(5)
「ピクニック、でございますか?」
眼鏡の奥で、シズは小さく瞬きをした。
朝食の席である。
「ええ」
ミユリの父親――とされる人物が、にこにこと微笑みながら頷いた。
曰く、現状についてはおおよそ把握することができた。世間では十一年の時が過ぎ、妹は立派に成長して、可愛らしい息子までいた。それはとても喜ばしいことだが、時間の隔たりはあまりにも大きい。互いの溝を埋めるためにも、是非ともピクニックを行いたいのです。
表情にこそ出さなかったものの、内心シズは戸惑っていた。
“離れ”の部屋で十年以上も鎮座していた石像だったものが、同じ食卓についている。
青年の名前は、ロウ。
シズが仕えていたユイカの婚約者であり、ミユリの父親であり、マリエーテの兄だという。
頭の中では理解したつもりでも、純粋な世界に異物が入り込んでしまったような違和感を覚えてしまうのだ。
「マリエーテとミユリのこともそうですが、シズさんやタエさん、プリエさんのことも、俺はよく知りません。今後のこともありますし、ここはひとつ、親交を深める行事ということで、みなさんもごいっしょにいかがですか?」
さわやかな笑顔で提案してくる。
「ピクニック! いいですねぇ」
ぽんと両手を叩いて賛成したのは、プリエである。
採用された当時は、やや落ち着きに欠ける傾向にあったが、結婚と出産を経て、今は朗らかな雰囲気をかもし出している。
「っていうか、やったことありましたっけ?」
「あたしが知る限りでは、ないわね」
タエが難しい顔で考え込む。齢五十を超える熟練メイドで、情に厚く頼りがいのある存在だ。
「お姫さまが小さい頃に、何度かお誘いしたことはあったのだけど」
少女時代のユイカは、真顔で聞き返したらしい。
『それをすることに、何か意味はあるのか?』
話を聞いて、ロウは苦笑した。
「まあ、彼女らしいといえば、そうかもしれませんね」
――貴方に、黒姫さまの何が!
とっさに沸き起こった激情を、シズは抑えた。
「ピクニック……」
ぽつりと呟いたのは、ロウの隣にいたマリエーテである。
「マリンは四歳だったから、覚えてないか」
「覚えてる!」
興奮したように、マリエーテは断片的な記憶を語った。
森の中にきれいなお花畑があったこと。そこで真っ白な兎に出会ったこと。小川で釣りをしたこと。自分だけ一匹も釣れず泣いてしまったこと。ロウとユイカと三人でガジの実採りをしたこと。持ち帰って、煮詰めてジャムを作ったこと。
他愛のない思い出話を無邪気に話す少女は、年相応というよりもどこか幼ささえ感じさせた。
思わずシズは、目を見張っていた。
昨夜に続いて二度目の驚きである。
マリエーテは普段、めったに感情を表に出さない。
食事中は会話などしないし、食べ終えるとすぐに自分の部屋に戻ってしまう。大人びているというよりは、冷めきっているという印象が強かった。
少女が感情を露わにするのは、ミユリの教育方針を巡って自分と争う時くらいだ。まるで別人になったように冷たい顔で、激しい怒りをぶつけてくる。
残念ながら自分がマリエーテに嫌われていることを、シズは自覚していたが、シズ自身はマリエーテのことを嫌ってはいなかった。それに、後見人としての義務を疎かにするつもりもない。できるかぎりのサポートをしてきたつもりだ。それでも、一抹の寂しさは感じてしまう。
昔は、素直で優しい子だった。
黒姫さまがいなくなるまでは。
……いや、本当にそうだったか。
「僕、ピクニック、したことありません」
これもまた珍しいことに、ミユリが拗ねたように言った。
「ご、ごめんね、ミュウ。私、お兄ちゃんにいっぱい連れていってもらったのに。ミュウには何もしてあげられなかった」
「いいんです。マリン姉さまはとても忙しくて、それどころじゃなかったんですから」
互いを気遣う姉弟の様子をロウは静かに見守っていたが、不意にシズの方に視線を向けた。
「ピクニックといっても、街の近郊で落ち着ける場所があれば、どこでもかまいません。時間も半日ほどです。どうですか、シズさん?」
「そう、ですわね」
本来であれば理由をつけて断るところだが、今のシズにはとある使命があった。
これは、相手の――
「互いのひととなりを知る、いい機会かもしれませんよ?」
驚きで、一瞬だけ呼吸が止まる。
気のせいだろうか。
笑顔の後ろで揺れたおさげの髪が、まるで悪魔の尻尾のように見えた。
執事であり後見人でもあるシズは、ミユリに対して英才教育を施してきた。
基礎教育はもちろんのこと、貴族階級でも通じる礼儀作法や各種習い事、文学、芸術、体力づくりに剣術、そして大地母神に対する信仰と教義。
「多くの人々が“終焉の予言”を恐れ、嘆き、救いを求めているのです。彼らを救えるのは、神子さまをおいて他にはいらっしゃいません」
常人では抱えきれないほどの期待に、ミユリは応えてきた。
とはいえ、時おり不安そうな表情を見せることはある。そんな時シズは、ユイカの名を出して励ました。
「黒姫さま――お母さまも歩まれた道です。だいじょうぶ。神子さまならば、きっとできます。自信をお持ちください」
正直、好き嫌いがはっきりしていて、自分が納得できない時にはてこでも動かなかったユイカよりも、受動性という点においてミユリは優っていると、シズは評価していた。
性格面だけではない。
母親譲りの美貌は柔和さを含み、神秘性と親しみやすさという相反する要素を、矛盾なく共存させている。
十五歳で“成人の儀”を迎えたあかつきには、信者たちの前で大々的にお披露目を行い、礼拝を司式する予定だった。
さぞや素晴らしい式典となるだろう。
輝かしい未来を夢想するシズだったが、大きな計算違いが発生した。
冒険者育成学校への進学を、ミユリが強く希望したのである。
「母さまと同じ道を歩むのですから、問題はないですよね?」
こう言われてしまっては返す言葉もない。
しかしこれは渡りに舟だとシズは思った。
シズがミユリに抱いていた唯一の不安、あるいは不満――それは、ミユリの気性の弱さだった。この点においては、ユイカやマリエーテに遠く及ばないだろう。
温厚で、どちらかといえばひと見知りする性格のミユリには、他者と交流する経験が必要だとシズは考えていたのだ。
もちろん、付き合うひとは慎重に選ばなくてはならない。
冒険者という輩は素養の低い、粗野で粗忽な者ばかりだが、冒険者育成学校に通う生徒たちは違う。
高額な授業料を払える家の者しか入学することはできないし、冒険者になるためというよりは、“レベルアップの儀”による基礎能力向上という恩恵を受けるために通わせている親たちがほとんどである。
ようするに育成学校とは、上流階級に属する子供たちの“箱庭”なのだ。
他の学生たちとの交流が深まれば、将来の支援者になる可能性もあるだろう。
安全面における配慮は必要だが、教団に依頼して護衛をつければ問題はない。
それに、レベルアップで迷宮攻略に有用なギフトを取得することができなければ、結局のところ冒険者の道を諦めることになる。
未練を断ち切るという意味においても、こちらの方が得策なのではないか。
現実的な計算を加味して、シズは育成学校入学の許可を出した。
ミユリの育成計画において、この進路選択は大きな影響を及ぼすことになる。
これまで以上に、それこそ睡眠時間を削るくらいの過密スケジュールを組まざるを得なくなったのだ。
当然のことながら、ピクニックなどという世俗的な行事のために割ける時間はない。
しかしシズは、いくつかの習いごとをキャンセルすると、半日ほどの時間を捻出した。
さらには、教団の関係者にピクニックにふさわしい候補地を聞き出して、ひとを派遣して交通ルートや現地の安全性を確認させ、さらには四人乗りの高速馬車を二台手配した。
そして、ピクニック当日を迎えた。
一台にロウ、マリエーテ、ミユリ、シズが、もう一台にタエ、プリエ、そして護衛役のふたりが乗り込む。
「では、出発いたします」
目的地は、王都の近郊にあるピッケの森である。ひとの手の入った安全な森で、この時期、草花が美しく咲き誇っているという。
「鑑賞いただける草花は、トマの花、シュリの花、桃ユリ、ベル薔薇、カルロ草、ミク草などです。ベル薔薇の茎には棘がありますので、注意が必要です。それぞれの特徴や挿絵につきましては、お配りした“しおり”をご覧ください。また、冬眠から覚めたケロヘビが出ることも予想されますが……」
説明を終えると、シズは手帳をぱたんと閉じた。
「――以上です。質問などございますでしょうか?」
一瞬、馬車内に微妙な沈黙が舞い降りた。
ピクニックに対するシズの力の入れように、マリエーテですら飲まれた格好だが、ロウはにこにこと感心したように褒め称えた。
「いやぁ、短期間でここまで準備や調整をしていただけるとは。シズさんは、とても優秀な方ですね」
「仕事ですので」
短く、シズは答えた。
ミユリの教育方針を曲げてまでピクニックを強行したのは、ひとえにこの男、ロウのひととなりを知るためだ。
今後のロウの、ミユリに対する立ち振る舞いによっては、教団の利害関係と対立する可能性がある。
まずは人物を見定め、必要があれば忠告し、それでも立場わきまえないのであれば、しかるべき処置をとる。
それが、教団の上層部がシズに与えた使命だった。




