに一撃死にはならず、ぴくぴくと四肢を痙攣させている。
ユイカは無造作に黒曜狼に近寄ると、頭の部分に刺突剣を突き刺した。
「“幻操針”」
黒曜狼に変化はなかったが、ユイカは他の魔物にも同じような処置を施すと、最後に指先で魔方陣を描いた。
「“闇床”」
習得するもののほとんどいない闇の魔法である。
歪な形の魔方陣が分裂し、黒曜狼の身体に張り付き、弾ける。
やがて……魔物たちがのそりと立ち上がった。
虚空を見つめる節穴の目。
凶暴性が収まり、無意味な動きもなく、ただ在るだけの存在。
「よし、全員集合しろ」
ユイカの号令に、黒曜狼と、何故か蛇獅子まで集まってきた。
「お前から、“クロ一”、“クロ二”、“クロ三”……」
ユイカは黒曜狼たちに適当な名前をつけていく。
蛇獅子にはすでに“ネコ”という名前がつけられている。
ネーミングセンスはどうかとロウは思ったが、冗談を口に出せるような状況ではない。
黒曜狼は九体。蛇獅子を入れて十体となった魔物の群れは、“宵闇の剣”の忠実なる兵士となっていた。
これが、“死霊使い”ユイカに与えられたギフトだ。
魔核を貫き、その魔物の精神を支配する。
二十三階層の主である蛇獅子も、ベリィとヌークが弱らせて、最後にユイカが“幻操針”を魔核に打ち込んだのである。
階層主すらあっさりと服従させてしまうその威力に、ロウは驚愕した。
「突っ切るぞ」
蛇獅子をリーダーとした黒曜狼の群れは、パーティの先陣を切ることになる。
いくつかの通路を抜け、広間に出ると、待ち構えていたのは、人の半分ほどの大きさのある蟷螂ような魔物――燈篭鎌の群れだった。
その名前の由来となった楕円形の大きな目が、不気味な赤い光源を発している。
「“クロ一”から“クロ九”、突撃しろ」
魔物が、魔物に襲いかかった。
洗練された動きなどない。
牙対鎌。
互いに最大の武器を相手に叩きつける。
それは、阿鼻叫喚の地獄絵図としかいいようのない、むごたらしい光景だった。
ほぼ同階層に属する魔物たちであり、実力は拮抗している。
勝敗を分けたのはときの運――ではなく、ユイカの魔法だった。
「“闇床”」
硬直していた戦況は一変。遠距離からの回復魔法により体力を取り戻した黒曜狼の群れが、燈篭鎌の群れを蹂躙する。
希少成果品として、魔物の鎌がひとつだけ残された。
武器としては使い勝手に問題があるが、最高級草刈り鎌としてそのまま利用できる逸品である。
迷宮探索は、一気に加速した。
地下三十階層を越えると、さすがに黒曜狼では厳しくなる。ユイカは回復魔法を使わず、黒曜狼を“消費”し、替わりに赤兜という熊のような魔物を支配した。
こうして次々と魔物の軍団を変え、さらなる下層の魔物に対抗していく。
地下三十二階層の迷宮泉で一泊し、その日の探索は終了。
翌日からはロウの仕事も忙しくなる。
“宵闇の剣”は標準パーティだが、倒す魔物の数は桁違いに多く、ほぼ遠征並といってよい。それなのに、シェルパはひとりだけ。魔核や成果品の回収と、ロウにかかる負担は大きかったが、“持久力回復”のギフト持ちであるロウは、淡々と作業をこなしていった。
そして、地下四十三階層。現在確認されている最下層の迷宮泉で、二日目の探索を終えることになった。
わずか二日で、三十階層突破。
「……まるで、冗談のような数字ですね」
通常であれば、十日はかかる行程である。
ロウは驚くよりも呆れたような顔で、自家製の燻製肉を切り、パンに挟んだ。果物と野菜をサラダにして、これまた自家製のドレッシングをかける。
「いや、これほど順調に探索が進んだのは初めてだ。二日で三十階層突破というのは、“宵闇の剣”の最高記録だぞ」
上機嫌で語るユイカだが、その表情はさすがに疲労の色が濃い。
体力的にはほぼ無傷だが、道中、マナポーションを二個消費した。
彼女が使役した魔物の数は、総数で五十体を越えただろうか。
四十階層以降の深階層に入ると、ひと型の魔物も出現し、魔鍛冶師が製作したものと思われる特殊な武器や防具を身につけた魔物も多くなる。彼らには知性があり、ときにはパーティを組んで、冒険者を組織的に襲ってくることもあるのだ。
その中で、骸骨兵士や豚鬼などを中心とした、約十五体の魔物をユイカは使役中である。
中でも威容を誇るのが、地下四十階層の階層主だった魔牛闘士だろう。
意匠を凝らした巨大な戦斧を地面に突き刺し、柄の部分に節くれだった手を置いたまま待機していた。
ロウはパンとサラダ、そして簡易的な釜戸で煮込んでいたスープを全員に配った。パーティの食事を作るのも、シェルパの大切な仕事である。
「まさか、深階層でサラダが食べられるとはな」
ヌークが無表情のまま、フォークを葉野菜に突き刺す。
マジカンも同意した。パーティ内では、この賢者が一番多くの食糧を消費する。補助的な魔法しか使わず、一番仕事をしていないはずだが、わるびれる様子はまったくないようだ。
「ほっ、しかし、この燻製肉はうまいの」
「――ちっ」
燻製肉を挟んだパンをひと口かじって、ベリィが舌打ちをする。
食事の味に文句をつけようとしたのだろう。しかし、ロウ特製の燻製肉は他の冒険者たちも認めるほどの逸品だし、迷宮の奥深くで食べられる新鮮な野菜は、ある意味マナポーションよりも貴重である。
これで不平不満を言えるわけがない。
食事が終わると、魔核を吸収する作業を行う。
地下三十階層から四十階層における魔核は、胡桃ほどの大きさ。色はどす黒い紫色。その数、百個弱。大きさも考慮に入れながら四等分し、それぞれが“収受”する。
それは、冒険者全員に最初に与えられる共通ギフトだった。
魔核に強い衝撃を与えると、何故か爆発するため、宝石のように加工することはできない。色もわるく、観賞用にもならない。唯一“収受”で魔核内の経験値を体内に取り込める冒険者にのみ、有用な物質なのである。
魔核の“収受”には時間がかかるため、ロウは先に休むことにした。
ユイカがギフトで使役した魔物は、簡単な仕事をできる者もいて、見張り役を任せられるらしい。
「初日の魔物は微妙だったが、ひと型の魔物は総じて知能が高い。魔牛闘士もいることだし、安心して眠ってくれ」
他の魔物が近づいてきたら戦うようにと命令し、ユイカはそれぞれの魔物を迷宮泉に繋がる通路に配置した。
魔牛闘士に起される気分は、どのようなものだろうか。
剛毛の生えた手で揺り動かされる様子を想像したロウだったが、ひとつため息をついて、その不気味な光景を追い払った。