(11)
数日後、シズは私物をまとめて住み慣れた屋敷を出ることになった。
その間、彼女はほとんど自室から出なかった。ひとり部屋にこもって、引き継ぎの資料を作成していたのである。
自分の後任はまだ決まっていない。しかし、これまで溜め込んできたミユリの情報や今後予定していたデビュー計画などは、残しておかなくてはならないと考えたからだ。
もはや必要のないものなのかもしれないが。
シズは大きな手提げ鞄をひとつ持って部屋を出た。本や仕事道具などの重い荷物は、後日業者に運び出させる予定である。
ミユリやメイドたちに挨拶をしようとしたところで、初めてシズは気づいた。
今日出ていくことを、誰にも伝えていなかったことを。
屋敷の中はしんと静まり返っていた。
「タエさん?」
食堂には誰もいない。
休憩室を覗いてみる。
「プリエ?」
もいない。
ロウ、マリエーテ、ミユリの部屋を訪ねたが、誰もいなかった。
シズは訝しく思った。
今日は休息日である。冒険者育成学校も休みのはず。みんなでどこかへ出かけたのだろうか。
シズの管理下であれば、そのような勝手は許されなかった。
誰もが諦めたように従う他なかった。
ロウが来てから、この屋敷は――おそらく良い方向に変わったのだろう。
シズは素直に認めることができた。
自分が管理していた間は、屋敷内の雰囲気は緊迫した空気と沈黙で包まれていたように思う。
ミユリは教団の象徴となるべき尊きお方。崇め奉られるとこはあっても、同等の友人として接してくる者などいない。
そんな現実に慣れさせるためにも、砕けた雰囲気を形作ることなどできなかった。
だが、父親であれば別である。
最近、ミユリが楽しそうに話す機会が増えたように思う。
食事の時にロウが学校での様子を聞き、ミユリは母親の話や迷宮での冒険話を聞きたがる。そこにマリエーテとメイドたちとも加わって、冗談を言い合ったり、互いに笑い合ったりする。
普段であれば食事を終えるとすぐに子供たちは自室へと戻り、タエとプリエは帰り支度を済ませるのだが、食後のお茶が出て、談笑が続くようになった。
まるで、ごく普通の家庭のように。
がらんとした屋敷の様子に、シズは苦笑した。
これが結果だと思った。
仮にロウが復活していなかったとしても、おそらく――ーいずれは破綻していたのだろう。
自分は過ちを犯し、そのことに気づいてさえいなかった。
見送る者のいない別れ。
愚かな自分には、相応しい最後なのかもしれない。
シズは慣れ親しんだ屋敷を出た。
皮肉なほどよい天気だった。
植木には水をやった形跡があった。まだ葉の上に雫が残っており、きらきらと輝いている。
シズの鞄の中には、一通の辞令が入っていた。
そこには、彼女の新しい異動先が記されていた。
とある攻略組族の支援をせよとのことである。住み込みで働くことができるらしい。
攻略組族とは、冒険者組隊をさらに拡張した組織のことだ。
代表を据え、拠点を構える。支援要員が事務作業、広報活動などを行い、冒険者たちは迷宮攻略に専念する。
それは、大きな支援者がついてなくては成り立たない形態でもあった。
もの好きな貴族の子弟か、豪商のドラ息子か。そんな輩が冒険者となり、資産を切り崩しながら運用していく。
まともに収支が成り立つ攻略組族など、ほとんどなかったはず。
かつては存在した。
“宵闇の剣”である。
おそらくは教団に多大なる貢献をした家の者が攻略組族を立ち上げ、教団に支援を要請したのだろうと、シズは勝手に想像していた。
攻略組族の名は、“暁の鞘”というらしい。
類似商標だと、シズは思った。
“宵闇の剣”のような圧倒的な人気と実力を誇る冒険者パーティが出てくると、よく似た名前のパーティがぞろぞろと現れる。
“宵闇の剣”が解散してから数年が経過しているが、その活躍は冒険者たちの間で伝説として語り継がれている。
ようするに、勇名にあやかろうというのだ。
攻略組族の活動の拠点となる事務所は、空区の外れにあった。
立派な石垣に囲まれた三階建ての屋敷である。鉄格子の門とその先の玄関の扉は開け放たれていた。
かすかな物音と人の声が聞こえる。
意を決して中に入ると、玄関にミユリがいた。
白いエプロンと頭巾をして、箒を手にしている。庶民的な格好だが、この子が身につけると妖精の式衣装のようにも見える。箒はさながら魔法の杖か。
ぼんやりと、シズはそんな感想を抱いた。
「あ、シズさん。いらっしゃい」
ミユリはにこりと微笑んだ。
「先に出てしまってすみませんでした。テーブルの上に置き手紙を残してきたのですが、見つけられたんですね」
「え、あ――いえ」
あまりにも自然な応対に頭がついていかない。
「父さま、マリン姉さま、シズさんがいらっしゃいました!」
ロウとマリエーテがやってきた。ふたりともミユリと同じような格好である。
まるで大掃除でもしているかのような。
二階から、タエとプリエも下りてくる。
自分が仕えるべき主――神子の父親に対して暴言を吐くという、執事としてあるまじき失態を犯してから、シズは彼らとほとんど話をしていなかった。
「これは、どういう……」
現実の認識が追いつかない。
口を開いたのは、マリエーテだった。
「シズ、お姉ちゃん」
「――!」
ずいぶんと懐かしい響きにシズは驚いた。
ユイカに連れられてこの屋敷にきた頃のマリエーテは、シズのことをそう呼んでいた。いや、ユイカが迷宮内で行方不明になってからも、しばらくは。
呼び方が変わったのは、いつだったか。
シズは思い出した。
あれは“宵闇の剣”が――ベリィがリーダーを引き継ぎ、ユイカの救出を目標に掲げて奮闘していた“宵闇の剣”が、解散した時だ。
それはシズが、ユイカのことを諦めた瞬間でもあった。
そもそも迷宮内で魔物に連れ去られた時点で、ユイカの生存は絶望的だったのである。
悲劇の終章が、終わっただけ。
心に整理をつけ、納得するしかなかった。
だが、マリエーテはひとり、頑として抵抗した。
『だいじょうぶ。私が冒険者になって、必ずユイカ姉ちゃんを助けるから。だから、シズお姉ちゃん――』
自分はなんと答えただろうか。
幼く蒙昧な希望をこれ以上膨らませないために、優しく諭したように思う。
黒姫さまのことは、お忘れなさいと。
それからシズはミユリの教育に全力を注ぐようになり、マリエーテと接する機会は減っていった。
気づいた時にはマリエーテから「シズさん」と呼ばれ、ミユリに対する教育方針を巡り激しく対立するようになっていた。
マリエーテが変わったのは、ユイカがいなくなったからでも、精神が成長したからでもない。
自分が、諦めてしまったから。
「お兄ちゃんが、攻略組族を立ち上げたの。ヌークおじさまにお願いして」
そういえば、自分がヨハネス枢機卿に叱責されている時に、そのような話が出ていたような気がする。
「ユイカお姉ちゃんを、助けるために」
「黒姫、さまを……」
なんの話を、しているの?
呆然と目を見開いたシズに、マリエーテが説明した。
ユイカは魔物に時属性の魔法をかけられて、時が停止した状態で迷宮内に存在している可能性があること。
根拠は、マリエーテが行使する魔法陣の類似性と、魔物自身が語った台詞。
だが、当時と比べて王都の冒険者たちの力量は落ちている。
そこで迷宮攻略に集中するために、ロウは教団による全面的な支援のもと、攻略組族を立ち上げることにした。
「姫さまが、戻っていらっしゃる、可能性が……」
「あるの!」
足を踏ん張り、両手を握りしめて。
まるで幼い子供が全力で主張するかように。
「私が。私とお兄ちゃんが、必ずユイカお姉ちゃんを助けてみせる。だから、シズお姉ちゃん――」
あの時と同じ台詞を、マリエーテは口にした。
「私に、力を貸して!」
決して諦めない強さ。
裏切りや過ちを許す優しさ。
なんて、子……。
ユイカという心に決めた存在すら揺らぐほどの衝撃を、シズは受けた。
とっくに冷え固まったと思っていたはずの心が、頑なに覆い隠していたはずの素直な心が、漏れ出す。
「は、はい……」
頬が、熱い。
涙が、流れているのだ。
そのことに気づき、シズは両手で顔を覆った。
柔らかな衝撃を受ける。マリエーテが抱きついてきたのだと、シズには分かった。
「マリンさま。はい。私が……」
やっとの思いで、シズは言葉を紡いだ。
「私にできることでしたら、どんなことでも――」
「というわけで、うまくおさまりました」
「……」
冒険者ギルド内、ギルド長の執務室。
苦虫を噛み潰したかのような表情で、ヌークは深いため息をついた。
「最初から黒姫さまの状況を話して、シズ殿の協力を仰げばよかったのではないか?」
「中途半端な協力関係は、火種になりますから」
まるで預言者のようにロウは語った。
たとえ目的が同じでも、互いの方針の違いは容易く埋められるものではない。いずれはシズと対立することになったはずだと。
ならば、後顧の憂いは早めに断ったほうがよい。
「だから、叩きのめしたのか?」
「ひと聞きの悪いことを言わないでください。あくまでも偶然ですよ」
ユイカを救出するためにロウが立てた計画の第一歩は、攻略組族の立ち上げだった。
組織を運営するためには、資金と人材が必要である。
ロウは攻略組族を立ち上げるための資金と当面の運用資金を算定し、ヌークを通じて大地母神教団に依頼した。いちシェルパに過ぎない青年のあまりにも法外な要求に、ヌークは絶対に無理だと断言した。
ユイカが勇者として活躍していた時代であれば、可能だったかもしれない。
信者たちから莫大な献金が発生していたからだ。
しかし今は、教団の運営も厳しくなっていて、毎年のように経費削減に苦慮している。
それゆえに、ミユリへの期待は大きい。
『つまりは、頼みの綱というわけですね?』
そう言って、ロウはにこりと笑った。
攻略組族の人材面については、最初からシズに目をつけていたようだ。
企画力、情報収集能力、スケジュール管理能力に秀でており、事務処理能力も申し分ない。財政管理や広報活動も行える。
それは優秀な冒険者以上に、ロウにとって必要なものだった。
だが、いくら優秀な人材であっても、こちらの言うことを聞かないのでは意味がない。
資金と人材――これらふたつの難問を、ロウは同時に解決してみせた。
ロウがどこまで計算に入れていたのか、ヌークにも推し量ることはできない。
彼が知っているのは、シズとミユリが仲違いをして教団との繋がりが切れかけたこと。ロウの取り成しにより、最悪の事態を免れたということだけだ。
さらにロウは、ヨハネス枢機卿に対して、将来的にミユリが教団の聖事に参加するよう説得することを約束した。
もちろんただではない。
交換条件は、攻略組族の支援要員兼教団との窓口担当として、シズを据えること。
ヨハネスの判断によりこの件は了承され、ヌークはロウに教団が懇意にしていた不動産屋を紹介し、シズには新たなる辞令が交付されることになったのである。
「しかしよいのか、ロウよ」
いくらユイカを助けるためとはいえ、息子であるミユリの将来を縛ることになるのではないか。
自分の立場や言動を棚に上げて、あえてヌークは問いかけたのである。
ロウは鼻で笑った。
「どうせ、消し飛びますよ」
「なに?」
「ユイカを助け出したら、ね?」
教団はユイカの愛息を勝手に神子として祭り上げ、なおかつ父親であるロウの存在を抹消した。ユイカの性格からして、ただで済むとは思えない。見て見ぬ振りをしてきたヌークも危ないだろう。
思わず渋面になったヌークに、ロウは攻略組族の登録申請用紙を渡した。
「代表は、シズさんです」
「なんだと?」
「冒険者やシェルパは、しがらみがありますから」
冒険者ギルドや案内人ギルドから呼び出しを受けたなら、応じないわけにはいかないし、無理難題を押しつけられる可能性もある。
だが、攻略組族の代表がそういった組織と無関係な人物であれば、ある程度の距離を保てるだろう。
そこまでロウは見越しているのだ。
もはや何も言うことができなくなり、ヌークは黙って登録用紙を受け取ることにした。
これで、一応の形は整った。
「“暁の鞘”、か……」
それは、登録用紙の一番上に記された攻略組族の名。
“宵闇の剣”――ユイカを迎え入れるための攻略組族。
「戦力的には、弱小だな」
登録されている戦闘要員はマリエーテのみ。支援要員として、シェルパのロウと、タエ、プリエ。そして、お手伝い要員としてミユリ。
「ええ、今は。ですが――」
ロウは遠くを見るような目をした。




