(7)
忘れもしない。
あれは冒険者育成学校四年生の学年末。廊下に張り出された席次表を見て、私は真っ青になった。
初めて、学年首席から転落したのである。
「……マリエーテ? 誰ですの?」
取り巻きのひとりが教えてくれた。
その今年の“レベルアップの儀”において時属性という希少な魔法ギフトを取得したことで、一時期有名になった女子生徒だという。
学業の成績はそれほどでもなかったので、カトレノアは気にも留めていなかった。
だが入学以来、圧倒的な成績で三年連続学年首席だった自分を上回ったとなると、話は変わってくる。
いたくプライドが傷つけられた私は、彼女の所属する第三学級――中流以下の階級に属する子供たちの中ではもっとも成績優秀な学級である――を訪れた。
教室にはいなかった。近くにいた生徒に聞くと、休み時間にはいつも校舎の裏で剣術の自主練をしているらしい。
ズンッ――ズンッ。
校舎裏に向かうと、鈍い打撃音のようなものが聞こえてきた。
そこには、やや癖のある薄茶色の髪を持つ小柄な少女がいた。
カトレノアと同じ紺色の制服姿で、小振りの突剣を構え、地面に打ちつけられた杭に向かって突進を繰り返している。
スカートで剣を振るうなど、淑女としてはあるまじき行為だった。
そのことを注意しようと思った。
「ちょっとそこの貴方。よろしくて?」
と、声をかけたと思う。
女子生徒は振り向かなかった。一心不乱に丸太に向かって突進を繰り返している。
声かけを無視されて癇癪を起こした私が丸太の前に立ち塞がると、ようやく女子生徒の動きが止まった。
「……だれ?」
自分の顔と名前を知られていなかったことよりも、その姿に驚いた。
髪は乱れ、顔色もわるい。頬はこけ、目の下にはクマが浮かんでいた。肉体的にも精神的にも疲れ切っているようだ。
だがその瞳には、鮮烈な強い意志の光が燃え上がっていた。
「邪魔だから、どいて」
冷たい口調で言い放つと、女子生徒――マリエーテは、突剣を構えた。
そしてそのまま、私の存在などいないかのように突進してきのである。
命の危険を感じた私は全力で身をかわした。
あろうことか、バランスを崩して地面に尻餅をついてしまった。
――ズンッ。
生まれて初めて、私は怯んだ。
淑女たる笑顔を忘れ、臆面もなく震え、悲鳴じみた声と
ともに逃げ出したのである。
そんな自分が、許せなかった。
冒険者になり、マリエーテとともにパーティを組んで、無限迷宮に潜行する。
紆余曲折はあったとはいえ、冒険者育成学校からの目標を達成することができて、内心カトレノアは上機嫌だった。
期待と興奮のあまり前夜はまったく眠れなかったが、気力の充実が眠気を吹き飛ばし、自分でも抑えきれないほどの高揚感で満たされていた。
「参りましたわ!」
紅の生地に黒糸の刺繍が入った豪奢なローブに、花飾りのついた鍔広帽子、武器は短杖に薄曲刀という装備である。
“暁の鞘”の玄関ロビーで出迎えたマリエーテの装備と比べても見劣りしない。それどころか二人が並び立てば、その華麗さに誰もが目を奪われることだろう。
気の早いことに、カトレノアは自分とマリエーテが馬車に乗り、冒険者街道を送迎行進している様子まで妄想した。
玄関ロビーには、マリエーテの他に、攻略組族の代表であるシズ、支援要員のタエとプリエ、そしてミユリも見送りのために顔を出した。
「マリンさま。少しはお食べになった方がいいですよぅ」
「ごめん。いらない」
心配そうにプリエが差し出した布の袋を受けとると、マリエーテは申し訳なさそうに首を振った。
「食べても、意味ないから」
「そうですか」
タエが困ったものだという顔になる。
「まあ、朝から無理やり食べても、体調を崩すかもしれないからね。マリンさま、くれぐれもお気をつけて。ご馳走を作って待っていますからね」
「うん。夜はしっかり食べる」
ミユリが駆け寄ってくる。
「マリン姉さま、いってらっしゃい。僕、今日も女神さまに、迷宮探索の無事をお祈りしてきます」
「ありがと、ミュウ」
「カトレノアお姉さまも、お気をつけて」
「きょ、恐縮ですわ」
姿形だけでなく、その仕草や物言いも天使そのものである。不敬にも思わず抱きしめたくなる衝動を堪えながら、カトレノアは無理やり微笑んで見せた。
「マリン」
ひとり無表情のシズだったが、口から出た注意事項には焦りに似た感情がにじみ出ていた。
「浅階層とはいえ、迷宮内では何が起こるか分かりません。すべてをシェルパ任せにせず、周囲の警戒は自分自身で行うように。また、引き返す判断も重要となります。少しでも体調に異変を感じたなら、シェルパに遠慮することなく、しっかり伝えることです。迷宮探索の主役は、あくまでも冒険者なのですから。よいですか、迷宮探索で一番大切なことは、魔物を倒すことでも、希少な成果品を手に入れることでもなく、無事に帰還することであり……」
「昨日も聞いた」
ひとつ息をつくと、シズはこう締めくくった。
「では、気をつけてお行きなさい。よい冒険の成果を」
「うん、行ってきます」
「カトレノアさまも、ご無理をなさらないように」
「分かっていますわ」
ずいぶんと家庭的な攻略組族だと、カトレノアは意外に感じた。
そして彼らの、マリエーテと自分に対する態度や心情的な差についても自覚した。
仮入隊とはいえ、自分はまだ客人に過ぎないのだ。
「さあ、マリンさん、出発ですわ! 表に馬車を待たせてありますの。冒険者ギルドまでお送りしますわ」
しかしマリエーテは首を振った。
「案内人ギルドに行く」
通常であれば、冒険者ギルドの受付で迷宮探索開始の報告を行い、“旅立ちの間”でシェルパと合流する。
そこで簡単な打ち合わせを行ってから冒険者街道を通って迷宮砦に向かう、という流れのはず。
冒険者がシェルパを迎えに行くなど、聞いたこともなかった。
マリエーテによれば、冒険者ギルドに関わる事務作業はすべてプリエが事前に済ませているらしい。
「つまり、冒険者は迷宮探索にのみ集中できるということですわね。さすがは攻略組族というところでしょうか」
馬車の座席に並んで座ると、カトレノアの精神の高揚は最高潮に達した。
「それで、マリンさん。今日はどの階層を探索なさいますの?」
「地下第三階層」
「目的は? やはり経験値稼ぎかしら?」
「そうと言えなくもない」
マリエーテとの会話がこれほど長く成立したのは初めてである。
やはりパーティメンバーという関係は、特別なのだ。
「ひとつ忠告。案内人ギルドでは、笑顔を忘れないこと」
「笑顔、ですか?」
「そう。シェルパたちを味方につけることは、“暁の鞘”にとって、有用だから」
意味がよく分からなかったが、よい気分だったこともあり、カトレノアは快く承諾した。
王都の森区。下級階級に所属する人々たちが住まう区域に、冒険者ギルドと案内人ギルドはある。
冒険者街道と呼ばれる大通りを隔てて隣り合っているのだが、ふたつの建物は、その規模も豪華さも大違いだった。
王都の経済活動の一翼を担っている冒険者ギルドは、巨大な三階建ての建物で、門構えも立派なもの。敷地面積も広く、訓練施設などもある。
一方の案内人ギルドの建物は、所属しているシェルパの人数にしては規模が小さく、平屋造りで、床や壁は薄汚れていて、おまけに――
「な、何ですの、この匂いは」
「汗と埃の匂い」
ここ数日通い詰めていることもあり、案内人ギルド内ではマリエーテのことが噂になっていた。
迷宮門が開く前だというのに、迷宮に潜行する予定のないシェルパたちまで談話室にたむろしており、そわそわと落ち着かない時を過ごしていたのである。
「おはよう。お兄ちゃん、いますか?」
「お、おう、来たか。ロウは倉庫にいるぞ」
「すぐにもどってくるから、ゆっくりしていけよ」
「これ、うちで作ったの」
そう言ってマリエーテは、プリエから渡された布袋を、そのまま大男のひとりに渡した。
「お、おう。いつもすまねぇな」
「いいか、お前ら。ひとり一個ずつだ。がっつくんじゃねーぞ」
「おう!」
「いやあ、マリンの焼菓子はうまいからな」
「ほんと?」
「ああ。形も、少しずつよくなってるぜ」
「そう?」
「いや、大したもんだ」
大男のひとりが、談話室の入り口で呆然と佇んでいるカトレノアに気づいた。
「ん? 誰だ、このお嬢さまは?」
「――ひっ」
マリエーテが勝手に紹介する。
「カトレノア。うちの見習い冒険者。カリンと呼んで欲しいらしい」
「なんだと?」
何故か同じような袖無の服を着た筋肉の塊が、ぞろぞろと集まってきた。
上流階級の社会においては、人と人が接する時の距離感というものが存在する。もちろん、相手の身体に触れるなど、言語道断だ。
しかし、袖無服を着た大男たちの集団は、まるで大波のように押し寄せてきて、その防波堤を一気に突破してきた。
「どうした、嬢ちゃん。青い顔をして」
「さっき言ったこと、忘れるな」
ぼそりと呟かれたマリエーテの忠告――というよりも脅迫じみた命令を受けて、カトレノアはほとんど反射的に微笑んで見せた。
「カ、カトレノア、ですわ。ご、ご機嫌よう」
「おう、こんなに細っちい腕で、剣が振れるのか?」
「そうだな。もっと飯を食わねーと」
「馬鹿、よく見ろ。短杖を持ってるだろうが。魔法使いだ」
「なんだ、魔女っ子か」
「こいつはうっかりだ」
がははという下品な笑い声に包まれながら、腕を摘まれ、頭を撫でられ、背中を叩かれる。
視覚、嗅覚、聴覚、感覚から入り込んでくる精神的ダメージが、カトレノアの限界点を突破する寸前、
「やあ、二人とも、お待たせ」
助け舟が入った。ロウである。
ひと目見て状況を察したのか、おさげのシェルパは苦笑を浮かべつつ、やんわりと言った。
「先輩方。カトレノアは、冒険者として初めての潜行ですから、少し緊張してるみたいです。可愛がるのも、ほどほどにしてやってください」
辛うじて、カトレノアは意識を保ち続けることに成功した。




