第五章 (1)
ミユリにとって家族と呼べる存在は、五歳年上のマリエーテだけだった。血筋的には叔母にあたるのだが、姉のような――いや、それ以上の存在である。
七年前、ミユリが三歳の時に、ミユリの母親は王都の郊外にある無限迷宮で行方不明になった。
だから、ほとんど記憶がない。
幼いころ、母親の面影を追い求めて、マリエーテや執事のシズ、そしてメイドのタエとプリエに聞いて回ったことがある。
「母さまは、どんな方?」
表現は様々だったが、話をまとめると、強くて美しいひと――だったらしい。
“宵闇の剣”という冒険者パーティのリーダーを務めていた母親は、冒険者パーティ番付表で東の勇者にまで登りつめ、現時点においても無限迷宮の最深到達記録である地下八十階層に潜行した、第一級の冒険者だったという。
ふたつ名は、“死霊使い”。
ずいぶんとおどろおどろしい異名である。
ちなみに、父親とは毎日顔を合わせている。冒険者育成学校に出かける前に、いつも“離れ”の部屋で「いってきます」の挨拶をするからだ。
しかし、返事は返ってこない。
比喩的な意味でなく、父親は動かぬ石像だった。
巨大な剣を地面に突き刺し、片膝をつくような格好で固まっている。白い骸骨の仮面と漆黒の長外套を身につけており、その姿はまるで石化した死霊のよう。
母親が“死霊使い”で、父親が死霊?
ふたりは一体、どういう関係だったのか。
幼い頃からの疑問は、いまだに解き明かされていない。
「ミュウ、お父さんとお母さんに、会いたい?」
「はい、姉さま」
「わかった。お姉ちゃんがぜったいに助けてみせるから!」
時おり姉マリエーテは、ミユリを抱きしめながら力強く宣言した。
そんな時、姉の身体がかすかに震えていることを、ミユリは知っていた。
ひょっとすると姉は、自分自身を励ますために、そう宣言していたのかもしれない。
というのは、ミユリは目撃してしまったのである。
皆が寝静まった夜、頼りないランプの光に照らされた“離れ”の部屋。もの言わぬ石像の前で声を殺しながら泣いている姉の姿を。
弱音を吐かず、涙も見せない、頑張り屋の姉。
礼儀作法に厳しく、無駄使いや食べ残しを決してゆるさない姉。
強くて、たくましくて、あたたかい。
そんな姉が、石像にすがりつくようにして、震えながら泣いていたのだ。
息を殺すようにして部屋に戻ったミユリは、ベッドの中でひとつの決意を固めた。
自分も冒険者育成学校に入って、マリン姉さまの力になろう。
そして、母さまを助けるのだ。
七歳になったミユリは、やや強引に自分の希望を通して、育成学校に通うことになった。
学校で見る姉は、少し違っていた。
冷たく、無表情で、近寄りがたい。
友人も作らず、時間があればひとりで勉強や訓練に打ち込んでいた。自分にも厳しいが、他者にも容赦はしなかったようで、敵ばかり作っていた姉の評判は、正直、芳しいものではなかった。
それでも集団から排除されることなく、みなに一目置かれていたのは、筆記や実技の成績が優秀だったから――ではない。
“試練”に打ち勝ったからである。
四年生の時に初めて行われる“レベルアップの儀”で、姉は攻撃系の魔法ギフトを取得した。
そして翌年、ミユリが入学した年には、別の属性の魔法ギフトを取得した。
魔導師。
ひとつの魔法ギフト――攻撃系に限る――を取得した冒険者は、魔術師という職種を選択することができる。
さらに別の属性の魔法ギフトを取得すると、それは魔導師となる。
現在、王都の冒険者ギルドに魔導師として登録されている冒険者の数は、わずか三十人足らず。その貴重な職種になれる権利を、冒険者の卵である姉はすでに手に入れたのだ。
ちなみに三属性以上の魔法ギフトを持つ者は賢者と呼ばれるが、この職種で登録されている冒険者は、養育学校の特別顧問を務めているマジカンだけである。唯一の存在であるがゆえに、彼のふたつ名もまた“賢者”なのだ。
どんなに頭がよくても、身体能力が高くても、剣術の腕があろうとも、レベルアップ時に得られるギフトによって、冒険者としての“格”は定まってしまう。あまりにも運の要素が強く、無慈悲な“試練”であった。
魔法ギフトの連続取得という偉業を成し遂げたマリエーテの噂は、冒険者育成学校どころか冒険者界隈にまで轟くことになる。
有用なギフトを得た瞬間、有頂天となる学生たちと違って、育成学校での姉は冷静そのものだった。
だが、実際は違った。
時属性というとても珍しい属性の魔法を取得した姉は、まるで取り憑かれたかのように“離れ”の部屋にこもり、石像に向かって“逆差時計”という魔法を行使するようになったのである。
朝、出かける前。お昼の休憩時間。そして夜の就寝前には魔力が枯渇し、気を失うまで。
執事のシズが注意しても、メイドのタエとプリエが懇願しても、ミユリが泣きながらお願いしても、決してやめようとしなかった。
最後にはみなも説得を諦め、マナポーションや倒れた時の毛布などを用意して、少しでも姉の負担を減らそうとした。
そしてついに、奇跡は訪れた。
それは、とある春の日の朝のこと。
いつものように姉が“逆差時計”の魔法をかけてから、ふたりで石像に向かって「いってきます」の挨拶をする。
そのはずだった。
だが、複雑な魔法陣が弾けた瞬間、石像が鮮やかに色づき、肩を大きく動かして、ふうと息をついたのである。
ミユリは呼吸すら忘れて、眼前に舞い降りた奇跡を前にただただ呆然としていた。
「お兄、ちゃん……」
“逆差時計”は、効果範囲内の時間を巻き戻す魔法。十一年という時を経て、石化していたミユリの父親は、もとの状態を取り戻したのである。
「お兄ちゃん!」
ぼろぼろと涙をこぼしながら、姉は父親に抱きついた。
一方、ミユリにはまだ心の準備ができていなかった。
だから、石像から戻った男に「この子は?」と問われた時、あからさまに動揺した。
鼓動がどんどん高まっていく。
男は何かに気づいたように、骸骨の仮面に手をかけた。
その素顔は、無骨な戦士のそれだとミユリは考えていた。あるいは大きな傷を隠すために仮面をしているのではないかと。
予想は外れた。
いたって普通の――ひとのよさそうな青年の顔が露わになった。
瞳の色はこげ茶色。髪は小麦の穂の色で、首の後ろで束ねておさげにしている。
優しげな笑顔が、こちらに向けられた。
「……ぁう」
どくんと胸が音を立て、ミユリは真っ赤になって俯いた。
「ひょっとして、俺とユイカの、子供かな?」
「すごい、お兄ちゃん! わかるの?」
「当たり前だよ」
嬉しそうに抱きつく姉の姿を見て、ミユリは心から安堵した。
今までずっと、姉は無理をしてきた。
最近では、家でも笑顔を見せることはなくなった。睡眠時間を削ってまで、学業に打ち込み、気を失うまで魔法をかけ続けた。
このままの状態が続けば、いずれ姉は倒れてしまう。
胸が張り裂けそうな予感は、この瞬間――すべてが吹き飛んだのである。
姉さまが、泣いている。
自分の前で遠慮なく。
もうだいじょうぶ。
頼るべき相手を、姉は見つけたのだ。
それが自分であろうと他の誰かであろうとかまわない。
ミユリは姉のことを助けたかった。
助けて欲しかったのだ。
あまりにも嬉しすぎて自分も泣きそうになり、それを誤魔化すために、ミユリは姉とともに父親に抱きついた。




