(10)
大地母神教の総本山である大神殿は、太陽城のすぐ隣にある。限られた敷地であるために、荘厳な装飾が施されてはいるが、建物の大きさ的にはそれほどではない。大神殿と呼ばれているのは、格づけのためだ。
この神殿には、大司教と四人の枢機卿が聖務に就いている。教団の最高責任者である教皇は国王が兼ねているため、実質的には大司教がトップである。ただし今の大司教は高齢の身であり、実務的には四人の枢機卿が教団の運営を取り仕切っていた。
その中のひとり、ヨハネス枢機卿は五十代半ばの男で、神殿長を兼務している。精力的な男であり、おもに布教や献金収集に才能を発揮しており、一時期は過去最大の信者数と献金額を更新する勢いであった。
しかしここ数年、彼の心は晴れず、教団の勢いには陰りが見えている。
原因はただひとつ。
今から八年前、教団の象徴たる巫女――黒姫と呼ばれ、信徒たちから崇め奉られていたユイカを失ったためだ。
ユイカは冒険者としても一流だったが、それ以上に教団にとって価値ある存在だった。
彼女が教団の聖事に姿を現わすだけで、参加する信者数の桁が増える。また、王侯貴族たちの覚えもめでたく、大口の献金もじゃかじゃか入ってきた。
だというのに、ユイカを失ってからは年を経るごとに予算は縮小し、経費削減に頭を悩ませる毎日だ。
しかし、ヨハネスには希望があった。
ユイカが残した神子、ミユリである。
母親の美貌をそのまま受け継ぎ、さらに柔和さを注ぎ込んだかのような、十歳の美少年。
専属の執事による情操教育により、母親とは違って素直で受動的な精神を育んでいるはず、であった。
だがしかし。
神子の教育係であるシズの報告を聞いたヨハネスは、希望の光が途絶え、絶望の闇が広がる様子を垣間見ることになった。
「は、反抗期、ということではないのかね? ほれ、神子さまも、一応は男の子。成長の過程として、一度は育ての親に逆らってみたくなるもの。そうであろう?」
執務室の長椅子で畏まっていたシズは、沈痛な面持ちで首を振った。
「いえ。突発的な感情の発露ではないと思われます。理性的に、拒絶されました。申しわけございません」
「き――」
貴様は、何をしていたのだ!
そう叫びたくなるのを、既のところでヨハネスは堪えた。
シズは実務面において優秀な教団の聖職者であり、助祭の地位を得ている。企画力も実行力もある。何よりも彼女は自らの職務に忠実であった。今回の件も隠そうと思えばいくらでも隠すことができるはずなのに、すべてを包み隠さず報告した。
ここは寛容の精神を見せることが、枢機卿たる者の責務であろうと、ヨハネスは考えたのだ。
「それで? 謝罪は成ったのでだろうな?」
「は、はい」
言いづらそうに、シズは言葉を続けた。
「ロウさまの、とりなしのおかげで」
「あの男か」
ヨハネスは微妙な顔をした。
シズの話では、ミユリの父親とされる青年――ロウをミユリから引き離そうとして、失敗したらしい。
親子の絆というものは予想以上に強く、これまで見せたことのない強固な態度で、ミユリはシズに、つまりは教団の方針に反発した。
場合によっては屋敷を出て、家族で生きていくのだという。
聞くところによれば、ロウは迷宮道先案内人であり、生計を立てることは不可能ではない。
「いかん、いかんぞ。我々は一度失敗しているのだ。仮に、神子さままで失うことになれば――」
さすがに献金のあてがなくなるとは口に出せない。
「王国中の信徒たちの希望が失われ、この世は、深い悲しみの雲に覆われることであろう」
ユイカの後継者づくりに、教団は一度失敗している。
三年ほど前、ヨハネスはマリエーテを妹巫女として大々的に売り出そうと企画したのだが、「冒険者になるから、絶対にいや!」と、拒絶されてしまったのである。
その時はまだミユリがいるからと諦めたのだが、これは予想外の事態であった。
怒鳴りつけたくなる心情を堪えつつ、ヨハネスは冷たい声を突きつけた。
「シズ助祭。失態続きだな」
「申しわけ、ございません」
マリエーテは素直な子供だと聞いていたのに、取り込むことに失敗した。
ミユリの冒険者育成学校への進学にしてもそうだ。
冒険者として有用な恩恵を取得できる可能性は低い。あえて“レベルアップの儀”を行わせて、冒険者への道を完全に閉ざさせて方が後顧の憂いを断つことになるだろうと説得され、入学を認めた。
しかし結果はどうか。ミユリは攻撃系のアクティブギフトを取得したというではないか。
そして極めつけは、今回の事態である。
「なんとしても、神子さまを説得しなくてはならん。そもそも、養育や教育、それに生活にかかる費用のすべてを援助していたのは、教団なのだぞ」
少なくとも母親であるユイカは、そのことを恩義を感じて、教団への協力を惜しまなかった。もっともそれは、先代の神殿長――現大司教に対する恩義が大きかったようだが。
だからこそヨハネスは、マリエーテやミユリに対して、惜しみない援助を与えたのである。
将来の自由を、縛るために。
「ですが、ヨハネスさま。私はあくまでも後見人に過ぎません。父親であるロウさまが現れたからには、立場を失います。それに、黒姫さまが残された財産を考慮するならば、教団の支援などなくても、生活は成り立っていたはず」
「だまらっしゃい!」
身勝手な投資が意味をなくした事実を冷静な口調で指摘されて、とうとうヨハネスは怒声を発した。
ぜいぜいと息を整えながら、心を落ち着かせる。
「シズ助祭。君の任を解く」
「――っ!」
冷静な女助祭は、顔を青ざめさせた。
「十一年間石化していたとはいえ、あの男――ロウ殿の身体と精神は、二十代前半の若者。それに、なかなかに行動力もあるようだ。血気盛んな若者がいる屋敷に、独り身の君を住まわせるわけにはいかんだろう?」
シズは反論することができなかった。
それ以前に、茫然自失となっていた。
叱責されることは覚悟していたが、まさか自分がミユリから引き離されることになろうとは考えてもいなかったのである。
ゆえに、自分の報告書以上にヨハネスがロウについての情報を得ていたことに対して、疑問を受けることはなかった。
その時、執務室の扉がノックされ、シズの知る人物が入ってきた。
「ヨハネス枢機卿、参上いたしました」
「おお、ヌーク殿。待っておったぞ」
浅黒い肌に強面の無表情。かつての“宵闇の剣”のメンバーであり、今は王都の冒険者ギルドのギルド長を務めているヌークだった。
シズがいたことに、ヌークは意外そうな顔をした。
「例の、攻略組族の件だがな」
「はい。実は、先方に粘られまして。度を過ぎた要求は飲めないと突っぱねたのですが。もう一度検討して欲しいと」
「いや、よいのだ。条件を認めてやってもよい。だが、ひとつ条件がある」
ヨハネスはヌークを長椅子へと案内した。その途中で、ふと気付いたようにシズに目を向けた。
「ああ、シズ助祭」
ヨハネスは言った。
「辞令は後日交付する。それまでは余計なことをせず、待機しているように」
「は、はい」
「まったく。君のおかげで、大幅な譲歩が必要になったぞ」
言われるがままに執務室を出たシズは、意識しないままに屋敷へと帰宅した。
これから荷物をまとめなくてはならない。
いや、そんなことよりも。
自分のすべてをかけて育て上げたミユリと引き離されるという事実を、シズはいまだに受け入れることができなかった。
それは、ユイカとの関係を完全に断ち切られるということでもあった。
「黒姫さま……」
シズは十五歳の時、同年代の同性の世話役ということで、ユイカの執事に抜擢された。
出会いの日は、今でも鮮明に覚えている。
圧倒的な美貌と存在感に、目を奪われた。
『私は、この世のすべての迷宮を踏破するつもりだ。だから、君のすべての力を私に捧げて欲しい』
それが、自分と同じ十五歳の少女の第一声だった。
捧げろと言われても、何をすればよいのか。
正直、従順な執事とは言い難かったかもしれない。しかし“宵闇の剣”の――ユイカの名声を高めるために、シズはあらゆる努力を惜しまなかった。
ユイカが勇者になっても、巫女として圧倒的な人気を博しても、シズは決して気を緩めることはなかった。
黒姫さまの目標は、はるかな高みにある。
この国のすべての人々を救う、大きな使命を受けていらっしゃるのだ。
しかし、ユイカはいなくなった。
そしてユイカの血を受け継ぐミユリとも、仲違いをしてしまった。
ユイカを失った時よりも喪失感が小さいことに、シズは気づいていた。
いくら似ていたとしても、ミユリはユイカではない。
その事実に、シズは気づいたのである。
ミユリの冒険者育成学校への入学を認めたのも、おそらく無自覚のうちに、少しでもユイカへ近づいて欲しいと考えたから。
自分は、ミユリをユイカの代替品として――
「……嫌われて、当然ですね」
虚ろな視線を落としながら屋敷に入ろうとすると、玄関から出てくる中年太りの男と出会った。
それは見知った客人だった。
「これは、シズさま」
教団が懇意にしている不動産屋である。
ロウを追い出した先の住まいを探す時にも、この不動産屋に仲介を依頼していた。残念ながら、キャンセルしなければならないが。
しかし、今日は彼を呼んだ覚えはない。
「いえ、こちらのご主人からお呼びがかかりましてね。何しろ、大きな物件を探しているのだとか。いや、是非とも協力させていただきます、はい」
不動産屋が立ち去ると、シズはしばし呆然と立ち尽くし、それから両手の拳をぎゅっと握りしめた。
凍りついた心の奥底から、どす黒い怒りの炎が生まれてくる。
あのおさげが、自分からすべてを奪った。
ミユリも、マリエーテも、メイドたちの信頼も、そして――
「ロウさま!」
屋敷に入ったシズは、玄関先でマリエーテと立ち話をしているロウを見つけた。
「やあ、シズさん。おかえりなさい」
のん気な挨拶を無視して、シズは詰問した。
「一体、どういうことですか」
「どうとは?」
「先ほどの、不動産屋です!」
「ああ」
まるで悪戯がバレた少年のように、ロウは頭をかいた。
「ちょっと、新しい仕事場が必要になりまして」
「余計なことを、しないで!」
頭の片隅では、もはや手遅れであることをシズは理解していた。
ロウはマリエーテとミユリを連れて、この屋敷を出ていくつもりなのだ。
教団との繋がりが切れてしまえば、もう二度とミユリと会うことはできなくなる。
「私から――」
涙を流しながら、シズは叫んでしまった。
「黒姫さまを、奪わないでっ!」
彼女の面影を、彼女との繋がりを。
あまりの剣幕と大声に驚いたのか、メイドのタエとプリエがやってきた。
息苦しいほどの沈黙の中、マリエーテが気遣わしげに声をかけようとする。
その行為を、ロウが制した。
「シズさん」
ロウは笑っていなかった。
おそらく、これが男の本性なのだろう。
冷たい視線でシズを見据えながら、ロウは断固たる口調で宣言した。
「俺は、自分の目的のために必要なものは、必ず手に入れます。たとえ、どんな手を使ってでも――」
シズは膝から崩れ落ちた。




